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スターリングラードの戦いについて
第二次世界大戦の独ソ戦で、スターリングラードの戦いは 非常に大規模な市街戦だと聞いています。 が、高校のときの先生から、この大規模な市街戦の中、 住民の一万人ほどは市街戦の最中であるにも関わらず、 スターリングラードで生活をしていたらしいと聞きました。 ウィキペディアで見ても非常に激しい戦いであったようです。 そんな中、住民が生活することなどできたのでしょうか?
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当時、スターリングラードには60万人の市民がいたと言われています。 スターリングラードから避難するにはヴォルガ河を渡らねばならなかった訳ですが、船は全て軍が徴発して使っており自由にはなりませんでした。 また、スターリンは、市民がいれば、スターリングラードで義勇兵として軍に参加した兵士は家族を守る為によく戦うだろうと考え、なかなか避難の許可を出さなかったとも言われます。 この結果、ドイツ軍が攻撃を開始した最初の一週間で砲撃・爆撃により4万人の市民が亡くなったと言われます。 後には、避難の許可がおりますが、対岸に渡れたのは30万人だったと言われています。全員を避難させる事はできませんでした。多くの船がドイツ軍の攻撃により沈められ、前線で戦っている部隊ですら補給は不足し、負傷者を撤退させられないほどの戦況になったからです。 こうして多くの市民が残された訳ですが、ドイツ側では、ヒトラーが占領地域の市民を街から退去させるよう命令を出しています。 これにより多くの市民がドイツの後方占領地区に移動させられたと言われます。一説によると6万人の市民がドイツ本国で強制労働させられるために運ばれたとも言われています。 避難もできず、ドイツ側にまだ捕われていない市民が市内に残っていた訳ですが、その殆どは子供と女性と老人でした。男は兵士として戦っていたからです。その残された市民の生活は悲惨を極めました。 廃墟の地下室や下水道、切り立った川岸に掘った横穴に隠れました。 夜になると郊外で木の根っこや野生の果実を探したり、ソ連・ドイツ、両方の前線に行って一切れのパンを分けてもらったりしたそうです。 女性は生きる為に、子供達の為に、そのやせ衰えた体をドイツ軍の兵士にすら提供し、食料を貰ったそうです。 ドイツ軍の食料を盗もうとして射殺された子供もたくさんいたそうです。戦火で焼けた穀物倉庫があった場所で、焼けた小麦を拾っていた子供もいたそうです。 また、子供達は食料を得る為にドイツ軍に利用されています。 ドイツ兵は子供達に水筒を渡し、ヴォルガ河の水を汲んでこさせ、それと引き換えに、パンを一かけら渡しました。ソ連の狙撃兵が狙っていて危なかったからです。ソ連兵は子供達がドイツ兵士の為に水を汲んでいる事を知り、その子供達を射殺しています。 また、ドイツ軍は市民に食料と引き換えに、戦場で死んでいるドイツ兵を自軍の陣地まで運ぶ事もさせました。この事についてもソ連軍は、死体を運んでいる市民に容赦なく発砲し射殺しています。 スターリングラードが解放された時、9796人の民間人が生き残っていた事が確認されました。その殆どの人は、汚染された水と粗末な食物しか取れなかった結果、やせ衰え、病気になっている者も多かったそうです。 生き残った子供にしても、精神的に参ってしまい、怖がって大人と話をする事ができず、相手の顔をまともに見る事もできない子が沢山いたそうです。 スターリングラードでは大勢の市民が死にました。生き残った9796人の人達は、悲惨を極める中で、やっとの思いで、どうにか生き延びたという事でしょう。
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- komes
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当時のソ連においてスターリンはレーニンにちなむレニングラード、自身にちなむ名をもつスターリングラード、首都モスクワにいついては象徴都市として死守する決意でした。 モスクワについては既に防衛戦が成功しドイツ軍を撃退し、レニングラードは周辺に河川が多く防御し易い地形で籠城軍や市民をまきこんだ戦闘と凍結した湖沼を強行突破する補給を絶やさない努力により敗北を免れていました。 冬季の寒気を避けて南方に転じたドイツ軍にとって攻撃目標として残ったのがスターリングラードだったわけです。 ボルガ河は凍結することもなく補給は船に頼るしかありません。 しかしソ連軍はあらゆる手段を講じても死守することでドイツ軍の消耗を図るため全力をここに集中したのです。 スターリングラードは軍需産業都市で戦車工場もあり女子も交えた防衛を図り、ドイツ軍が塀そとまで迫っても操業を続けたといいます。 しかもカウカス油田地帯との連絡路でドイツ軍としては戦略的に占領が必要でした。 ソ連側は人命を犠牲にした戦術をとったので犠牲者は軍民間を通じて多数に上りました。 このような激戦下にあっても人間の生存本能は有効で弱者はともかく生き延びる事は出来るものです。 鉄の暴風といわれた沖縄戦でも人間はなんとか生き延びるたものです。
お礼
>しかもカウカス油田地帯との連絡路でドイツ軍としては戦略的に占領が必要でした。 ソ連側は人命を犠牲にした戦術をとったので犠牲者は軍民間を通じて多数に上りました。 戦争の指導者はともかく一般人にとってはホントに迷惑な話ですね。 ご回答ありがとうございます。
- tanuki4u
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けど レニングラード包囲戦では、市民が67万~150万死んだといわれています。それでも、レニングラードで生活して生き残った(逃げられなかった)市民がいるわけです。 生き残った。 そういう意味での、住民の一万人がスターリングラードで生活していたということです。
お礼
ご回答ありがとうございます。
- myeyesonly
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こんにちは。 前の方の通り、「できるにはできた」訳ですが、その後が大変だったようです。 ドイツ軍は雪によってほぼ兵力が機能しなくなった上に包囲されてしまい降伏する事になったわけですが、勝利した側も町は破壊し尽くされ、補給も滞った状態で厳冬期を迎えたわけです。 食料も欠乏し、沢山の市民が餓死、凍死、衰弱死したらしいです。 伝え聞く話では、壁紙を剥がし、その裏についた糊を煮出して食料にしたとかいう惨状となったといいます。
お礼
>壁紙を剥がし、その裏についた糊を煮出して食料にしたとかいう惨状となったといいます。 秀吉の鳥取城の飢え殺しと同じような状況ですね…。恐ろしいです。 ご回答ありがとうございます。
- caesar-x2
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できたかと聞かれれば、「できた」というのが答えです。 このスターリンの名を冠した都市をソ連は放棄するのを拒んだので 徹底抗戦となりました。 ドイツ軍は電撃戦を得意としますが、都市攻撃では この利点が発揮されないので、工場やビルの一軒一軒を めぐって歩兵同士の長く厳しい戦いになったのです。 住民の避難させるということはその都市が機能不全に陥るということなので あくまでもソ連は住民を残し、工場も可能な限りは操業させ、 ボルガ川の対岸から人員をどんどん送り続けたわけです。 住民は廃墟や地下下水道で食うや食わずの生活で、 ほとんどが亡くなるわけですが、スターリンのソ連が そんなことを気にするはずも無く、長期戦は最終的には逆包囲の形になって 補給を絶たれたドイツ第六軍は降伏を強いられます。
お礼
>あくまでもソ連は住民を残し、工場も可能な限りは操業させ、 ボルガ川の対岸から人員をどんどん送り続けたわけです。 恐ろしい状況です。 ご回答ありがとうございます。
お礼
ホントに地獄のような状態だったのですね。 かなりリアルでしかも詳しい情報、どうもありがとうございました!