- ベストアンサー
私は異常なのでしょうか?(長文です)
自分の命を大切に感じないなんて不謹慎だとか、不愉快だという方は、この先を読んでいただいた場合、とても気分を害されてしまう可能性がありますので、(本当に困っているので教えていただきたい気持ちは山々ですが)そっと別のページへ移動されることをお勧めいたします。 私の中で起こっていることを話すためにはどうしてもそういった表現が出てしまうので。。。。 せっかくクリックしていただいたのに申し訳ありません。 自分自身が、異常なのか?常識欠落者か?単なる甘えた奴なのか?それとも少数派ではあるけれど正常なのか?が判らず、対処に困っております。 実は、希死感が消えないのです、ずっと。 物心ついたときから漠然としか覚えてませんが毎日「消えたい」「いなくなりたい」という気持ちがあり、3歳のとき「死」という概念を知った後では「死にたい」という気持ちになりました。 でもその頃は死ぬためには人に殺されるか、事故か地震とかでしか死ねないと思っておりました。 7歳のとき、確か何かのドラマでしたが、「自殺」という手段があることを知り、ものすごく嬉しくなった記憶があります。 (実際に、7・9・16・18・20歳で首吊りや自傷行為をしました。また実際に行動にまでは出なくても、そのつもりで行動しようとしたことは沢山あります) 私が死なないでいたのは、 家族や友人などに迷惑をかけるから 痛いのは嫌だから 痛い思いをせずに確実に死ねる手段が手に入らなかったから 中途半端に自殺に失敗して、二度と自殺できない体になったら取り返しがつかないから そして何より大きいのは 「そういう感覚は普通だと思っていたから」 世の中のテレビや道徳の時間などで「命は大切だ」「生きたいのに生きられない人もいるのだから死を望んではならない」と繰り返し説いているのは「みんな死にたいけど、死ぬことはいけないこと、恥ずかしいことだからそう言っているんだ」と本気で思っていました。よく「食べ物の好き嫌いはいけない、世の中には飢えに苦しむ人がたくさんいるのだから」というのと同じように。 みんな死にたいけど、死にたいと言うのは恥ずかしいし負け犬だっていうし、言われた方も暗くなってしまうから口に出さないだけで、みんな毎日ずーっと死ぬことを考えていても生きているんだから私も生きないと普通じゃない。もし自殺で死んだら私の周りが嘲笑われ責められる、 嫌な思いをさせる。だから我慢しなくては・・・・ そう思って生きてきました。 また、この考え方が普通ではないかもしれないと思いはじめたのは、ここ数年、うつ病などの認識が広がってからです。 「え?死にたいって思うのは普通じゃないの?これはうつ病なの?」って、かなり衝撃でした。 ただ、私は文献にうつ病のように、文字が読めなくなってしまったり、食欲不振というような症状はありません。会社や学校にも遅刻しがちではありますがちゃんと行っていますし。(涙もろかったり、虚無感はありますが、それも人により程度はことなるので異常かどうかわかりません)やる気がおきないこともしばしばありますが、やる気がおきなくても無理やりでも出来ていることもあるし、楽しいと感じることもあります(全てが楽しくて仕方ないと言うわけではありませんが)。 ただ、とっても嬉しかったり、ぼんやりとコレは「幸せ」と言うのだろうなぁと思うその瞬間も死にたくて仕方がないのです。 こんな考え方なのは異常なのでしょうか? それともたまにそういう人はいるけれど口にしないことを、私が非常識だから質問してしまっているのでしょうか? 私が甘ちゃんで弱虫だからこんな考え方をしてしまっているのでしょうか? はたまた何か神経系の病気なのでしょうか? 本当にこんなことを書くのは恥ずかしいし、正直だれにも知られたくないのですが、苦しいし、良い方向に直せるものなら直したい、非常識なだけならそれを認識したい、万が一病気ならもっと怖い病気になって周りに迷惑をかけてしまう前に治したいと思い、質問いたしました。 どうか、答えてやってください。
- みんなの回答 (11)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
死ぬことは悪いことではありませんよ。世の中がそう言っているだけです。(死んでしまいなさい、と言いたいわけではありません。)私はあなたを責めません。無理にその心を治す必要はないと思います。 (命を大切にすることには大賛成です。でも、死にたいのに、死ぬな!ということこそ、その人の心を無視した、いじめ行為だと思います。) 私も死にたいと思って自殺しかけたことがあります。私の友達にも、死にたい!と今も堂々と言い放っている人もいます。世の中には、死にたいと思っても話せない人はたくさん居るはずです。 ラクに死ぬ方法を知っておくのは悪くないと思います。逆に自殺予防になると思います。 「いつでも死ねる!」と思えた人は、意外と死ななかったりするんです。 いつでも死ねるんだ、と思いながら、楽しいと思うことをやって、気楽に生きる、というのはどうでしょう。 人間は、死んでも次の人生があるそうなので、焦って死ぬよりも、そのほうが、死んだあと、良かったなと思えると思います。 ※人殺しには反対です(笑)トータルに見て、自分と相手のためにならないと思います。
その他の回答 (10)
- -226-baku-
- ベストアンサー率10% (23/219)
しばらくmistrainyさんの問いを考えてました。 「小さい頃からの希死感」 ですね。何かあったのでしょうか。 大切なのは人はそれぞれ違ってる、ことです。似たような考えであっても完全に一致することは基本的に無い、と言うことを受け入れてしまえばmistrainyさんも、自分が異常だとか正常だとか、少なくともそういう思いは無くなっていくんじゃないでしょうか。 自分が他人と違う、他人が自分と違う、こういうことに寛容でなくなる方が大きな問題だと思うのです。 だから怖さも感じてるんです。 mistrainyさんは時と共に当たり前だと思ってた思考に疑いを持ちました。生きている限りはそういうものだと思います。何らかの文献でも人でも何でもいいんですが、細かい出会いの連続によりmistrainyさんの考えは変化していきます。明日のmistrainyさんでさえ、今日のmistrainyさんとは違います。5年後の自分を想像するのが苦しいなら、 「明日の自分ってどうなのだろう」 、とにかく明日のmistrainyさんとの出会いを考えたらどうでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >「小さい頃からの希死感」ですね。何かあったのでしょうか。 お心遣いありがとうございます。 たぶん普通の家庭の普通の子供だったと思います。何かあったのであれば逆にそれが原因とわかるので良かったかもしれませんが、何もなさげでよかったと思っております。 仰る通り、「人と違うこと」で不安を覚えてしまった、寛容になれなくなってしまったのがとても問題だと思います。 確かに変化しないものはないし、人と違って当たり前・・・判っていたはずなんですが、「炎天下に立っていたら汗をかく」くらい、当たり前の生理現象並みに考えていたことがそうではなかったらしいのは本当に不安にさいなまされました。 たぶんそれと同時にずっと嫌な思いをしてきた「希死感」が他の人にはないことでうらやんでしまった部分があると思います。 今までの頑張りも一気に全て崩されてしまった気分でした。何のために頑張ってきたんだろうと。 それでも死にたい気持ちはきえないのもいらだたしく、人にむやみとむかつく自分にも焦りがあり、ぐるぐると過去も現在も未来もループしてそれでもさらに死にたくなって、何も生み出せなくなる自分が居て(私にとってはそっちの方が死よりも恐怖でした)・・・・ すみません、-226-baku-様の仰ることはとてもわかります。 ものすごく納得できることです。 ここでこうして質問をして皆様に回答していただけて、 沢山私の中で救われたもの、冷静に見れる自分がようやっと帰ってきだして、それでも尚丸1日、-226-baku-様の仰ることを(まだ理解が足りないかもしれませんが)腹に収めるのにかかりました。 明日の私とどう出会うか、そのために今日何をすべきか、そこが問題なのでしょう。 そのために、カウンセリングや電気療法を試すもよし、死に方を知るもよし、聖書を読んでみるのもよし、、、ということなのでしょうか? 正直「希死感」は本当に厄介なもので希望とも未来とも別の次元に居ていつも私を停止させようとします。 我慢する理由もなくなって一層強く私を誘います。 自分が巻いた種で生まれる人の幸せな未来を想像するのは楽しいです。だから、そういう種を作れる自分に出会えるように考えなくては。。。と思います。 お蔭様でここまで回復できました。 本当にありがとうございます。ただちょっと疲れました(笑)
- katyan1234
- ベストアンサー率18% (347/1849)
座っているだけでは何も与えられません。やはり自分から愛するものを 探す事でしょう。今こうして迷回答を書いてますが、これも私にとって 生きて行くための目標ですね 今すぐに変わりましょうなんて無理 大きな山を見つけそこに行くように旅立つの 明日からしましょうではなく今出来る事を探す、そして実行です。その重なりが自分に自信をもたせていくのだと思います 愛されよではなく愛するの、まず今の自分を 「信じましょう」なんていわないね 何も出来ない自分今からスタートで後5年建てばどう変わるのか? 勉強する事は多いですよ。まあ何でも苦して勝ち取ると言う結論になるけど クリスチャン的な回答するなら今辛くても天国に行けると言う確信があるから頑張れるの、まだまだ他人と比べればまだ以下の部類だけど そのような評価はしない。あくまで5年前の自分と比べて行くもの やる事は多いよ。ラジオの英会話をただ聞くだけ(同じものを) ようやく理解できるようになって来た。この自信がほかのものにも影響を与えるのでしょうね
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 人の役に立てないのなら、せめて迷惑はかけないようにと、自立し本気で何かを作ることで生計と自分の誇りを作っていくような生活をしておりました。 貴方様のご回答を私は深く理解することができていないのかもしれませんが、「人と比べるよりも自分自身の基点へ帰り創造・発達せよ」ということかと感じました。 (せっかくいただいたメッセージを誤った解釈をしてしまっていたらすみません。) 確かに、「異常かどうか」「他の人は死にたいという感情がないらしい」と、人と比べてしまっていたと思いました。 また、一層強まった希死感で苦しくて焦って、前進することも自分の創造してきたものにも自信が薄れていたのも事実だと思います。 (経験上、希死感が薄いときの方がよい製品が作れるので、自分がベストを尽くした作品でも希死感のある私が作ったものでは質が劣るのではないかと不安もあったと思います) なんか今まで「死にたいけど死ぬのは悪い、皆もがんばってる」って思って踏ん張ってきた分、それが揺らいで一気に疲れがでたような気分です。それに不安と希死感に悩まされないらしい周囲への羨望・失望と苛立ち、、、そして(作品への)自信の揺らぎ。そういったものが「じゃあ、なんで私はいきているの?死ねばいいのに?」という疑問に混じって気持ちを苛み、余裕をなくしているのかもしれません。 正直立ち往生していたのも、ご回答を読んで気がつきました。 ありがとうございます。 愛するものはいます、あります。 ただそれが私にとっては希死感を消す種にはならなそうで、、、 (愛する人はたぶん私がいなくても生きてゆけますし、愛する作品・製品もその出来だけではなく、私じゃなくても中身を理解し、カスタマイズできるように中身まで美しく仕上げているのが自信でしたので) もしかして貴方様のおっしゃる愛するものというのは人や作品以外のもののことなのでしょうか。。。 しかし、生きてゆくならばとても大きなヒントをいただいたような気が致します。有難うございました。
- katyan1234
- ベストアンサー率18% (347/1849)
同じような時期がありました。仕事してもつまらない、なんのために生きているのかな?そしてあなたのように死のうと思いました ここからは私の経験です そしてあるきっかけで宗教に入りました まあ女の子目当てでね。信じる気持ちはなかった。 聖書を読んでいく中で自分がここにいて自分も神様に愛されているんだとお思いました。こんな僕でも・・・ 何も出来ないのではなく、祈る事が出来る いるのは心の充足感、希望、愛がないのかな? 愛されようではなく愛するものを探してください せっかく生きてきたんだからね、何かすることがあるはず 支えてていけるものがあるはず、探しましょう 仕事が出来、家庭があり、耳が聞こえ、見る事が出来る。感謝できる事に目を向けましょう。不平を言っても世の中は変わりません 朝起きて手を動かし まだ生きているんだ!ここからスタートです
お礼
ご回答ありがとうございます。 >仕事してもつまらない、なんのために生きているのかな?そしてあなたのように死のうと思いました かなりお辛い時期を過ごされてたご様子、、、お察しいたします・・・。 そういう時期は本当に辛いです。ただの「死にたいから辛い」に「辛いから死にたい」という感情が何重にも加算され、死にたくて何も手につかなくなっていました。 >いるのは心の充足感、希望、愛がないのかな? ・・・難しいですね。そのどれをも感じているときも「死にたい」が消えないのです。。。 私の質問の書き方が悪かったようですみません。 私は、幸せなときでも辛いときでも希死感が消えないのです。 人の死は悲しいし、大抵の場合死の前に与えられる苦しみ痛みにもひどく怯えています。しかし、喉が渇き水を求めるように「死」が欲しいのです。それも誰の死でもなく「自分の死」が。。。 不平不満も全然ないわけでもないですが、過去には一応人には「よくここまで乗り越えられたね」と言われるような状態も経験してきましたが、それを超えてもまだ「死にたい」のです。 >仕事が出来、家庭があり、耳が聞こえ、見る事が出来る。感謝できる事に目を向けましょう。 物事に対する感謝の念が足りないから希死感が消えないということでしょうか?ということは、皆様小さいときは希死感はあったが、大きくなるにつれ物事への感謝を覚えるにつれて「死にたい」気持ちはなくなったということでしょうか?「希死感」は幼児性のものでそれを私は引きずったまま大人になったということなのか・・・アダルトチルドレンの一種ということなのでしょうか。もしよろしければ、どのように消えていったか教えてください。お願いいたします。
- bikkurapon
- ベストアンサー率21% (94/433)
「命は大切」 そうですね。そして不思議ではかないものです。 私は高校生の頃、夜、机の上に飛んできた小さな虫を見つけて、なぜこんなに小さなものが動いているのか、これを動かせる命とはどういうものなのか、不思議に思ったことがありました。 しかしそのうち、その虫をつつきたい衝動に駆られて、鉛筆の裏で強く押してしまったんですね。 そしたらもうダメ。動かないんですよ。さっきまでは生物だったものが、次の瞬間には消しゴムのカスと同じ存在になってしまったんです。 命の神秘とはかなさ。 妙な話しですけど、そのときに少し理解できた気がしました。 「生きたくても生きられない」 これについては、学生時代に病院実習がありまして。 紹介されて来た患者さんの問診をとるのが学生の仕事なんですが、時には、患部に触っただけで「あ・・ガンだ」とわかる場合があるんですね。 相手が不安そうにこちらの顔を見るのに、平然とした顔で「わかりました、ちょっとお待ちくださいね」と言う。 そのときの心境、察していただけますか? 多くの人が、担当医に「検査入院が必要です。いつにしますか?」と言われると驚いたような顔をして、 「え?今、仕事が忙しくて休めないんですよ。どうにかなりませんかねえ・・」とこたえる。 命に関わる事態が起こっているのに、本人は先の仕事の心配をしている。 そのくらい死が実際の生活から切り離されているんですよ。 「死ぬなんて他人事」という感覚。それ当たり前になっているという現実。 何が言いたいかわからないでしょうけど・・ つまり命とは、 「命は大切だ」「生きたいのに生きられない人もいるのだから死を望んではならない」なんていう理屈じゃなくて、もっと頭をガンと殴られるような衝撃として感じるものだと思うんです・・・ 死にたいと思うのが不思議なら、実際にガンや難病の患者さんに付き添ってみると良いと思います。 死を受け入れざるを得ない人たちが何を生きる希望にするのか。 それをちゃんと見て欲しいし、感じて欲しいです。 そこまで知らないと命は語れないのではないかと。 人がなぜ、伴侶を求め結婚して子供を作ろうとするのか。 単純明快な答えがそこにあるように私は思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >そのときの心境、察していただけますか? 辛い・・・泣きたくなるような気持ちでしょうね。。。 お仕事とは言え、苦しい死の目の前に立っている人と死んでしまう人の周りにいて見ていなくてはならないのはかなりきついだろうと思います。 私の弟も難病で小さい頃、死の淵を彷徨い、私の祖父が癌で入院~死んだときも毎日の様にお見舞いに行って、 そういう方々がいる病棟をあなた様ほどではありませんが、ほんの少しですが、かいま見ていたことがあります。 見ているだけで心を裂かれるような気持ちも多少は解ります。 だから、そのときの貴方様方、医療関連の方々が努めて明るく冷静に対処しようとしベストを尽くしてくれることは賞賛に値すると思っています。 >死を受け入れざるを得ない人たちが何を生きる希望にするのか。 上記の時に感じた私の解釈では恐らく甘すぎるのでしょうが、その時感じた彼らの「希望」は「自分の後にも残っていく未来」だと感じました。 だからこそ子供を失いかけている親の半狂乱な姿や自分の後に自分の大事な者達を私達に「頼んだぞ」と何度も確認する祖父の姿があったと思います。 貴方様の仰られていることはこういうことから先のことと思いますが、私にはまだここまでしかわかりません。すみません。 私の書き方が悪かった為だと思いますが、私は「未来を紡ぐこと」に悲観しているわけでも何でもありません。人が死ねば(自分がその人に死んで欲しくないから)悲しいと思うし、病気や怪我の苦しみにも怯えます。(実際、仕事も「創造系」です。今迄の人が作った技術の上に私の仕事があることも理解し、私の作ったものがその連鎖し成長してゆく技術の土台の一部になることを喜んでいます) そういう普通の人間です。 ただ、それとは別に、喉が渇く様に自然に「死にたい」という気持ちが常に離れず心に生息しているのです。 人が死ねば苦しめば悲しいし、死の際に訪れる苦しみも嫌い、、、、ただその先にある「死」が欲しくて欲しくてたまらないのです。 この欲求があることが異常なのかどうか、普通なのか、病気なのか、甘えなのか。。。。 おそらく貴方様は経験不足による甘えととらえられたのでしょう? ・・・そうですね、私がまだまだなのは確かだと思います。経験が増せば回答を得られるものかもしれませんね。 ヒントを有難うございました。
私は、あなたが異常だとは思いません。 私の場合は、 「楽しいことばかりじゃないけど、大人になれば幸せになれる」 と信じて大きくなりました。 シンデレラや一寸法師など、ハッピーエンドで終わる物語はたくさんありますよね。 人生は必ずハッピーエンドになるもの、という認識が間違っていることに気づいたのは思春期ごろ。 過去に書かれた書物を読んだり、実際に経験したりするうちに、 過去、世の中は不幸なのが当たり前だったこと。 戦争は日常茶飯、流行り病や自然災害、死は常に隣り合わせだった。 この世が辛いからこそ、死んだ後には天国にいけるのだと信じることで救われた。 そして「本来、生きることは辛いことだ」ということ。 辛いのが当たり前なのだということ。 だからこそ、最期まで生き抜くことはそれだけで賞賛に値することであり、その先に極楽があっても不思議ではないと。 世界の歴史を見てごらんなさい。 ろくな時代はありませんし、今は平和で良いなあと感じるような史実ばかりですよね。 日本の古典だって、無常だとか、この世ははかないとか、そういう内容ばかりじゃないですか。 いくら平和でも人間の本質は変わらない。 死にたくなるのも当然なんじゃないでしょうか。 ただ、本当に死を目の前にすると、なぜか人は「死にたくない」と思ってしまうようですね。 生存本能が湧き上がるというか、もともと生命には「生きたい」という本能が備わっているんでしょうか。 実は、私も時々死にたいと思いますよ。 何の不満もありませんが、生きるのが下手というか、不器用なのでつらいから。 ただもし、「あなたはガンです、余命3ヶ月」と言われたら死にたいというより恐怖で怯えてしまうだろうなあとは思います。 死を宣告されたら、それに耐えられる自信は全くありません。 あなたが精神的に異常か正常か。 それを決める明確なラインはないと思います。 多くの人が狂気につき動かされることもあります。 例えば過去の大戦。あれこそ国民が丸ごと精神異常になったとしか思えない凶行ですよね。 ということで、冷静に自分を見つめられるうちは大丈夫なのではないかと。 でも、「死にたい」と思いながら生きてると生命力が低下するので、 人よりは早くガンや自己免疫によって攻撃されるような難病になるかもしれないとは思います。 ガンは細胞の暴走ですが、私は細胞レベルでの自殺行為だと思っています。 もう、生きるのはやめた、どうにでもなれ! という気持ちが強くなれば細胞にも異変を起こすのではないかと・・・ ガンにならないようにと気をつけている人さえ逃れられないのですから。 あなたはまだお若いから良いですが、自分を殺そうとする気持ちはいつか本当に自分の体を内側から蝕むと思います。お気をつけください。
お礼
ご回答ありがとうございます。 死にたいのも無理はない、異常ではない。。。ホッとします。 >だからこそ、最期まで生き抜くことはそれだけで賞賛に値することであり、その先に極楽があっても不思議ではないと。 成る程。辛いことや無常は当たり前・・・とは思ってはいましたが、生き抜くことが賞賛に値するという考えはありませんでした。逆に生き抜いて当たり前、リタイアは負け組という感覚だったので、シャツの首元が緩まったような、目から鱗な感じが致しました。 あと、ご回答を読んでいて、鶏と卵の様な「辛いから死にたくなる」のと「死を我慢しているのが辛い」のを切り分ける必要があるかもと気づかされました。何というか、覚えている記憶の初めから「消えたい」感情があり、「死にたいのに、生きないといけない」ので辛いのですが、それが恐らく「辛いから一層死にたくなる」というループに入っているのは間違いないわけで、今もっている「死にたい」が、どれだけ「辛いから一層・・・」という二次的三次的な希死感によって増幅されているかを知れば解決方法の一つになるような気がするのです。 >あなたはまだお若いから良いですが、自分を殺そうとする気持ちはいつか本当に自分の体を内側から蝕むと思います。お気をつけください。 ご心配、痛み入ります。癌などになって、数ヶ月でも寝たきりになったら人に迷惑をかけるとか考えたらそっちの方が嫌ですね。 病は気からといいますが、確かに。。。 子供の頃にでたストレス蕁麻疹の痕がそのまま今も残っているのですが、これも「気持ちが体に変化を起こした」一種なのでしょうから、怖いですね。死ぬ気持ちの強さや年季と癌細胞の進行度合いが比例してくれればまだいいのでしょうが。。。 「死にたい」という気持ちが消えた状態ってどんな感じでしょうか? うきうきするのでしょうか?すーっとするのでしょうか?それとももっと他のいやな感情に支配され易くなるのでしょうか?どんな風に具体的に違ってくるのでしょうか?なにも変わらないのでしょうか? ごめんなさい、死にたい気持ちが私を苦しめているのは判っているのですが、それが無くなった時がどんな感であるか判らないのです、本当に。本にも死にたくなるととこうなるという記述はあっても「死にたくならないとこういう気分」という記述は今のところ見たことがないのです。よろしければ、教えてください。
- yopitarou
- ベストアンサー率31% (22/70)
自殺願望(希死念慮)について 私は容認派です。 実際、中学2年のとき自殺未遂を起こしていますし。 (結局、勇気がなくて諦めてしまったわけですが) よく、「生きたくても生けれない人がいる」と言う人がいますが、 それは責任転嫁だと思うんですよね。 その人のために生きる必要は全くないわけですから。 ですが、自傷行為=自殺願望という考えは違うと思います。 自傷行為は死を望んですることもあるでしょうが、 現実逃避や、他人に構ってほしいという気持ちの現われ だったりするからです。 mistrainyさんはどちらでしょうか? 実際に自殺未遂を起こしたことがあるようですが、 本気で死のうとしましたか? 首吊りなどは本気で吊れば確実に死ねます。 文面から、苦しくない死に方を望んでいたりしていますし、 私と同じように、本気で死ぬという勇気がないのではないでしょうか? とても、死にたくて仕方がないと考えているように思えないのですが。 実際、死にたいと考えている人は少なくないと思いますよ。 だから、mistrainyさんは異常ではないです。 うつ病とも言い切れないと思います。 誰もが抱えている問題(実際、実行に移せるかどうかが重要) だと思いますので、 あまり神経質にならない方がいいと思いますよ。 こう書くと不謹慎と言われそうですが、自分の命です。 自害するのも自分の意思だと思いますよ。 私は、現在妻子がいるので、自害することは 考えていないわけではないですが、 家族のことを考えると実行には移せないですね。 それが、正直なところです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >mistrainyさんはどちらでしょうか? >実際に自殺未遂を起こしたことがあるようですが、 >本気で死のうとしましたか? >とても、死にたくて仕方がないと考えているように思えないのですが。 私の場合は、突発的に死にたい気持ちが抑えられなくなり、自殺に走っった感じです。俗にいう「キレる」に近しいのかもしれません。なので多分、本気だと思います。抑圧されていた願望が抑えられなくなった原因は大体がもの凄く理不尽な目にあって、でも周りの為になんとか我慢せざるをえない時に「大丈夫、あと数日でこの世から消えると思えば」(←これは本当に我慢しなくてはならない時にとても効きます)とその場は耐えた後、結局、自分一人になった時にそれが爆発して、自分が止められなくなり、とりあえず、部屋にあったベルトや紐をつなぎ合わせて輪を作って・・・とか、鋏で・・・とか、、、。7歳の時のは自殺という手段があることがわかって嬉しくて嬉しくて親のいない間にこっそりとという感じでした・・・今、書きながら思ったのですが、yopitarou様の仰る例からすると実行時の私にとっては現実逃避に近いのかもしれませんね、その時は本当に消えるつもりで実行するのですが。 >実際、死にたいと考えている人は少なくないと思いますよ。 >だから、mistrainyさんは異常ではないです。 >うつ病とも言い切れないと思います。 ありがとうございます、よかったです。 極々普通に生きてきたつもりだったので。異常でも欝でもなく、他の方もそういう場合もある。。。これだけで少しは変化が緩和されそうな気がします。 >自害するのも自分の意思だと思いますよ。 そうですよね。自殺のメリットは自ら死期も死に方も決められることにあると思います。自殺とばれなれば、これほど条件の揃った恵まれた死はないのかも・・・なんて(削除されそうですね) yopitarou様はご家族がいらっしゃるから、自害実行はないとのことですが、家族が自分の自殺を事故死としか認識しない状況で自分の生命保険料などで一生楽に暮らしてゆけるとしても、実行を考えてしまったりはしませんか? それとも、家族と一緒にいたいから死にたくならないということなのでしょうか? ・・・すみません、本当に疑問に思ったのですが、ご気分を害されてしまったらすみません。
- takuya1663
- ベストアンサー率52% (1027/1948)
こんばんは。 確かに世間では自殺防止云々、先祖からいただいた大切な命だから大切にしないといけない。人は生かされているのだから、また人生は一度きりなので、また、人間の生命は想像をはるかに超越した確立で生ませてくる。たまには落ち込むだろうが、自分の命を大切にできない人は他の人の命が大切に思うことがでない。死んだらここまで育てていただいたご両親他、今まで生きることができたのは無数の方々のおかげ。日々生きていて良かったと感謝の念を持たないといけない。あなたより例えば障害などをお持ちでも力強く生きて努力している方々もおられます…ほんの思いついただけですが、こういうことはいつも言われます。 私は上記の通りだと思います。決してご自分の命を大切にして下さい。 年間の自殺者が3万人を超える昨今、社会問題にもなっているのはご存知かと思います。 また死にたい、または死のうとしている方を助けることは人間だけが持っている優しい気持ちかと思います。 また、自分は死ぬのは勝って。しかし残された人、お世話になった方の感謝の気持ち。 もしmistrainyさんがそういう逆の側面を目撃したらどいうしますか? またどういう言葉などをかけますか?「死ねばいい」と言えますか? mistrainyは「希死念慮」がかなり強いと思います。 自分に限らず、なんらかの極限までくると死にたいという感情も起こるでしょう。また消えてしまいたいという願望に取り付かれることもあるでしょう。 自分も、稀に自分の「甘え」から死んでやると思ったことすらあります。しかしそこで考える訳です。実は助かりたい・・・また助けてほしいなどと… 最近気づいたのですが、個人的には「死にたい」ということは「助かりたい」という気持ちや甘えであり、本当は死ぬのはご質問の通り怖いのです。助かりたいという願望の表れだということに。 自分は単なる頭の悪い甘えに対して依存する弱い人間に過ぎません。もしかしたら、mistrainyさんより希死念慮が強いことも、覚えていない部分もありますが希死念慮の塊かもしれません。 私は医者でもカウンセラーでもありません。しかし自分で勝ってにこうやってひたすら書きながらも、これでいいのかと…また、こういうことを言う奴は建前だけの人間かと思われるかもしれません。希死念慮の強い人間が説得、納得していだたこうとしても信用はありません。自分とて同じかもしれません。 mistrainyさんは(自分は神経や精神科などの医師ではありません) 何を希望されているのでしょうか? ご質問の文の中で「良い方向に直せるものなら直したい」と強く思われるのであれば、ます、医師の診断や、医師の言う通り、投薬などがあれば、薬の力を借りながら行きましょう。きっと何か変わるはずです。 精神療法、薬物療法、行動療法など、良くなりましょう。これは建前でも何でもありません。 また、これは何かで聞いた話なので詳細については分らない部分が若干ありますので、いい加減なことを言うわけではありませんが、希死念慮が強いまたは自殺という行為を繰り返している症状のひとつとして、電気ショック療法があると聞きました。頭に一瞬、強力な電気ショックを与えるのです。そうすれば、死にたいという気持ちは個人差こそあるものの緩和できると聞きました。しかし、1年経って同じ症状があるかも知れません。 たま友人などいらっしゃいますか?信頼できる友人や知人はいますか?こんなことを言え、理解できる人も少ないとは思いますが。 勝つこと、負けることがすべてではありません。「○○すべき」ということはありません。mistrainyはきっと回復すると確信しています。 あえて私が頑張れとはいいません。ご自身が弱いと思われているのであればそれでいいのです。弱さが強さになるときもあります。 困った人に手を差し伸べることはできるでしょう。逆にそれと同じと思います。本当は質問では書かれておられないを思いますが、優しく真面目過ぎる人かとお察しします。 自分の命は最も大切です。あなたを取り巻くすべての方も大切です。 ぜひ困った方やあなたと同じ心境な方とありのまますべて話してはいかがですか? 何かの時に思い出していただければ幸いです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 おっしゃることは確かに通りだと思います。私も「だから生きなくては恥ずかしいことなんだ」と思って生きてきました。 ・・・ただ、腹のそこまでは納得が出来ないのです。 確かに人は生かされていると思うし感謝しなくてはならない →でも、ずーっとずーーっと「死なせてください」って祈っているのに何故?生かされているのであれば殺すことだってできるでしょうに。 周りの人の行動を無にしてはならない。周りの人が悲しむ→畑に種をまいても「間引き」が必要だって聞いたことがある。それに肝心なときに私はいて役に立ったことがないし、私自身は何もしていなくても「私がいたから」って理由で周りの人間が継続的に苦しんだりしてる。死んだら悲しむ・・・んでしょうね、でも実際「私がいないから嫌だ」という悲しみは少ないと思う。どちらかと言うと、自殺したりした場合の世間の目、話を聞くとか何か手を打てたかもという後悔の方が大きいはず、・・・ということは、自殺に見えない方法で自殺(事故死に見せかけた自殺など)であればOKということになりはしないか? ・・・などなど、子供の屁理屈のような感情が出てくるんです(感情なので理論ではないです)。そのため、takuya1663様がおっしゃることは理性では納得でき、間違いないと思ってても感情の死にたい気持ちを打破することが難しいのです。すみません、自分勝手なのはわかっているんですが。 >もしmistrainyさんがそういう逆の側面を目撃したらどいうしますか?またどういう言葉などをかけますか?「死ねばいい」と言えますか? 「死ねばいい」とはいえません、そうは思わないので。死にたい人の感情は理解できるけれど、その人を殺してあげたいとまでは思わないんです。その人が私に関わった人であればただ、「私は死んで欲しくない」とだけ、自分の気持ちしか伝えられません。私は勝手と思われても仕方ありませんが、「自分は死にたいけど、人は死んで欲しくない(その人を死なせたいとは思わないから)。でもその人がどうしても死にたいなら止めることは相手を傷つけるのではないか」と感じてしまいます。 (→続きは補足へ)
補足
すみません、お礼が欄内に書ききれなかったので補足欄を使用させていただきます。 >最近気づいたのですが、個人的には「死にたい」ということは「助かりたい」という気持ちや甘えであり、本当は死ぬのはご質問の通り怖いのです。助かりたいという願望の表れだということに。 すみません、私の書き方が判りづらかったようです。 おっしゃるとおり、「苦しい状態から助かりたい」という気持ちはあると思いますが、死ぬのが怖いのではなくて痛いのが嫌なのです。 何度か自傷行為等などに出たときに感じたことは「痛い、苦しい」で「怖い」という気持ちは「これでやっと楽に」という気持ちに紛れていくのです、安堵感と期待感と気分の高揚・・・、滅茶苦茶苦しいから暴れてしまうけれど。ジェットコースターで落下前に上っていく気持ちと整体などを受けたときに痛いけどコレで楽になるという極上の気持ちを混ぜたようなものに、想像を絶する痛みが加わる感じです。 ただ、希死感があることが普通ではないと知ってから、死にたいと思うことの苦しみが増加し、また人に今までよりも寛容になれない自分がいて、これはまずいと感じました。 そういう意味でよい方向へもっていくために、その原因の希死感とそれにまつわる感情を解決しなくてはならないと思い、 まずこの感情は一体何故おきるのかを考えたところ、質問させていただいた通り、「異常か?正常な少数派か?病気か?ただの甘ったれか?」といった疑問になりました。 やはり、治療が必要な感じなのでしょうか。。。 電気療法・・・初めて聞きました。もの凄く効きそうな感じですね。 >困った人に手を差し伸べることはできるでしょう。逆にそれと同じと思います。本当は質問では書かれておられないを思いますが、優しく真面目過ぎる人かとお察しします。 嬉しいけれど、買いかぶりすぎです。気恥ずかしいので頂いた台詞はここでこうして回答してくださった回答者様方にそのままお返しいたします。 >自分の命は最も大切です。あなたを取り巻くすべての方も大切です。 ぜひ困った方やあなたと同じ心境な方とありのまますべて話してはいかがですか? それをするのも勇気がいりますね。まずはそういう人を探すところからでしょうか。 takuya1663様もそのようになさっているのかもしれないと勝手に想像してしまいました。 >何かの時に思い出していただければ幸いです。 頂いた御回答は心に大切に留め置きたいと思います。
太古の人々は、第6感がとても発達していて、自分が、何時死ぬのか、死んで何処に行くのか、良く分かって居たようです。 現代人は、その能力が、退化してしまい、まあ、身内の死の虫の知らせぐらいになってしまったようです。 貴女の文章を見て、この方、まだ第6感が残っているのかな・・なんて思ってしまいましたよ。 死後の世界は素晴らしい所で、そこから、自分を向上させたいと志願して、何処に生まれ落ちるかの自分で選び、この世にやってくるようですよ。 でも堕胎されたりして、やり直しなどをくり返し、やっと生まれて来ても、 何しろ、修行ですから、苦しい事だらけ、けれども、それをやり遂げたり、やろうとする気持ちが、あの世に行った時に大切になって来るのではないでしょうか。 記憶を消されて生まれてくるのは、やはり、あの世が素晴らしい所だと知れてしまうと皆が、死に走ってしまうとといけないからです。あの世とこの世。 陰陽の世界ですから、バランスをとってやっているのだと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >太古の人々は、第6感がとても発達していて、自分が、何時死ぬのか、死んで何処に行くのか、良く分かって居たようです。 >現代人は、その能力が、退化してしまい、まあ、身内の死の虫の知らせぐらいになってしまったようです。 第6感も極めればそのような能力となるのでしょうか。 たぶん、私のはそんなご大層なものでは・・・・(^^; もし、その能力が残っているとしたら、生まれてくる前の「向上心」が残ってて欲しかったと思います。そうしたら、希死感自体がなかったかもしれないのに・・・・。。。あ、もしかして私がその「向上心」を置き忘れてきただけで他の人はちゃんと持ってきているから死にたくならないのかなぁ(そういえば、(お恥ずかしいことですが)私は忘れ物が多いと子供の頃よく言われていましたっけ・・・(汗)) なんて考えてしまいました(汗)
自殺願望と言うよりは「虚無感」とでも言うのでしょうか? 未遂はあるけれど「死ねなかった」という事でしょうか? 痛いのは嫌で、楽に死ねたら・・・という事なのでしょうか? 少なくとも、あなたは20歳以上で、家族と友人が居るのは分かりました。 あなたの事は変だとは私は思いません。 世の中には、色んな人が居て、色んな事を考えたり感じたりしながら 色んな事を言動しているのだと思っていますから。。。 死を考えて少しも眠れないという事でもないのでしょう? 一日に一度は睡眠をとっているかと思いますが 眠って意識が無くなれば、その時は死んだも同然ですよ。 それこそ、あなたが睡眠中に事故にでも遭われて あるいは、殺人者があなたの命を奪えば、あなたの希望通りになれますよね? 普通の人が、普通に眠って、翌朝に無事に目を覚ます・・・という保障は どこにも無いのです。何が起きるか分からないのが世の中です。 わざわざ希望しなくとも、あなたが死ぬ時になれば、きっと死ねますから どうぞお気にせず、ご心配などもしなくても良いかと思います。 保障します! あなたは必ず死にますから、いつかは!!
お礼
ご回答ありがとうございます。 伝わりにくい文章で申し訳ありません。 >あなたの事は変だとは私は思いません。 ほっといたしました。 >自殺願望と言うよりは「虚無感」とでも言うのでしょうか? これは「虚無感」というのでしょうか(困惑)? 毎日明確に心の中で「早く死なせて欲しい、何年祈ったら叶うのだろうか」と切に願っているのでそんな感じはしていなかったのですが、、、すみません、自分でも「自殺でも事故死でもなんでもいいけど死を望む気持ち」=「虚無感」かどうかはわかりません。 >未遂はあるけれど「死ねなかった」という事でしょうか? そうです、計画的に自殺することを考えるだけまだ冷静なときは「いけない」とかとりあえず計画を立て、頭の中で実行に移してイメージ自殺してと少し幸せな気分に浸って戻ってくるのですが、実際に行動に出てしまうときは突発的で失敗をしてしまっています(紐が切れたり、紐を結んだ鴨居などが壊れたり等)。 >痛いのは嫌で、楽に死ねたら・・・という事なのでしょうか? そうですね、失敗したときの痛さとかを覚えたりするとそういう気持ちになったりしません(コレも私だけでしょうか)? >死を考えて少しも眠れないという事でもないのでしょう? >一日に一度は睡眠をとっているかと思いますが眠って意識が無くなれば、その時は死んだも同然ですよ。 >それこそ、あなたが睡眠中に事故にでも遭われてあるいは、殺人者があなたの命を奪えば、あなたの希望通りになれますよね? はい。死を望んだために一日に一睡も出来なかったのは今まで数日しかないです。おっしゃることはその通りで、本当に寝るときに「このまま目が覚めなければいいのに」と思っています。 いつか死ねる・・・・それはわかっているのですが、、、やはり私はないものねだりの餓鬼にすぎないのでしょうか。。。
- coneyxxx
- ベストアンサー率34% (21/61)
こういうことは、思っていても普段口にはしませんから、何が正常で何が異常なのかわかりませんよね。 私は質問者さんのように「死にたい」とは思いませんが、何もかも面倒になることはあります。もう生きるためにすべきこと全てが面倒で、今消えてしまっても別にいいや…みたいな感じです。しかし、そう思う時もあれば、ささやかな幸せに心を躍らせることもあるので、単なる不安定だと思います。 なので本当の質問者さんの辛さが分からずに安易な回答かもしれないのですが。。 物心ついたときからということなので、何かトラウマがあってとかそういうことではないのかもしれませんね。 その状態が苦しくて、良い方向に進みたいと思っていること、それだけで充分、「良い方向」に進む動機付けになります。 カウンセリングとか、受けてみてはいかがでしょうか? 別に、今の自分の考えが異常なのだと、否定することはないんです。 占い師さんも、「占い」というより「人生のカウンセリング」要素が多いのでいいと思うのですが、相性で当たり外れがあるので安易にお勧めできません。(多くの人が勧めていても、自分にとって相性が悪ければ却って傷になりますので…) そういう意味で、まずは心療内科のカウンセリングが良いかなと思います。 変に「自分はおかしいのでは」と否定的にならず、素直にお話されてみてください。 同時に、色々な本や映画を見たり音楽を聴いたりしてもいいかもしれません。 少しずつでも、苦しみが和らいでくるといいですね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >こういうことは、思っていても普段口にはしませんから、何が正常で何が異常なのかわかりませんよね。 本当に。今までは、苦しいものの「普通」だった希死感が、そうではないらしいと目にしたためか、今まで許せてたものが許せなくなったり(今までは他の人に意地悪をする人も「きっと死にたくて仕方ないのがあんな風に出てしまっているんだろう」などの見方をすれば、まだ我慢できたものもそうではなくなってしまったりしました)、希死感自体も苦しみはそのままに鬱陶しくて仕方のないものへと変化してきたように思います。 心療内科のカウンセリング、とても興味あります。。。。 今までちょっと倦厭していたのですが(なんか怖い感じがするのと、以前大学でカウンセリングを受けた際に(私が弱かったためか)酷く傷つけられたことがあったので、本当に自分の状態に必要なのかの確信が持てないと行きたくないなぁなんて思ってました)勇気を出して行ってみる必要、あるかもしれないと感じました。 >少しずつでも、苦しみが和らいでくるといいですね。 暖かいお言葉、いたみいります。 ありがとうございます。 貴方様もかなりお辛いときがあるご様子、どういってよいかわかりませんが、、、貴方様が笑って過ごせる日が多くなりますように。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >(命を大切にすることには大賛成です。でも、死にたいのに、死ぬな!ということこそ、その人の心を無視した、いじめ行為だと思います。) 私も命を大切にすること自体は賛成です、周りの人が死んだら私も悲しいから。だから死にたい人を止める理由も私の場合はただ、「私は死んで欲しくない」と伝えるだけだと思います。というか私が死にたいのに「命を粗末にして」「それは悪いことだ」なんていえないです・・・ >私も死にたいと思って自殺しかけたことがあります。私の友達にも、死にたい!と今も堂々と言い放っている人もいます。 >世の中には、死にたいと思っても話せない人はたくさん居るはずです。 よかった、私だけではないのですね、ありがとうございます。 救われた気がします(すみません、不謹慎ですね。同じように苦しんでいる人がいるということなのに)。 >ラクに死ぬ方法を知っておくのは悪くないと思います。逆に自殺予防になると思います。 >「いつでも死ねる!」と思えた人は、意外と死ななかったりするんです。 >いつでも死ねるんだ、と思いながら、楽しいと思うことをやって、気楽に生きる、というのはどうでしょう。 なるほど!素敵な案ですね。 もしかして貴方様もそのようにして頑張ってらっしゃるのでしょうか。 人殺しはしません(笑)相手が死にたがっているとしてもどのように死にたいと思っているかが判らないので。そんないい手段があるのなら自分に使ってます(笑)