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ナポレオン1世は、いつジャンヌ・ダルクを象徴としてとりあげたのですか?
最近ジャンヌダルクに少しばかりはまっています。 少しなのですが、本を読んだり映画を見たり。 色々な謎もあったりを、わくわくして楽しんでいます。 その中で今、一番気になるのが、 ナポレオン1世がいつオルレアンでジャンヌのお祭りに参加したのか? と言う事なんです。 近年ジャンヌダルクを象徴として有名にしたのはナポレオン1世 であるとの事。(このサイトでも説明がありますが) それがいつ頃の事なのか教えて頂きたいのです。 ジャンヌについての色々な推測まじりの謎と違って、ナポレオンが オルレアンのジャンヌの祭りに参加した時期等ははっきりした事実 だと思うのですが、歴史的に特に重要な事でないからか、ジャンヌやナポレオンに関する本を図書館などで色々見てみたのですがよくわかりません。 もし、お詳しい方がおいでましたらお教えいただけたらと思います。 もし何かの本に書かれているようでしたらその図書もお教えいただければうれしいです。 なんだか、ジャンヌ自身の事でない部分にひっかかってしまって自分でも重要性低いなぁ、と思いつつ一度気になると抜け出せない状態になってしまって困っています。(笑) おヒマな時で結構ですので、是非よろしくおねがいします。
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ジャンヌ・ダルクについてはさほど知りませんが フランス語のwikiには1817年に刊行された本が 彼女の再評価の流れをきめたような感じで書いてありますね。 どの記述をみても、本格的な再評価はナポレオン統治時代に始まり、 その終わりごろにはだいたい流れが定着し、 第一次世界大戦のころに本格的な国民的スターになったというのが 基本的な路線のようです。 そして1920年に聖人に列せられるというわけ。 この顛末には、政治的作為と、大衆世論が大きくかかわっており 誰かがどうこうしたとかいうことではないです。 ナショナリズムを背景としたある種のムーブメントといえるかな。 私が知る限りですが、 ナポレオンはオルレアンの祭りなどには参加してないと思います。 というのも革命時期はカトリック関係の祝祭は禁止されてましたし 少なくともコンコルダートまでは、カトリックの宗教行事と 関わることは無理だったでしょう。 そもそもジャンヌはブルボン家を支持する王党派だったわけで 共和派の立場からは余り好ましい人物ではありません。 ただ貧しい生まれで、貴族ではないことから、 生まれは平等主義の観点からは評価もできたでしょう。 もともとジャンヌ・ダルクとはローカルヒロインであり、 歴史を振り返れば、パリ市民に破れ、オルレアン派に捕まっており、 要するにフランス人に対して負けて、捕まった人間。 宗教的な奇跡云々はおいておいても、歴史としては 君主擁護者だったという点以外ではフランスに名誉をもたらしたとは言いがたいのですが ナポレオンは政治的意図をもって、この人物を 新しくイギリスを駆逐(しようとした)”フランスの英雄”という 新たな観点を与えたということろがナポレオンのジャンヌ像への影響の主な部分です。 しかしだからといって個人的に熱心に運動したわけでもないはずです。 その必要もありませんからね。 関心をもっていたわけでもないでしょう。 要するにメディア操作であり、言論統制、あるいは世論誘導です。 ナポレオンにとっては、ジャンヌはその材料に過ぎません。 歴史的にはジャンヌはフランスを救おうとしたわけではないし、 そもそも中世当時はフランスなる国民国家は存在しなかったわけですが、 ナポレオンそういう歴史的事実を若干捻じ曲げて偶像をつくりだす きっかけをつくったというところでしょう。 1803年ごろに言及があったと調べたそうですが、その時期に そういったことが行われたことは合理的といえるでしょう。 ナポレオンは皇帝を目指し、かつ宗教和解を進めていましたから、 ローカルな庶民の英雄に脚光を与えてることは好ましいです。 カトリック信仰深い人にとっては宗教的寛容であり、 カトリック信仰を捨てた人々にとっては非教会系のヒロインということで 折り合いが付けやすい。 ナポレオンは、シャルルマーニュの模倣を始め、その後継者を 自認するようになりますが、ジャンヌにしても、 国民的ヒーローの系譜のようなものを示して、 自分もそれに列する人物である、あるいはフランスにはそういうリーダーが 必要であるということを世論操作しよういうのでしょう。 彼が皇帝になる過程、あるいは動機のひとつには 政治的な安定というものがあって、革命によって分裂した国家を 制度的、精神的に再統合しようというもので、 かつ世襲によってそれを永続化しようと考えたわけです。 ジャンヌ自身はさっきいったようにナポレオンの時代には 反イギリスという以外には共通点はありませんが、 (もともとフランスなど国を擬人化するときは女性を用いたので) フランスの守護者としてのイメージが 後年たかまっていって、広まっていったわけで、 振り返ってみて、ナポレオンのころに始まったんだなぁという程度です。 ま、この流れは、要するにナショナリズムの高揚とほぼ同義でしょうね。
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- alpha123
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ボナパルト 1803年 フランスの独立が脅かされるときには、優れた英雄が出てかならず奇跡をもたらしてくれることを、あの有名なジャンヌ・ダルクは証明している http://homepage3.nifty.com/ryuota/jeannedarc.html これはオルレアン市がジャンヌ像再建目指したときにナポレオンが寄せた言葉。まもなく彼は皇帝になる(第1帝政) イングランドとの緊張高まり国内の意思統一(ナショナリズム)って面はある。 シャルルがジャンヌ見捨て(身代金払う手はあったが貴族(政府首脳)にすれば田舎娘のことだ)、のち復権させるのはイングランド側のヘンリー6世もフランス王名乗り2国王になったから権威高めるため、ブルゴーニュ派押さえ国内統一した余裕ともいえるが。 ブルゴーニュ公国はパリからフランス北部、ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ、アルザス、ロレーヌまで支配したがのち滅亡、領地没収(フランスに組み入れたのはいまのブルゴーニュだけ)市民に分配したのでユグノー(カルヴァン派)浸透した。 ジャンヌはオルレアンとドンレミでは英雄です(飛び地の直轄領で免税特権あった。ジャンヌの家は教会の隣り、教会に行くのが好きだったという逸話残る) 復権後もローカルな存在でパリでは王室(途中交代あった)含めてジャンヌ尊敬の形跡ない(イングランド的魔女呼ばわり) ジャンヌ像は非カトリック教徒(プロテスタントや英国教会)にすればカトリックの象徴で混乱で焼かれる。
お礼
お礼がおそくなってしまって申し訳ありません。 やはりボナパルト 1803年なんですね。 ありがとうございました。
- nacam
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私自身は、ナポレオン1世が、ジャンヌダルクの再評価かにかかわったとする事には、疑問を持っています。 質問者の方が、その知識を仕入れたところから、追求してゆく必要があると思います。 私がナポレオン1世が再評価した事に関して疑問を持つのは、ジャンヌ・ダルクという極めてフランス的なものを、ヨーロッパを実質的に支配したナポレオンにとって、ある意味受け入れがたい地域がでてくる事を想定したとすれば、当然それを鼓舞する行為はできないと思います。 たとえばベルギーですが、ベルギーはジャンヌを捕らえたブルゴーニュ公国の後裔です。 またフランス国内のブルゴーニュ地方もそうです。 当時のパリは、ブルゴーニュ派最大の拠点で、ジャンヌを負傷・敗退させています。 フランスが、大きく伸びようとしている時、大きく伸びた時に、救国の英雄は必要とされません。 ジャンヌ関係の資料や研究文献が、多数発表されるのは、ナポレオン3世の時代以降です。 ナポレオン1世の1800年ころではなく、ナポレオン3世の1850年以降に多数の文献が出るようになっています。 ナポレオン3世は、フランス至上主義者で、フランスを徹底的に美化し、国民の人気を得ました。 彼の性格、当時のフランスが置かれた国際情勢、研究文献の出現などを考えますと、ジャンヌを英雄視したのは、ナポレオン1世ではなく、ナポレオン3世ではないかと思われます。 ナポレオン1世ではなく、ナポレオン3世で調べ直してみてください。 >パリ周辺ではナポレオンが評価する以前からジャンヌの再評価がさてれいたとの事。 この件にも疑問です。 後期百年戦争の本質は、フランス北部を中心とする商業・工業資本の代表であるブルゴーニュ派と、南部を中心とする農業資本の代表であるアルマニャック派との対立です。 そのため、当時のパリは、商業資本中心でしたので、ブルゴーニュ派に属していました。 農業資本の最前線拠点が、オルレアンなのです。 (国王の弟オルレアン公ルイが、当初のアルマニャック派の中心人物であり、フランドルを支配した国王の従兄弟ブルゴーニュ公フィリップが、ブルゴーニュ派の中心人物です) オルレアン公ルイは、国王シャルル6世を抱き込んで、ブルゴーニュ派の追放をはかったため、ブルゴーニュ公は、フランス国王位をねらうイギリスと組んだのです。 (ブルゴーニュ公の支配するフランドルでの最大の産業は、毛織物工業で、そのフランドルに羊毛を最も供給していたのがイングランドだったという理由もあります) 当然ジャンヌは、アルマニャック派に属しており、パリを攻撃し撃退されています。 国王シャルル7世がジャンヌなどの活躍により、国王に即位できた後、ジャンヌに急に冷たくなるのは、国王としてフランスの統一(アルマニャック派とブルゴーニュ派の和平)を望んだためであり、和平に不満を持ちブルゴーニュ派の街を勝手に攻撃し略奪するジャンヌ達を優遇するわけにはゆきませんでした。 こういった事を考えますと、フランス革命以前に、パリ周辺でジャンヌが評価されていたとは思えません。 むしろ評価されていたとすれば、アルマニャック派の拠点であるロワール川の南岸地域(ポワチエ、ブールジュ、ツールなど)だと思います。 >違った新しい時代になにかのきっかけで再評価されたものなのでしょうか。 ナポレオン3世の時代だとしての回答です。 ナポレオン1世の敗退後、フランスの勢力はフランス国内に押し込められてしまいました。 その事に対する国民の不満などが背景にあり、その不満がナポレオン3世を登場させます。 ジャンヌの復権も、それが下地となっていると思われます。 >ナポレオンが「ジャンヌはフランスの救世主」とした時期は皇帝即位後のことなのでしょうか。年代等具体的なものをご存じないでしょうか。 しっかりした研究論文として最も早いものの出版が、1850年ですから、ナポレオン3世が、ルイ・ナポレオンとして大統領にあった時期です。そのため、皇帝として即位前であったと思われます。 (そういった文献が出てから認めた事も考えられますが)
補足
お返事遅くなり申し訳ありません。 また、くわしい情報をありがとうございました。 なるほど。 ナポレオン3世。。。と思い図書館に行って調べてみましたが、 3世に関する書籍ってあまりなくて結局わからずじましでした。 せっかくなのでレジーヌ・ペルヌーさんや高山和彦さんのジャンヌ に関する図書も再読してみました。 すると高山さんの書籍に1803年にナポレオンボナパルトが賛辞を記したと言う文を発見しました。 しかしたった一行なのでこれ以上のことがわかりません。 もし、このことに関してなにかお知りのことがあればお教えいただけないでしょうか。 また3世について参考になるような書籍の名前がわかりましたらお教えいただければ幸いです。
- alpha123
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ジャンヌの時代、イングランドは強力な国家でノルマンディ(フランスの北部地方)は占領されていた。フランスでもブルゴーニュはイングランドと組んでいた(百年戦争)。 シャルル6世の死後フランス王位は空位でイングランドの影響下でヘンリー6世が相続(まだ子供、戴冠式は行えず)。父の約束(ヘンリー5世とシャルル6世)でヘンリーの子とシャルルの娘を結婚させ、その子に継がせる(イングランドとフランスの統合)トロア条約。 フランスの王太子シャルル(のちのシャルル7世)排除ってことだからフランスの貴族は反対した。1412年生まれのジャンヌはイングランド占領地内のシャルル派飛び地の人です。1429年イングランド支配地突破してシャルルに会い励まし王位に就かせようとする。 1429年オルレアンはイングランド軍に包囲されていてジャンヌたちは救援に向かう。歴代の王の戴冠式おこなったランスに向かい途中のイングランド支配地奪回しシャルル戴冠式(ブルゴーニュ派も招待された)国王となる。 パリはイングランド軍占領のままだったが(20世紀のダイアナさんが過ごすのもパリの英王室所有地で可能だった)フランスの勢力は現状維持派が優勢でパリ解放叫ぶジャンヌや貴族民衆は孤立する。 1930年ジャンヌはブルゴーニュ軍に捕えられイングランド軍に引き渡される(12月ルーアン移送)。 1931年2月異端審問裁判、裁判長は正当性に疑問持ち出席せず代理裁判長が審理すすめる。(こっそり記録残す人はいてジャンヌの扱いは後世に伝わった) 当時は身分や性別で服装は決まっていて男の服装するジャンヌをイングランド兵は恐れた。異端審問裁判(司教など聖職者が参加)のなかで文字の読めないジャンヌだまして署名させた(名前は書ける程度)。 女装すれば助命という裁判官の言い方で着替え、その夜イングランド兵は集団でジャンヌを襲った。翌朝からジャンヌは再び男の服装、5月異端者として教会破門、イングランド軍による即時死刑の判決。火刑になり遺灰はセーヌ川に流された(ルーアンは河口の町) イングランド側ではジャンヌは「魔女」とレッテル貼り続ける。ジャンヌの護衛ものち「吸血鬼」とされて火刑。 ジャンヌたちがイングランド軍に勝てたのは当時の戦争の流儀(兵士と兵士が1:1で戦う)と違い複数でかかるなど弱者の知恵あって(^^)ゲリラ戦展開、イングランド軍にすればおもしろくなかったらしい(憎しみの対象)。 1449年シャルル7世がルーアン奪回、1450年シャルル7世は(1度はジャンヌ見捨てたが)ジャンヌ裁判再調査命令、同年ローマ教皇も裁判やり直し命令。 1455年ジャンヌの母の訴えで復権裁判、1456年ルーアンで処刑裁判の破棄が宣告された。(20世紀にローマ教皇からジャンヌは聖人とされたが(1920年)異端裁判は有効のままです(^^)死刑がまずかった程度かな?) 1789年フランス革命(バスティーユ監獄襲撃)、革命派と王党派の争い、1794年革命の指導者ロベスピエールがクーデターで処刑される(テルミドールの反動)、ナポレオンも投獄された。 釈放後1795年パリでの王党派蜂起を鎮圧(ヴァンデミエールの反乱) 1799年ブリュメールのクーデターで統領政府。フランス革命終わる(独裁者になる。失敗していれば銃殺刑だったが) 1804年ナポレオン「フランス人民の皇帝」、のち欧州中央部を制定、兄をナポリ王、弟をオランダ王にする。ライン同盟 ナポレオンボナパルトは「フランス人としてはじめてジャンヌを評価した」という言い方あるがそれ以前にもジャンヌは一応の再評価はされていた。フランス人は「フランス語はなす人」の意味、フランス革命の時にはフランス語はパリとその周辺で話される程度です。 ボナパルトは「ジャンヌはフランスの救世主」としたがそれは自らの正当化(皇帝になった)ふくむわけです。
補足
さっそく長文のご回答ありがとうこざいます。 とても歴史にお詳しい方と感心しきりです。 ご回答ですとパリ周辺ではナポレオンが評価する以前からジャンヌの再評価がさてれいたとの事。 その事についてもう少し詳しくわかればお教えいただけないでしょうか? その再評価とは復権裁判にかかるものなのか、またそれは違った新しい時代になにかのきっかけで再評価されたものなのでしょうか。 また、ナポレオンが「ジャンヌはフランスの救世主」とした時期は皇帝即位後のことなのでしょうか。年代等具体的なものをご存じないでしょうか。
お礼
お礼が遅くなり申し訳ありません。 とても詳しい解説。フランス語のwikiまで調べていただいてありがとうございました。