• 締切済み

持ち父さんを読んで、なぜ「与えよ、さらば与えられん」なのか?

今さらながら「金持ち父さん 貧乏父さん」を読んで感銘をうけてます。 一点、どうしても論理的に理解ができないのがP199に出てきた「与えよ、さらば与えられん」のくだりです。 なぜ慈善事業や教会にお金を与えることで、お金をもらえるようになるのか、その仕組みがわかりません。誰かお答えいただけませんか?個人的意見なども大歓迎です。 自分は「もらってから与える」悪い癖があり、「与えてからもらう」に直したいのですが・・・。

みんなの回答

  • aicop
  • ベストアンサー率18% (2/11)
回答No.10

日本のことわざに「情けは人のためならず」とありますが、同じ意味です 人に情けをかけるとは、回りまわって自分にかけていることと同じ 「与えよ、さらば与えられん」→ 先にかけなければ、まわらないから自分にも戻らないということ さらに、情けをかけると1つ2つに5つにと膨らんで戻ると言うこと 本田宗一郎さんや松下幸之助さん本を読むと 多くの国民の皆様に便利に、喜んでいただけるようと言う行があります だから世界のホンダ、パナソニックになったわけです

参考URL:
http://ameblo.jp/noino777/
回答No.9

認識の問題です。 そして、その認識を逆転させることが、 何よりも一番難しいのです。 まず、寄付することは、 お金に対して抱いている悪の感情を手放すことを手助けします。 悪の感情がお金とリンクしているかぎり、 いくら表面的にお金持ちになる技を学んでも、 心と体がアンバランスであるため、 うまくいきませんし、 一時的にうまくいっても、 維持することができません。 また、「もらってから与える」という思考パターンは、 市場経済の売買の側面からいえば、 「買ってから、売る」という思考パターンです。 買えば、お金は出ていきます。 売れば、お金が入ってきます。 「売買」という言葉の文字どおり、 人は何かを売り、 手に入れたお金で、 何かを買い、 お金を支払います。 お金持ちになりたければ、 買うよりも多く売らなければなりません。 お金持ち(rich / リッチ)、 中流(middle / ミドル)、 貧乏(poor / プア)のうち、 お金持ちだけが買うよりも多くを売る術を心得ています。 ミドル、プアは多くの場合、売ることができるのは、 彼ら自身の「労働」だけです。 お金持ちは、「労働」だけではなく、 自ら商品やサービスを創造し、多くを売る術を身につけています。 どちらも世のため人のために貢献していますが、 ミドル、プアはその手段が自分自身であるため、 どうしても貢献する度合が限られてしまいます。 お金持ちになりたければ、 世のため人のために貢献できる商品やサービスの 中心(創造の原点)で自立しなければなりません。 お金持ちのマインドは、人から「何かを求める(買う)」のではなく、 人のために「何ができるのか(売る)」に立脚しています。 「私には何ができるのだろう?」 「私には何を与えることができるのだろう?」 と自問自答することが、 若くして心豊かに引退するための道への入り口です。 与えよ、さらば与えられん。 think 180 around.

  • bnosuke-x
  • ベストアンサー率39% (43/110)
回答No.8

もらいたがりさんからは人が去りやすく、 与えたがりさんには人が集まるからではないでしょうか。

回答No.7

小さな会社の経営者です。 もともと技術者でしたが営業やっています。 どうやったら売上を伸ばすことができるか・・・ 日々考えているのですが、 自分が売る側ではなく買う側ならよくわかります。 どういう営業から買いたいと思うか。 どういうお店から買いたいと思うか。 売らんかな!というオーラをはなっている営業マンとか 販売員なんかは瞬間的にこちらも身構えてしまいます。 「何かお探しですか~」と作り笑顔で近づいてきても 何か取られそうな気がして身構えてしまいます。 逆に買ってしまうお店とか販売員というのは、 自信があるというか、余裕があるというのか、 その自信や余裕がこちらがお金を払ってしまいたくなる そういう雰囲気を持っています。 それが 「まずお店側がお客に(何かを)先に与えている」 ということではないかと思います。 ノルマに追われた営業マンはその(何か)を与えることはできません。 お客が自分に何を与えてくれるかということしか念頭になく、 そのための話術とか、営業テクニックとか、そんなことばかりで 営業の成績をあげようと考えています。 どうすれば「買ってもらえる営業」になれるかと考えると (買ってもらえるオーラをもつことができるかと考えると) 「まず与えよ」ということになると思います。 ただしここで注意しなくてはいけないことがあります。 たとえば自分が「10」持っているときに、それを「1」に 減らして相手に「9」与えるという意味ではありません。 それでは自分が「減って」しまい、いつ元がとれるんだろう という不安が先に来てしまいます。 それでは「ノルマ」に追われた営業マンと同じです。 自分は「9」与えたんだから早くもっと返してくれ・・ギラギラ 成功するときの商談の場合というのは、 自分は「10」もっていてもそれが「100」に増えて 「90」お客さんに与えています。 お客さんに与えるときは、自分のものが減るのではなくて お客さんに与えているんです。 料理を作る人って、誰でも、おいしい部分を相手に盛りつけます。 魚の煮付けなんてどういうわけか頭の部分は相手に盛りますよね。 料理は創り出すことだから、相手に分けて与えたくなるんです。 だから正確にいうのであれば 「相手に何をあげることができるのか」←ケースによっては、 自分が更に減ってしまうというイメージを持たせかねない というのではなく 「自分は(周囲の人が喜ぶ)何を創りだすことができるのか」 ということではないかと思います。 創り出しちゃったら、黙っててもお裾分けしたくなるし お裾分けしたら、黙っててもお返しが来ますからね。

  • jacta
  • ベストアンサー率26% (845/3158)
回答No.6

#4です。 > 「もらってから与える」のも、「納得させてもらってから実践する」のも、貧乏人の典型的なパターン、というのはドキッとしてしまいました。そうなんだろうなあと。。。僕はこのパターンになってますね(涙)。 それがご理解いただけるなら話は早いです。 ここでいろいろな回答が得られて、「なるほど」と納得しても、そんなものは知識が一つ増えた程度で何の役にも立ちません。本を読んでいくら感銘を受けても、実践が伴わなければ何も変わらないのと同じです。 それより、自分のことはいったん横に置いて、周りの人が成功するために、あるいは周りの人がお金持ちになるために力を尽くしてみてください。そして、相手が喜んでくれることが、ご自身の最大の喜びとなるまで継続することが重要です。それにどんな意味があるかは、実際にやってみれば必ず分かります。

回答No.5

補足です。 >例えば知り合いや友達に「まず与える」そしたらその知り合いや友達に「与えられる」というのは、理解できるのです。自分も与えられたら与え返したいと思いますから。。。ただこう大きな世界(ここで言う教会や慈善事業)に対してとなると「?」がまだ出ちゃいますね。 なるほど。。。 知り合いや友達は「与える」行為を見ているし、「与える」私を知っているし、ギブ&テイクの矢印がハッキリ理解できますが、不特定多数の「与える」私をまったく知らないところに与えて、何故私に返ってくるのか???がまだ出ますね。 と、大まかに解釈させて頂きました。(本は読んでないので深い内容は知りませんので) ちなみに私は一会社の代表取締役、つまり会社員で、宗教家でもなければ、なんら宗教団体にも属していませんし、ごく普通に生活している人間としての話という事をまずご理解願います。 また、この本の作者は、根底にキリスト教がベースにある生活圏に住まわれている方と存じます。 上記のようにitochuさんが「?」を感じられるのは、”誰も見てないのに”何故「私」というところに返ってくるのか・・・?という事が根本的にあるように感じます。 itochuさんが、自分でしかわからない事をしていても、見ている人は必ず居ます。眼に見える人間が周りに誰も居なくても、必ずitochuさんの行動を見ています。口では建前を言い、心の中では悪口を言っても誰にもばれない・・と思っていても、心の中もすべてお見通しで見ている存在が必ず居ます。(口に出して言う事も、心の中で想う事も同じです) そういう存在を、「霊」や「神様」「仏様」と此の世ではよく言われますが、いわゆる「宗教」を勧めているわけではありません。が、必ず見ている存在が居ますので、「儲ける」為に「与える」事をしても、何の見返りも無く「与える」事をしても、その心の底から発する動機を必ず知っています。 ですのでitochuさんが「与える」想いや動機によって、「与えられる」分量も正確にピタリ一文も違わず、誰かと間違える事も無く、正確にitochuさんに返ってきます。(返ってくるんならじゃぁ自分から与えよう!と思って与えても、その思いがもうすでに見返りを求めた「与える」なので、返ってこないですよ) そういう「仕組み(法則)」を元の始めから創られているので、前回の返答にありますように、「与える」とは逆に、「取られた」「やられた」「騙された」等は根本的にありません。そう感じる、という事はすべて「自分の中にあるものを見せる為」という仕組みの上で、自分が自覚する為に成り立っているもので、自分の中に無ければそういう思いをする事はありません。すべて他人の出来事やニュースとして映画のように外部から見れるだけです。 自分に少しでも関わる事があるならば、「取った」「やった」「騙した」人を責める前に、外に文句を言う前に、自分自身の心を見直す仕組み、自分のした事がそのままあなたに返ってきますよ・・・こういう仕組みを聖書の中では「与えよ、さらば与えられん」と人間の言葉で簡単にわかりやすいように述べているだけです。 同じように「許しなさい。そうすれば許されます。」「愛しなさい。そうすれば愛されます。」という言葉等があり、仏教では「因果応報」と4文字で理解できるように伝えられています。 信じようが信じまいが、itochuさんのご自由です。信じろ!と強制はしませんし、受け流して頂いても良しです。 「誰かお答えいただけませんか?個人的意見なども大歓迎です。」とitochuさんの心が発せられたから、こういう何人かの方の意見が返ってきた、だけの事です。

  • jacta
  • ベストアンサー率26% (845/3158)
回答No.4

> 自分は「もらってから与える」悪い癖があり、 「もらってから与える」のも、「納得させてもらってから実践する」のも、貧乏人の典型的なパターンです。 類は友を呼ぶというように、自分と同じ価値観や人生観を持った人がどうしても集まりがちです。「もらってから与える」人の周りは、どうしても「もらってから与える」人が多くなり、結果として、誰もがもらうことばかりに執着してしまいます。 もう一点、「与えてからもらう」タイプの人であっても、もらうことしか考えていないない人には、与えないか、与えるとしてもその優先順位は最下位になりがちです。結果として、もらうことばかり考えている人は一番損をします。 なお、「与えてからもらう」ようにした方が「もらえる」ので「与えよう」と考えるのは、結局のところもらうことしか考えていないので、何の解決にもなりません。

itochu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「もらってから与える」のも、「納得させてもらってから実践する」のも、貧乏人の典型的なパターン、というのはドキッとしてしまいました。そうなんだろうなあと。。。僕はこのパターンになってますね(涙)。 「もらってから与える」人の周りは、どうしても「もらってから与える」人が多くなるから、というのも納得でした。 ありがとうございました。

  • m_inoue222
  • ベストアンサー率32% (2251/6909)
回答No.3

>その仕組みがわかりません 別に仕組みがあるわけでは無いでしょう 他人に親切にしていればそう言う人は他人から親切にして貰え易いでしょうね 有る偉い?お坊さんの話で「タライの水」と言うのを聞いたことが有ります ・タライの中で対面する人の方に水を押してあげれば縁を廻って自然と自分の方に返って来る ・自分の方に引き寄せようとすると逆に水は逃げていってしまう わたしもそれは日頃から気に掛けていますが確かに感じますね 常にそうでは有りませんが思わぬお返しが有ることが多いです 与え方にも色々有りますね ムダな事になることも良くあります...(笑)。 家庭菜園のトマトを5個揚げるとキャベツが10個になって返ってきたりします...(笑)。 わらしべ長者の話も似たような事でしょう http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/7211/Japanese/warashibej.html

itochu
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 タライの例えはすごく良かったです。 ありがとうございました。

回答No.2

慈善事業や教会とは限りませんが、「自分のした事がそのまま自分に返ってくる」のが人生の法則だからです。 「もらってから与える」癖や人生でもそれはそれで自分がそうしたいと思い選択するならかまわないのですが、以前や前世にて自分が与えてきた分が無くなった場合、それでも人から無理に貰おう(取ろう)とすれば、詐欺に会ったり泥棒や事故にあったりして、清算されるようになっています。 ですのでテレビやニュースなどで「私は被害者だ」「私は取られた」「私は騙された」と大声を上げてる人がたまに居ますが、それは「私は人から取ったんだよ」と自分で吹聴しているようなもので、可哀想でも何でもありません。 取る人(与えられる人)と取られる人(与える人)が、偶然ではなく、キッチリ出会いがあってそうなりますので、世の中で言う「被害者」「加害者」というものはありません。ニュースでは極悪非道の「加害者」に見えても、あなたにとっては関係ありません。極悪非道の「加害者」と散々騙された「被害者」と、お互い出会って清算するようになっているからです。 「被害者だ!」と言って裁判を起こし例え一時のお金を手に入れても、「取る事」の上塗りをしているだけで、またどこかで返す場面が出てきます。 もしあなたの身に、極悪非道の「加害者」に「被害に会う」ような場面が出てきた場合は、極悪非道の「加害者」が悪いのではなく、自分に何らかの責任があった、と自覚して悪を責めない事です。悪に見えるものはあなた自身の心の中にあるものが、その相手に投影されているだけですので、「加害者」も「被害者」もどちらもお互い、鏡を見ているだけです。ですので、警察や裁判も本来必要がありません。 また見返りを求めた”念”の入った「与え」の場合、自分がどこかで人に与えられても、またどこかで返さなければならない場面が出てきます。 それも結局は鏡だからです。 慈善事業や教会の場合、自分が直接的な見返りや礼を希望して与える事が少ないので、それがまたどこかで自分の事業や人生において+が残っていれば返ってくる、というだけの事です。 見返りを求めず与える自分が居れば、結果”鏡”として、見返りを求められず与えてくれる人が自分の前に見えるようになるからです。 慈善事業や教会に与える場合でも、例えば政治がらみや宗教団体のように別の方面での利権を追及したり、団体や世を操作したりする為に与えるならば、仮に一時返ってきても、またすぐ吐き出す事になります。 その本を読んでもし慈善事業や教会にでも寄付してみようかな?と考えられるならば、無記名で、本当に困っている人達に使って頂けるように与えてみて下さい。本を読んで「お金持ちになる為には寄付をしなければならない」と寄付をしても、例え世の中誰もその本心を知らなくて、例え世の中「この人は良い人だ。素晴らしい人だ。」と賞賛してくれても、どこかでまたお金を吐き出す場面や、倒産したり、病気になったり、事故にあったり、自分の念相応の出来事が起こります。 「自分は「もらってから与える」悪い癖があり、「与えてからもらう」に直したいのですが・・・。」との事ですが、何も考えずに与える事が普通の人は、あえてこういう悩みも発生しません。 こういう悩みが自然と出てこなくなった時が、この本を読んだ事がやっと生かされる時だと思います。

itochu
質問者

お礼

力強いご回答ありがとうございます。確かに自然に習慣がついていて、こういう悩みがなくたった時が良いのだと思いました。 「自分のした事がそのまま自分に返ってくるのが人生の法則」が、感覚的に「そうだろうなあ」とか「よく成功者もいってるし、本当なんだろう」と感じられても「なぜ?」がやっぱり消えないのです。 例えば知り合いや友達に「まず与える」そしたらその知り合いや友達に「与えられる」というのは、理解できるのです。自分も与えられたら与え返したいと思いますから。。。ただこう大きな世界(ここで言う教会や慈善事業)に対してとなると「?」がまだ出ちゃいますね。 でもta_0123456のご回答に感覚的にであれ「そうだろう」の思いは強まりました。ありがとうございました。

noname#116235
noname#116235
回答No.1

人間は欲が深いので、寄付した分を取り戻そうとして、前以上に金儲けに必死になるからでは?

itochu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。そういう考えもあるのですね。寄付した分モチベーションアップ、というところでしょうか。

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