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東周の滅亡時の詳細を知りたい
東周は前256頃に秦によって滅ぼされましたが、年表によるとこの前後には ・西周君、東周君がそれぞれ滅ぼされていたり、 ・周の国は存続したが天子は不在になったり していたようです。 このあたりの事情を詳しく知るための、日本語の書物/論文/サイトを教えてください。 (併せて、西周君、東周君に分裂した事情やその後の推移も) 多少専門的な書籍でも結構ですが、「史記を読めば分かる」と言われても手に負えませんので...
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- PENPENMAKKY
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周の研究は中国ですら進んでおりません。 周王朝の墓はたしか昨年だったと思いますが発見されたばかりで 発掘はしていないと思います。
- straker505
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『衰退 その後は徐々に衰退する。 10代厲王は、周りに分け与えられるべき財を全て独占したために諸侯の間で不満が高まり、最終的には大反乱が起き、厲王は辺境に逃げ出した。王が不在となった後、宰相の共伯和が太子静を擁して政治を行った。後にこの時代のことを共和と呼ぶようになった。現代で共和制というのはこれが由来である。(これには別説があり、大臣が合議制で「共に和して」政治を行ったので共和と言うという説もある。) 宣王の治世でわずかに周の国勢は回復したが、宣王も後半期には政治に倦むようになったために再び衰退する。 12代幽王の時代、申から迎えていた皇后を廃し褒姒を皇后としたため、申の怒りを買い、申は犬戎を伴い王都へと攻め込んだ。幽王は殺され、太子は東の成周(現在の河南省洛陽市付近)へ移った。ここからは東周と呼ばれ、時代区分では春秋時代に移行した。 [編集] 春秋戦国時代 春秋時代の周は成周周辺を支配する小国となり、往時とは比べるまでも無い程没落した。それでも権威だけは保持しており、諸侯たちはその権威を利用して諸侯の間の主導権を握ろうとした(春秋五覇)。その僅かな権威も戦国時代に入ると完全に無くなり、各諸侯がそれぞれ「王」を称するようになった。 その小さな王朝の中でも権力争いは続いており、東西に分裂したり、何度と無く王が殺される事が起きた。最終的には紀元前256年に赧王(延)の時、秦に滅ぼされる。』 以上ウィキペディアでした・・・ 参考文献リンクも出ているかも 知れません
補足
ありがとうございます。 お示しいただいたのは西周期と、周の東遷(前770)、それに春秋戦国期の概観かと思います。 小生が関心を持っているのは、東周の最末期、前265~前249頃の十数年間のことで、東周が秦に滅ぼされる前後の事情です。 引用いただいた、 >その小さな王朝の中でも権力争いは続いており、東西に分裂したり、 は正に小生の知りたい部分かと思います。 詳しい資料等をご教示いただければ幸いです。
お礼
>周王朝の墓はたしか昨年だったと思いますが発見されたばかりで 周公墓の発掘のことでしょうか? 先年発掘されたのは、周が中原を押さえる前の、殷代の周の遺跡 だったと記憶しています。ならば、前1000年よりも前のことです。 小生が知りたいのは、それから800年ほど後の時代の周です。 もしご存じでしたらよろしくお願いします。