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フランス革命時のフランス軍の強さについて
フランス革命後、(1793年に)オーストリア・プロシア連合軍がフランスに宣戦布告してヴァミールの戦いまでフランス軍は連戦連敗だったにもかかわらず、ヴァミールの戦い以降は連戦連勝で1813年にナポレオンがロシアで敗れるまでは負け知らずでした。 一体、何がフランス軍をかえたのか、おしえてください。
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まずヴァミールではなくヴァルミー(Valmy)です。 ちなみにこのヴァルミー会戦は砲撃戦と合唱があっただけで たいした戦闘はなくて、もともと戦争に消極的だったプロシア軍が 一応前進を阻止されたの口実に退却を始めただけです。 それでこの会戦はフランス軍が勝利したとは言い難い戦いでしたが、 最後まで戦場に残ったほうが勝者という慣例に従ったまでです。 ま、たしかに共和国軍最初の勝利ではあるのですが、 両国の政治的背景が影響したものだといえますから ゲーテはフランス兵の士気の高さに驚いただけで、勘違いだったのです。 さて、ところで連合軍がフランスに宣戦布告したのではなくて、 フランスが各国に宣戦布告したのです。 革命戦争はすべてフランス側から宣戦布告となるというのは 必ずチェックされる要注意ポイント。 そして自ら宣戦布告したにもかかわらず、フランスには戦争の準備が まったくなく、軍の指導者たちは最初から開戦に反対していたのですが、 さらに彼らはすべて大貴族出身だったので、 ロシャンボーやリュクネル、ディロンら軍司令官は 平民で革命派が多い兵士に信用されておらず、相互不信から軍隊は敵と戦う以前に 味方同士で足の引っ張り合いをしていました。 さらに兵士の大半も連盟兵など興奮して革命に参加しただけのド素人が主で 秩序も訓練もされてない部隊が多かったことから、 兵士は銃の使い方も知らず、そもそも銃も不足してたのですが、 何かあると大混乱し、貴族士官の命令に反抗したり、 勝手に隊を離れたり、家族を連れてきていたり、 気に入らない味方の司令官を銃撃したりしたので、 フランス軍は戦うたびに負けるという状況になったわけです。 これは当然です。戦う状態になかったわけですから。 つまりは何が変えたのかではなく、あなたが知るべきは まず1792年および各年の状況はどうだったか、どういう展開であったかということです。 それを知らないで、大雑把に考えすぎてますから、 何かでガラッとかわったかのような誤解してますね。 実際には積み重ね、変遷があるわけで、状況にも依存します。 ”ヴァルミー以後は連戦連勝”といことはありません。 革命戦争初期だけを見ても、勝ったり負けたりです。 詳しく語るのは面倒なので、非常に大雑把(それでも長いが)にいうと、 革命戦争は1792年の最初の二週間はフランス軍の大混乱で負け続け、 ラファイエットは対外戦争よりも革命鎮圧のために軍を使おうとして失脚します。 ちなみにルイ16世ら王党派と立憲派の一部は戦争にわざと負けて 外国軍を呼び寄せようと画策もしてました。 ブランシュバイク公のプロシア軍を主体とする干渉軍がパリへ進撃を始めて、 ヴェルダン要塞を攻略したのでパリ市民はパニックに陥って 監獄に収監されていた不幸な人々を、王党派だと誤解して大虐殺をするという九月の虐殺事件が起きます。 それから外相のデュムーリエが将軍として戦場の建て直しを始めて ヴァルミー会戦で一応、プロシア軍の前進を阻止します。 ちなみになんでプロシア軍が干渉軍の主体になったかというと、 オーストリアはトルコとの戦争にも晒されていて、 フランスに介入したくなかったので、少し進んだ後はとまって プロシア軍と亡命貴族軍だけをすすませたという外交的策略をつかいました。 そしてプロシア王は、何の利益にもならないこの干渉戦争で 自分の武名を高めようと考えていて、老臣たちの反対を押し切って 介入していたわけで、ヴァルミーで前進をやめたのはまさに 国王を説得できるだけの努力はしたので、もう帰ろうということだったのです。 ヴァルミーの後、デュムーリエはプロシア軍と交渉し後に講和します。 デュムーリエ将軍は(帝国領)ラインラントと、オーストリア領ネーデルランドに照準を定めます。 これは自然国境というフランスの古くからの戦略に沿ったもので、 ラインの西側を占領してフランスの安定的国境をライン川に定めるというものです。 そしてこれによって戦争を勝利しようというのが彼の計画でした。 プロシア軍が勝手に帰ったので兵力が少なくなった連合軍に対して、 ジェマップ会戦で勝利しますが、この年の冬から1793年の春にかけて補給物資が欠乏し、 フランス軍では契約を終えた兵士が大量に帰郷したこともあわせて 兵員の数が激減します。またルイ16世の処刑が1月に行われたこともあって、 ヨーロッパの君主国家は危機感を強めます。 フランスが(当初は革命を支持していた)イギリスに宣戦布告したので、 イギリスの資金援助を得たオーストリア・神聖ローマ帝国加盟国が本格的な干渉を始めます。 それでフランス軍は占領した地域を次々に失い、後退を強いられます。 デュムーリエはベルギーから軍を引き返してきますが、ネールウィンデンで敗北します。 この後、デュムーリエは裏切ってしまうので、 この混乱の後でフランス軍は何度も敗北してダンピエール将軍などは戦死してしまうほど。 この危機に国民公会は、カルノーを公安委員に迎えて軍の再建を任せます。 この人物がフランス軍に徴兵制度などをもたらし、軍事戦略を一本化するなど 数々の改革を行ったリフォーマーです。 しかし徴兵制は、各地での反乱を引き起こしたので、 ヴァンデと南フランスで王党派の蜂起があり、内戦となってフランスが最も苦しんだ時期に来ます。 しかし主戦場ではカルノーの主導でオンドショットで勝利して、ワッチニー会戦で辛くも勝利して オーストリア軍のパリへの進撃の希望を打ち砕き、ヴァンデもナント市を防衛し、 この年の終わりにはツーロンを奪回するなど一定のめどをたてます。 これを期に、戦争は防衛的性格から、侵略的性格に変わっていきます。 さて、ここからさきも一進一退あるのですが、これ以上語ってられないので ここまでにしますが、もう一点、いっておくと、 もともとフランスという国は、当時の最大最強の陸軍国家であって、 強い軍隊の下地があったということは忘れてはなりません。 特に7年戦争後の軍事理論の革新(ブールセ、ギベール、マーユボワら)が フランス(ロシアでも同様の進展があった)では広く採用され、理解されていたことで、 オーストリアやプロシアといった旧態依然とした軍隊との差を生みました。 ナポレオンも彼らの学説を学生時代から学んで、それを活かしいったわけで 軍制というのは、一夜にしてかわるものではないのです。 しかも実験と実例が必要とされるというのも、詳しくは説明しませんが、付け加えておきましょう。 だからすでに革命前にフランス軍を強くする理論は確立されていたというのが回答です。 カルノーやナポレオンなど、これらに精通する人々が、実務家になったことで それが理論が実現段階にいたったというだけの話なんです。
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- tanuki4u
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フランスの連戦連勝が始まるのは、徴兵制の実施以降です。 それまでの戦闘が 数万 × 数万 の戦いだったのに対して、フランスは徴兵制によって 120万の軍隊を整えました。 桁違いです。 しかも、他国が傭兵で、コストのかかる兵隊だったのに対して、徴兵で安いコストでした。 対戦国が 10万のところに、50万のフランス軍が攻め込めば 1対5です。負けません。 しかも、フランス軍は自軍を殺し放題。10万人のフランス軍が、極端な話、相手と一対一で殺し合えば、戦場には、40万のフランス軍だけが残ります。 ※ 傭兵が主力だった時代には、何日間も戦っても一人も戦死者がいなかったということもありました。
お礼
お礼が遅くなったことをますお詫びいたします。 徴兵制がフランスの強さの源、大変よくわかりました。
- komes
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基本的にはフランス革命で手に入れた自由民主開明を守る意識が行き渡っていました。 そのため純粋なフランス軍は戦意も高く苦労にも耐える事が出来、彼らの行軍速度は他国軍より優れていましたから戦場に早く着き陣形変更もすばやかったのです。 戦場への兵力集中にも役立ちまちた。 純粋なフランス軍といったのは勝利が続き征服地や同盟国がふえるとこれらの土地の兵士が参加して、例えばロシア遠征軍は多くの地方の連合軍で訓練装備もまちまちでした。 フランス軍と同様程度の戦意があったのはポーランド軍くらいだったといいます。 そのフランス軍もナポレオンが直接指揮していない場合は常勝ではなく、各地で敗北を喫しています。 それでもナポレオンが指揮すると持ち直して勝利する程かれの能力は並はずれていました。 彼は砲兵の集中射撃使用と騎兵の活用に優れていました。 この当時の騎兵の突撃に対抗するには歩兵は密集方陣を組むしかなく、この方陣を砲兵の集中砲撃で崩壊させその後に騎兵の突撃をおこなう戦法でした。 当時の野砲は射程も短いので砲兵の迅速な移動は困難でしたがフランス軍は訓練で克服していました。 また軍制上ナポレオンは有能な軍人を良く抜擢しましたから伍長から士官、連隊長という例も珍しくありませんでした。 これが兵士の高い戦意をささえました。
お礼
まずはお礼が遅くなったことをお詫び申し上げます。 フランスの快進撃は、ナポレンなしでは語ることはできません。ただ、ロシアでの敗北以後、ナポレンオンも連戦連敗になってしまったのは、どうしてなんでしょうか。
- nacam
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ナポレオンの戦術以外では、フランス軍が強くなったのは、徴兵制の採用によるところが大きいと思います。 従来の軍は、国王による常備軍制度で、少数の精鋭に軍事教練をほどこして、戦争を行うスタイルで、少しでも戦いが不利になると、すぐに脱走や撤退し、軍を維持できなくなりました。 しかし徴兵された兵は、軍を脱走した場合、故郷に帰る事ができないばかりか、家族や親族が非難される事になりますから、簡単に脱走したり逃げる事ができず、不利な状況でも戦いつづける事になります。 当初は、徴兵した兵の訓練ができなかったため、負けがこみましたが、一定の訓練ができるようになると、その強さが発揮できるようになります。 それに、天才的なナポレオンの戦術が組み合わさり、連戦連勝となります。 ただし、ナポレオンのその天才的な戦術は、ヨーロッパのほとんどの国にフランス(ナポレオン)への反感を募らせ、ナポレオンを没落させる事になりますが。
お礼
お礼が遅くなって申し訳ありませんでした。 徴兵制が強さの源なんですね、よくわかりました。ありがとうございました。
- popesyu
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「何がフランス軍をかえたのか」と問われればそりゃ革命がとなりますが。 革命前後はまだ軍制も整っていませんし、仕官は貴族階級ですから、革命政府に非協力的で当然。そんな中で1792年にオーストリアに宣戦布告をした革命政府の頭の方がおかしい。一般兵士が仕官を戦闘中に殺害していたとか、マリーアントワネットが敵側に情報を流していたとか、こんな状態は戦争以前の話です。 でこのままじゃやばいと「祖国は危機にあり!」の宣言により、集った義勇兵の奮戦によりヴァミールの戦いでようやく勝ったというか、何とか追い払い、その勢いでもって攻勢に出たというのが前段階。 でその次の段階は、ルイ16世の処刑から第一次対仏大同盟頃の話で、革命政府内も強権派や穏健派が入り乱れ混乱状態で、反乱も勃発しており、イギリス、スペイン、オーストリアに追い詰められ再度危機に陥ります(つまりヴァミールの戦い以降は連戦連勝というわけではありません)。 ここで今度は、革命政権ならではの最終手段「国家総動員」令により兵士をかき集めることができたため、一大軍事国家に生まれ変わります(当時の軍隊は傭兵が主流)。攻め込んできた諸国を追い払い、国内の反乱を力ずくで押さえ込んで(この時にナポレオンが1仕官として登場)、ここからが連戦連勝となっていくわけです。 その後のフランス軍の強さの秘密というか特徴としては ・ナポレオンの軍事的才能 火砲と騎兵をミックスした柔軟な戦術思想 ・民主制ならではの封建体制では有り得なかったシステム 軍団制、縦列・散開戦術、徴兵制などなど ・兵士の士気が非常に高い http://www.f5.dion.ne.jp/~mirage/hypams00/napoleon1.html ナポレオンの才能以外はフランス革命のなせる技ですが、ナポレオンの抜擢も革命のなせる技だったとも言えます。
お礼
お礼が遅くなって申し訳ありませんでした。 詳しい説明をいただき、よくわかりました。ありがとうございました。
お礼
お礼が遅くなって申し訳ありませんでした。 ヴァミールではなくヴァルミー。大変失礼いたしました。 私は、この戦い以後、フランス軍の連戦連勝だと思い込んでいましたが、詳しい説明により、そうではないことがよくわかりました。 大変ありがとうございました。