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キリスト教の教え。現実は矛盾している?

はじめまして。私は現在22歳の男です。私はキリスト教にとても 興味があります。インターネットでいろいろ調べたのですが、宗派によって様々な決まりごとがあるみたいですが、私はタバコも吸いますし、婚前交渉(すなわちセックス)もすんでいます。 タブーとされる避妊なども経験があります。堕胎をさせたことなどは無いです。 もちろん上記の二つは自分の意思で止める事は可能なことだと思うのですが、世界中のキリスト教徒の方はタバコを吸ったり、セックスをしたり、コンドームを使ったりという方もいるとは思うのですが・・・実際はどうなのでしょうか? 例えば、外国の軍人の方たち・・・銃器を扱い、人を殺める可能性が 常にある仕事ですが、アメリカ軍人の中にはキリスト教徒もいると思うのですが・・フランスでは9割が信者と聞いたことがあります。しかし、実際に教えを守り、礼拝に行くのは7割程度と聞きます。しかし、彼らがプロテスタントなら、ワインは教えに反するだろうし、カトリックなら離婚、婚前交渉、避妊、堕胎はタブーとされていますが、フランス人の7割が上記の事を守っているとは到底思えません。 キリスト教徒=教えは絶対守る!! では無いのでしょうか? やはり世の中には都合のいいときだけキリスト教徒で、そうでないときは酒を飲み、タバコを吸い、セックスをする、離婚をする。そして墓だけは十字架の下に・・・という方はたくさんいるのでしょうか?

みんなの回答

回答No.13

 「イエス・キリストの十字架刑での死は人々のあらゆる罪を清めるための代償となっており、イエス・キリストは処刑後3日目に復活した神の子である。」このことを自分に罪があることを自覚した上で信じることがキリスト教であると私は認識しています。  自分に罪があることを自覚し、「許してください。もうしないようにします。」と悔い改めて、イエス・キリストの十字架での死の意味と復活を信じるならば、神の前ではいかなる罪も許されるのがキリスト教であると思われます。  悔い改めて信じ罪の許しを受けた後に、前よりもっとひどい罪を犯してもまた同じように神の前に悔い改めることができれば、許されない罪はないという無制限で無条件の許しがキリスト教の神の恵みであると思われます。  それが故に、アメイジング・グレイス(おどろくばかりの恵み)なのであると思われます。だから、作詞者のジョン・ニュートン(作詞後も奴隷商人をしばらく続けていた)は非常に驚いていたのではないでしょうか。  つまり、キリスト教は、ジェフリー・ダーマーのような連続強姦殺人犯だろうがなんだろうが、基本的に誰でも、どんな罪をおかしていようと無条件に許されるというおどろくべき宗教だと思います。(もちろん、この世で科せられる刑罰が許されるという意味ではないです。)  ですから十戒や聖書に書いてある教えなどを知った上でさらに何度と無く犯しまくっても本人が神に向かって食い下がるというか悔い改めていけばキリスト教徒でありうると思われます。(何度と無くそういうことを繰り返せるかどうか本人次第) であるので、 >世の中には都合のいいときだけキリスト教徒で、そうでないときは酒を飲み、タバコを吸い、セックスをする、離婚をする。そして墓だけは十字架の下に・・・ というような思いを心から神様の前で悔い改めるて信じるならば、神様は許してくれると知っているのがキリスト教徒なのではないかと思います。 ということで、 >・・・というような方々はたくさんいらっしゃるのではないかと思われます。  聖書を読んでみると、イエス・キリストの教えを守ることなどほぼ不可能に近いと認識するのではないでしょうか?(そう考えないと逆に不健全ではないでしょうか?)聖書曰く「この世に義人は一人もいない。」のです。 狭き門をくぐる真のキリスト教徒(クリスチャン)とは「イエス・キリストの弟子」or「イエス・キリストを信じ見習う者たち」であり、絶えず、冒頭のことを信じ、イエス・キリストを敬愛し、感謝し、その愛を伝えていこうという気持ちを持った人々であると私は思います。個人対イエス・キリスト(神)との関係なので、あるべきキリスト教徒のあり方とか現実はどうとか関係ないんだと思われます。長文すいません。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.12

<<キリスト教の教え。現実は矛盾している?>> 全知全能の神によって全てが作られたのならば、全ては全知全能の神によって作られた完璧なものであって苦しみや悲しみがあろうと、信じようが信じなかろうが、どんなひどい行為に陥ってもプログラムどうりですから全て神のせいだということになってしまいますね。神のせいだといわせるのも神のプログラム。全知全能ですから。 全知全能の神によって全てが作られたのならば…ですが。 という、考え方もあるようです。

noname#69788
noname#69788
回答No.11

キリスト教では、酒もタバコも禁止されていませんよ。

masa2400
質問者

お礼

補足を訂正します。 「禁止」ということではないようですね。 慎みなさいと言うべきでしょうか? どの宗教でも宗派によってまったく内容が違うのですね・・・ 勉強になりました。

masa2400
質問者

補足

カトリックでは過度の喫煙、飲食でなければ可能だそうですが、 プロテスタントはきんしされているそうです。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.10

無宗教のものですが、、、、 絵を眺めるとき、絵のまん前に立って見るより、ある程度距離を取って絵を眺めたほうが、その絵に何が描かれているかわかるってことありますよね。 戒律。 仏教において「戒」とは<自分を律する内面的な道徳規範>で、「律」は<自分が所属する集団における規範>のことだそうです。 戒を破っても罰は受けないが、律を破ると罪の内容によって罰を受ける だそうです。 日本。 戒は道徳的なもので、子供を大人は大事に育てるものだと道徳的なものがありますが、子供が泣いているのに無視して通り過ぎたとしても、警察にしょっぴかれることは無い。 だが、「隣の家からするどい子供の悲鳴が聞えている場合は、警察に通報すること」という条例が施行されている地域において、虐待が行われていると知りながら通報しなかったとされた場合、ネグレクトしたとして、罪に問われますよね。 「他人に家の教育の問題に口出ししない」は通用しない。 集団内における規定を破ったため罰せられるわけです。 つまり律を破ったから罰せられる。 集団内に定められた法律を破ったから、規定にそって罰を与える。 ある集団における裁きのルール。 裁きの前でこう証言しなければならない。 「我、他者に偽りを行わず  我、隣人を貪らず  我、殺さず」 オシリスの裁きの場に引き出されたとき、そう自分で証言しなければならない。(死者の書より) まだまだありますが、内容は旧約聖書の10戒とほとんど一緒。 いや 項目においては10以上ある。 最後の審判において、それだけチェックポイントがあるわけです。 全部集団における規律の「律」ではなく、「戒」ですよね。 旧約聖書に書かれているモーセの十戒。 1から4までは神との関係における戒で、5から10が人と人とにおける戒、いわゆる日本でいうなら法律。 5から10までの規定はこれを破ったものは人によって裁かれ、1から4までは人は裁けないが神が裁く と。 モーセ5書がトーラと呼ばれるもの。 成立していくうち、それを破るものに対して罰則も設けられるようになった。 <姦淫してはならない> 例えば夫が死んだ妻が、親族以外の者と親しく喋ったら、それだけで姦淫したとされた。 イエス物語で姦淫したとされた女性が石打の刑に処されそうになったエピソードが載っている。 ここで私はフト疑問に思ったわけです。 イエスは神を冒涜したとされたのに、物語の中では石打の刑にあっていない。 でも、姦淫したとされた女性は石打の刑にまさに処されようとしていた。 集団内の規定であるトーラに違反した者が石打の刑になるのだろうか? その境界線がよくわからない。 ヘロデ王は姦淫したとされた。 が、「それは姦淫だ」 と指摘したヨハネの方が首を落とされ殺された。 物語にはかなり混乱が見られるようなんですね。 さて、キリスト教団内における法律。 その宗派によって「律」が違う。 「少しでも性欲を覚えたものは、体に何回鞭を打ちなさい」とか、ルールが集団によって違うんです。 信者の模範となるイエス、大酒飲みであったことが描かれてるので、酒を飲んでもいいという宗派もある。 ユダヤ教に新しい派閥を作り、集会をしているところに、家族が説得に行くと「なんの関係があろうか」と突っぱねて耳を傾けようとしなかったことから、信者は家族と関係を断ち切り出家すべきだ という派閥もある。 清貧を説きながら、全財産を寄付しなかった信者は神によって殺されたぞ と脅し、出し惜しみする信者から金を巻き上げ、金ぴかの御殿を作って信者にはその施設を使わせない派閥もある。 >フランスでは9割が信者と聞いたことがあります。 >しかし、実際に教えを守り、礼拝に行くのは7割程度と聞きます。 もっと少ないようですよ。 http://okwave.jp/qa1182850.html 歴史的なものがあるのかもしれません。 フランス革命がありましたが、あれは何故起こったのか。 王権とキリスト教の腐敗が原因だと思えます。 妥当独裁権力者 と王権以外に自分達の利益しかかえりみなかったキリスト教団に対しても攻撃をしかけた。 腐敗した者に対する信者の攻撃だったわけです。 その腐敗しきった権力を倒すこと影で指揮していた集団がいた。 アメリカは腐敗しきったキリスト教から自由になるために作られた国。 フランス革命を影で指揮していた集団が、アメリカの自分達の集団に贈ったものが自由の女神像。 だからフランスにもアメリカにもある。 日本にも何故か贈られてきましたが・・・・。 というわけで、水は滞留していると腐る。 腐った水に魚は住めない。 律を設けたところでその張本人が腐ってしまっていてはどうしようもない。 信者は聞きはしないわけです。 言っている本人すらできないのに信者にやれとはいかに。 言っている本人が腐っているのに、信者に清い生活をせよとはいかに。 フランスはキリスト教が侵略する以前地元を守る神がいたんですね。 土着の神をキリスト教は習合した。 その内容を取り込んで、キリスト教とした。 これに成功したことで改宗させるこをとができた。 つまり征服され乗っ取られてしまったわけです。 しかし、もともと地母神崇拝が根強いので、イエスよりマリアの方が信仰された。 イエスではなくマリア信仰をキリスト教は認めたため、布教に成功しただけの話。 マリア信仰の正体は、キリスト教がやってくる前に信仰されていた地母神。 というわけで、教会にはマリアである自分達を守る神を崇拝しに行っていたのだと思います。 従ってキリスト教の掟に支配されなくなったため、あるいは習合される前の信仰を取り戻したため、教会に行く必要が無くなったのではないかと思います。 >世界中のキリスト教徒の方はタバコを吸ったり、セックスをしたり、コンドームを使ったりという方もいるとは思うのですが・・・実際はどうなのでしょうか? キリスト教は大変な女性蔑視教でもあります。 「女は無原罪だったアダムをそそのかした悪魔である」 「女は便所である」 はキリスト教聖職者の言葉。 病的なまでになり、聖職者に結婚をしないように規定を設けることとなった。 それを拒否した聖職者は公開鞭打ちや処刑。 それでも言うことを聞かなかったので、結婚していた聖職者の結婚そのものを無効であると法律で決めたんです。 そして女は悪魔であるとして、悪魔だと自白させようとして拷問して殺していった。 (男も魔女だとして殺された) 特に外国人 つまり キリスト教徒ではない金持ちがターゲットにされた。 何故なら、その財産を奪い分配できたから。 これも規定でそうなっていた。 もう 病気です。 神の祝福とは子沢山のことですが、それを聖職者に許さなかったのですから。 つまり神が祝福しようとしても、キリスト教は法律を作ってそれを妨害したわけです。 そして聖職者は結婚できなようにしたが、その宗教者の衣食住を支える羊達は多い方が、財産を多くもらえるので、在家信者にはじゃんじゃん子供を生んで信者を作り、もっと金を取れるので、コンドームの使用も禁止し、金の成る木をもっと増やしてほしかったわけです。 ユダヤ教では神の力で多勢に無勢な戦争に勝ったとしていますが、キリスト教では神を信頼していないので、とにかく兵力を増強するためには、兵士をじゃんじゃん在家信者に生んでもらって、多勢で勝たねばってわけですね。 >外国の軍人の方たち・・・銃器を扱い、人を殺める可能性が イエスも使徒に「剣を持て」と指示しています。 10戒に「殺すな」とありますが矛盾していないか? いえ。  この殺すなというものは「私の民同士が殺し合いなどするでしょうか するわけがありませんよね」というニュアンス。(古代ヘブライ語には、命令+否定形はない) イスラエル人(ヤコブの子孫)同士で殺し合いはしない という言葉なわけです。 だからイエスはイスラエル人ではないローマ人に対しては剣を取り殺してもかわまわいとしたわけです。 聖書だってイスラエル人ではない人たちを殺していたことが描かれています。 イスラエルの土地を奪いにやってきた時、イスラエル人は撃退しています。 だが、私が知らないだけかもしれませんが、侵略殺人はやっていないと思えます。 ブッシュは自分をとても聖書に忠実な人物であると言っています。 ブッシュやアメリカ軍が全員イスラエル人であれば、イスラエル人ではないアラブの国の人を殺しても、10戒に違反していないわけです。 奥さんの方はユダヤ人系列かもしれないが、ブッシュもそうなのでしょうか。。。。 では、アメリカ兵士は? 「右の頬を打たれたら左の頬を出せ」 これ、クムランの宗規(クムラン教団に置けるその集団内にのみ適用されるルール)に書かれている言葉です。 どういう意味か。 暴行を受けようと、拷問をされようと、信仰心を捨てないという意味じゃないかと。 十戒の1から4まで。 神が定めたルールと人が人に押し付けたルール 二つが混在している。 確かに人が決めたルール(法律)により私達はジャッジされ、投獄されたりします。 信仰においては、社会的ルール以外の掟が存在する。 神のルール。 これは人では定めらない。 人が人を支配し、肥え太るために設けたルールは、神のルールより下。 神ではなく、人の支配者が定めたルールに縛られて、神から遠ざけられた場合、人は目が潰される。 イエスは盲目の人の目を癒したと物語ではなっている。 ヘブライ語の「目がいい」「目が悪い」という意味は、「気前がいい」「ケチ」という意味。 日本語だってありますよね。 「旦那 目が肥えとりまんな」「旦那目利きだね」「1万でどうだだって? あんさんめくらどすか?」 など。 クムラン教団において在家の信者は10分の1税を教団に納めることになっていた。 在家ではなく共同生活を始めた人は、もっていた財産を預けた。 ただし、まだ穢れているので、2年の期間が設けられ、その間その預けられた財産を教団は共同体のために活用しなかった。 イエスがサタンと問答したように試験があり、それをパスしなければ、清められたと認定されず、その持ち主だったものが預けた財産は共同金庫に入れれることは無かった。 信者は全部没収され自由に使えなかったかといえば、ある程度自分の財産を共同生活において所有していた。 そして経過をおって昇格していったわけですが、教団内のみ適用される規定に違反した場合、その程度によって処罰された。 人との交わりを禁じたりなど、期間が設けられ、一番重い刑は死刑。 つまり、破門。 死者の衣装を着せられ、穴に入れられ、死者として扱われた3日後、共同体から永久追放。 その者とは永久に交流することを禁じられ、物のやりとりも禁じられた。 イエスのモデルになった人も、破門され新しい集団を作った可能性もあります。 だからクムラン宗団の規定にキリスト教が似ていることになった と。 (違う部分もあることから、クムラン教団の幹部が後にキリスト教となる集団を作ったのではないと思います。) ということで、、、、人が決めるルールに右往左往して惑わされても、それは信仰じゃなく、日本の法律を守るかどうかという問題と同じようなもので、集団内に適用されるルールで、私達の物質的 あるいは行動は制限されますが、信仰は、、、、、それとは違うと思います。 集団内のルールを守っていたら、その集団内において「良い人」と認定されるでしょうけど、、、、 信仰って人が定めた法律を守ることが信仰だとしたら、その集団内で定めた有限が神だったってことになります。 その集団のトップや幹部や人が決めたルールが神? まさかですよね。 あなたは人が決めたルールを神が決めたルールだと思わされて、支配されているだけだと思うんですね。 人が人を支配する。 一番やってはならないことだと思うんですね。 もちろん共同体のルールは必須です。 だけど、それは人の生活を守るため、安らぎを与えるために動くものであって、人を閉じ込めるために設けられたものではあってはならないと思うんです。 ましてや マイルールを全ての人に守らせるためには拷問、殺しすらやる って狂っている。 それは絶対悪。 そしてその絶対悪が住み着いた体が他者を鎖でつなぎ不自由にする。 サタンの僕にされてしまっては、信仰って何? って思いません?

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.9

質問者の方は、キリスト教に関しての知識が無い方と見受けられます。 この手の質問をする場合、もう少し知識を持ってから質問しませんと、回答内容も理解できないと思えます。 カトリックの場合、その戒律は、聖書や使徒などによるものよりも、過去の慣例からきています。 つまり、キリスト教がその地に広がっていった時のその地の道徳や習慣を戒律として加えていったものです。 ですから、ある地域での慣例が、別の地域での慣例と相反する場合もあります。 中世ヨーロッパにおいては、それを一元管理していましたが、宗教改革期にカトリックの行った反宗教改革により、各種の考え方、慣例は、地域や個人の考え方を広ろく認めるようになりました。 そのため、ローマ教皇が、避妊を認めなくても、地域や個人の考え方までも規制する事はできなくなっています。 プロテスタントにおいても同様で、何を守るかは、教派や個人の判断に任されています。 そのため、厳格な戒律を自らに科し、兵役拒否や自給自足に近い生活をする人達がいる一方、戒律を全く意識しない人もいます。 厳しい戒律や厳格な解釈を行えば行うほど、教派は小さくなります。 大きな教派では、解釈の内容に大きな差ができています。 これは、イスラム教でも同じで、イスラムでは飲酒が禁止されているのが一般的ですが、飲酒をするイスラム教徒もいます。 これは、コーランにおいて、はっきりと飲酒を禁止していないで、「飲酒はしないほうがよい」という書き方になっているためです。 (豚肉ははっきり禁止されています) 宗教戒律と実際の状況が会わなくなった時、人は色々な解釈をします。 中世ヨーロッパでは、カトリックの影響で離婚が禁止されていました。 しかし、実際は離婚と全く同じ事は、ごく普通に行われていました。 その解釈としまして、離婚ではなく、そもそもその結婚が無効であったとするものです。 「そもそも結婚が無効であったので、二人が分かれるのは当然の事で、離婚には当たらない」という考え方です。 この考え方は、「実質軍隊である自衛隊は、軍隊ではないので憲法に反しない」とする考え方と全く同じです。 キリスト教がタバコを禁止しているというのは初耳ですが、タバコは、16世紀にアメリカから入ってきた物なので、中世以前のキリスト教圏にはありませんので、キリスト教で禁止しているというのは誤りだと思います。 性交渉に関しましては、聖書の記載にもとずき、フリーセックスどころかあたりかまわず乱交を繰り返した教派もありました。 (有名なのがフス派の中のアダムス派です) また、極端に性交渉を忌避した考え方(子供を作る行為も禁止)していた後期カタリ派ですが、その一方では、フリーセックスも充満しており、その2つが混在していました。 つまり、性交渉を徹底的に拒否する人と、性交渉を徹底的に行う人とに分かれており、中間層が少ないという特徴がありました。 これは、カタリ派の考え方からくるもので、性交渉を徹底的に拒否する人は、徹底して行う人を拒否しません。 むしろ通常の性的考え方をする人を拒否していました。 フリーセックス派の人達は、自分達ではまねできない徹底した性行為の忌避者をうらやましく思っていました。 キリスト教と言いましても、いろいろな事があるのです。

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.8

キリスト教というのはなんなのか。 イエスという人物が神の子であり、十字架にかけられて死んだにもかかわらず復活したというところをキモとする信仰であると説明しがちです。 もちろんその側面もあるのですが、むしろそれより、ではなぜイエスは死ななければならなかったか、ということに注目してみましょう。 全ての人を罪から救うため、という説明もありますが、私はもっと直接的なことを言います。 当時の宗教的権力者である律法学者やファリサイ派の人々に恨まれたからです。 では恨みを買うようなことを言ったのか。 ユダヤ教には多くのタブーがあり、生活のためにはそれを破らざるを得ない人も大勢いたのです。 律法学者やファリサイ派の人達は、そうした連中を救われないものとして見下していたわけです。 ところがイエスはそれに異議を唱えた。 そんな教条主義じゃ救いはない、と。 愛に欠けていて、自分達が救われると思うな、と。 全て許せ、と。 キリスト教はイエスの教えを引き継いだというより、イエスこそキリストであるという教えなのです。 そのせいもあるのでしょうか、現実に合わせて、歴史に沿ってあれはダメこれはダメというものが生まれ、結果として掟が増えてしまったのです。 今、「現実に合わせて」と言いました。 だから、当時は現実と合っていたのです。 合わないものは異端として排除する(このこと自体も本当はあまりよくなかった。自分が正しいという前提で相手を裁くことは、イエスの教えたことと逆です)動きがずっと続きました。 そのせいもあって、多くの宗派に分裂してしまいました。 イエスの教えというのは、神と人を愛せ、裁くな、すべて許せ、という基礎があります。 だから、多くの「~してはならない」などというのは、キリスト教の歴史上仕方なく生まれた老廃物のようなものだと私は考えます。 むしろその老廃物を全て取り去って、全てを仕方ないものとして受け入れるしかないのではないでしょうか。 その点で見れば、多くのキリスト教はイエスの教えから離れていると言えるかもしれません。 都合のいいときだけキリスト教徒というのは、むしろ日本人に多いんじゃないでしょうか。 クリスマスとか、イエス・キリストそっちのけで騒いでいますし。

回答No.7

此身もキリスト教という名前のクリスチャンではないが、クリスチャンではあります。下にジャイナや仏教のことがありますが、正確にはインドの聖者の方の教えの中のものです。未熟ではあるが、顧みれば古希にいたる多くの年月、この教えに傾倒してきました。ご質問の通り、踏みこむ前はこういうような疑問などもありました。だんだん生活が、教えでいくことを許し、可能にしてくれるようしてくれてきております。勿論の勿論のことですが、今も教えを完全に、などとは到底いきません。教えは神のお気持ちに、森羅万象に一体になることですから、その手法の実践ですから、それで本当は、教えに入ったといえるのでしょうが、そういうことであれば、私は永遠に道を歩めません。精進や勉強が出来ません。重ねて勿論ですが、そうなっていなくて、道を歩むことを、精進・勉強・研鑽をしております。責めることもし、それは反省と精進と努力に変換します。

  • hotaru936
  • ベストアンサー率45% (10/22)
回答No.6

はじめまして。 私は、プロテスタントの1信徒です。 聖書を読めば、旧訳では、やっちゃいけないことが ビシ--と綴られています。 でも、イエス・キリストが来られたことで、規則が変わりました。 それは、 「神様を第一としなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」 この2つだけです。 実は、数は少ないのですが、この決まりは、旧訳の全ての 規則を守るより、ずっとずっと難しいことなんですよ。 タバコを吸った人はクリスチャンになれないなんて、 聖書のどこにも書いていません。 良い行ないをしたとき、神様も喜ばれますが、 良い行ないは、クリスチャンだからとは、限りませんよね。 イエス・キリストは、たくさんの病人を治してさしあげました。 歩けなかった人が、瞬時に歩けるようになります。 そのとき、キリストは、必ずこう言います。 「あなたの『信仰』が、あなたを治したのです」...と。 つまり、神様目線から見ると、善し悪しは、行ないではなく 「キリストを信じているか?信じていないか?」これが全てです。 お近くの、教会へ行かれてはどうでしょう? もっと解りやすく教えてくれますよ。平日でも、朝でも夜でもいつでも いいんです。それが、牧師の仕事のひとつでもあるのだから。 つたない経験談で、ごめんなさい。 でわでわ(^^)/~~~

  • pojipoji
  • ベストアンサー率32% (53/161)
回答No.5

仏教が肉食を禁じているような書き込みがあり、不勉強では有りますが、わたしはその件をこれまで聞いたことがなくWikipediaで調べました。 「一方で仏教は、南伝のパーリ経典によれば、釈迦は直接殺を禁じ菜食主義を戒律に含めることを明確に拒否する記述があるだけではなく、肉を食べたことが記されているので肉食は不殺生戒を破ることにならない。さらに釈迦に食事を振舞うために在家信者が肉を召使に買いに行かせた記述もある。この理由として示されるのは、苦界においては存在する限り間接殺は避けられないものであるため、貪ること避けるのが第一の中道であるとされている。」 「一方の北伝の大乗仏教の経典では釈迦が肉食をしたとの記述はないが、肉食が不殺生戒を破るとの主張をする経典も存在しない。しかし小乗の阿羅漢の道でなく菩薩の道を歩むにおいては慈愛の心を育む必要から肉食を避けることの重要性を強調する記述が何度も見られる。この考えに則った大乗の菜食はジャイナ教徒の食事と似ており、肉食だけでなく植物殺を生じる球根野菜の使用を避ける。ただしジャイナ教の僧侶のように、最終的に微生物の殺生をも避けるために水を取ることさえ拒否し入滅するようなことはない。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0

  • tatsu01
  • ベストアンサー率18% (292/1540)
回答No.4

プロテスタントのクリスチャンです。 聖書には、直接「~してはならない」と神が罪と定めたのは十戒以外にありません。 ここには酒を飲むな、タバコを吸うなとは書いてないんですね。 ただし、違う個所には「酒に酔ってはいけません。」とも書かれています。 私は酒は飲みますが、元々強くないので酩酊するほど飲まないし飲めません。 セックスについては姦淫するなと書かれています。 これは、配偶者以外の人と関係してはならないという意味です。 =婚前前交渉はNGですね。 避妊については禁止していません。 堕胎は殺人なのでもちろんNG まぁ、「罪」が何なのかは、信仰を持たないと理解できない部分ではあります。 個々の話はともかく、原則を申しますと、クリスチャンの行動基準は 「聖書は何と言っている(書いてある)か?」 「イエスだったらどうするか?」 です。 >キリスト教徒=教えは絶対守る!! では無いのでしょうか? 基本はそうです。しかし、100点満点で95点以上が合格ではないのです。 100点を取らないと合格ではないのです。これは人間にはできません。 軍人にもクリスチャンはいますが、彼らが信仰と職務と どう折り合いをつけているかはわかりません。