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絶家と復活(教来石・高橋)

1・教来石氏は絶家していた馬場家を継いだ。こちらは馬場、教来石とも祖先が同じ。しかし主君武田晴信が言い渡していました(ドラマの影響です)。それまで誰も自分から継ぐとは言い出さなかったのか? 2・安芸の国人領主高橋氏は絶家後、毛利元就の家臣?が継いだ?(これも以前ドラマで言っていたような・・・自信無し)こちらは元就の兄嫁の里というだけ。絶家になった場合、血縁者以外が継承した例もよくあったのでしょうか? また有名な例で戦国期の絶家した大名(領主)を教えてください。

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noname#113190
noname#113190
回答No.3

高橋氏は毛利元就の兄興元の妻の実家で、興元が亡くなった後は嫡男の幸松丸の外戚として、高橋久光が毛利家の後見人になっていましたが、加井妻城攻めで戦死すると間もなく幸松丸も病死して、毛利家と高橋家は対立関係になります。 その後、元就が調略によって高橋一族に内紛を起こさせ、自滅に追い込んだため、本家は断絶しますが、庶家は毛利の武将出羽氏に属し、やがて大林郡の庄屋として江戸期に続きます。 他人が他家を継ぐことは珍しいことではなく、近世でも乃木希典の乃木伯爵家も例の殉死で絶えますけど、3年後に旧主の毛利家の縁者元智が乃木家を継いだ例もあります。(世間の非難を浴びて毛利に復姓) 戦国期でも村上源氏の名門伊勢の北畠氏は織田信長に乗っ取られ、次男の信雄が継いでいます。 上杉謙信も本来は上杉家とは関係ない人物で、上野国主山内上杉家の上杉憲政が北条に追われて越後に逃げ込み、家名と管領の名跡を長尾影虎に譲ったもの、 また有名どころでは、細川家、信長に使えた細川藤孝が有名ですが、本姓は三淵、両家とも足利庶流で無関係ではないですけど、本家ではない。 諏訪氏も全く縁がないわけではないが、諏訪勝頼は武田信玄の息子で、実質的な乗っ取り。 九州の名族惟任氏も結局は縁もゆかりも無い明智光秀が名乗って「惟任日向守」と称するようになったし、征服者が国人を味方にするためその地の古い有力者の姓を名乗ることはよくあります。

hirarno36
質問者

お礼

>本家は断絶しますが、庶家は毛利の武将出羽氏に属し、やがて大林郡の庄屋として江戸期に続きます そうなんですか。高橋家のモヤモヤしていた部分が鮮明になりました。 出羽氏と高橋家は直接の血縁ではないのですね。 乃木伯爵の話もそうですが、血縁者以外が跡を継ぐことは少なからず非難を浴びたのでしょうね。 北畠信雄、諏訪勝頼の例は完全な乗っ取りですね。名乗りで地元勢力(または旧主一族)を納得させる手段ですか。その点惟任氏は不可解ですね。明智は美濃の名族ですし、わざわざ九州の名族を名乗って日向を支配する訳でもなかったでしょうに・・・ 細川藤孝は確か三渕晴員の息子?では無かったのですか。 沢山の例をあげていただいてありがとうございました。

その他の回答 (4)

noname#113190
noname#113190
回答No.5

織田信長の家臣が九州に縁のある姓を名乗るのは、中国の毛利を下した後、九州平定の目的があったためと思います。 羽柴筑前守(筑前は福岡西部)、惟任日向守(明智光秀:惟任は九州の名族、日向は宮崎県)、惟住五郎左衛門尉(丹羽長秀:惟住は九州の名族)、別喜右近大夫(簗田広正:別喜も九州の名族)、原田備中守(塙直政:原田は九州の名族)。 日本を平定した後は、彼らを九州に配して、織田の直轄領とし、あわよくば海外に出る気もあったのではないかな。 朝倉氏を頼ったのは斎藤龍興ですね。 竹中半兵衛に城を乗っ取られたり、無能といわれていますが、朝倉義景とともに刀根坂の戦いでは踏みと止まって戦死していますから、腑抜けではなかったと思います。 彼も一色を名乗ることもあったようです。 この場合の一色氏は丹後の一色氏で、一色義清の縁者と称しています。

hirarno36
質問者

お礼

3度の回答でお礼中疑問にお答えいただいて感謝しています。 明智惟任(なぜ名門土岐一族が、の疑問)以下織田家の面々は先のことを考えての名乗り(あえて名乗りと言わせてもらいます)ですね。 絶家と復活からはずれてしまいましたが、よく分かりすっきりしました。ちなみに別喜氏はあの戸次家で立花道雪の出自のことですね。 斉藤は義龍ではなく龍興でしたね。失礼しました。なぜか名門丹後一色家なのですね。 名乗りをすること(血縁ではなくてもOK)があることがよくわかりました。これを復活と素直に呼べるかは別として。 回答ありがとうございました。

noname#113190
noname#113190
回答No.4

思い出した例では 「長井氏(美濃)・斎藤氏(美濃)」 両家とも美濃の名門だが、西村勘九郎が継いだ、後の斉藤道三。 子供の斎藤義龍は父親殺しの汚名を避けるため、河内源氏の名門一色氏を名乗り、一色左京大夫と名乗った。

hirarno36
質問者

お礼

一色氏は丹後の名族の方ですか?一色左京太夫は斉藤義龍だったのですか。驚きました。義龍は朝倉氏を頼って越前に逃亡したのでしたっけ?(龍興だったかな?) 斉藤氏は出自からして諸説あり謎が多いですね。 再度の回答ありがとうございました。

  • tanuki4u
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回答No.2

元和偃武までを戦国時代とすると(という説もあるので)最も有名な絶家した大名は「豊臣家」ということになります。 負け組の戦国史<平凡社新書 391 を読んだのですが、戦国期の大名家レベルですと、旗本になって残ったとか、転封してきた大名家の家来になって残ったとか、ざっと読んだ記憶では、「どこに行ったんだろうね、あの大名家」というのは無いようです。 血縁者以外の継承 惟任家 < ご存じ明智光秀が継承したことになっている、九州の名門。 惟住家 < こっちは、丹羽長秀 北条家 < 後北条家 北条早雲の息子の代から 北条家を名乗る

hirarno36
質問者

お礼

豊臣というのは無理やり作った公卿家ですね。血縁が極端に少ない支配者の末路の代表です。やはり兄弟や子が少ない(無い)のは致命的ですね。 惟任家。明智「惟任」光秀。これがあの九州名族のことだったのですか。初めて知りました。 北条家。そうですね。こちらは北条家に伊勢新九郎が無理やり養子に入って名跡を継いだという説もあります。どちらにしても血縁ではありませんね。 回答ありがとうございました。

  • 6dou_rinne
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回答No.1

あとを継ぐといっても家名を継ぐだけのことで、そういう例はよくあります。 徳川家康の子、信吉が武田の名跡を継いだ例もあります(まったく血縁関係はありません)。

hirarno36
質問者

お礼

そういえば、家名ではありませんが、赤備えも徳川家臣、井伊家がそっくりそのまま取り込みましたね。 武田と言う旧主の地元、甲斐をまとめるには名前を継ぐのが手っ取り早いということでしょうか。徳川はこのへん抜かりがないのが流石です。 回答ありがとうございます。 それにしても何故教来石氏は自分から馬場を名乗らずに主君晴信に言われて家をついだのでしょうか?恐れ多い家柄だったのでしょうか?