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カントとフィヒテ、ラカンについての知識
- カントは'posteriori knowledge'という概念について語っています。これは経験に基づく知識を指し、フィヒテの考え方と関連していると言えます。
- フィヒテは哲学の最初の新たな基準として、自己やエゴを重要視しています。これは経験の根源であり、カントの'posteriori knowledge'とも関連しています。
- カントやフィヒテの考え方は、ラカンの『イマジナリー』とも関連しています。経験から主体が形成されるという観点から、ラカンの考え方とのつながりが考えられます。
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話を変なところで切ってたから、つながりがわかりませんでしたね。 ごめんなさい。 一応流れというのは、カントの自我→それを踏まえてフィヒテがどう発展させていったか、ということになっているんですが、ほんと、統覚のところはどれだけ書いてもきりがないので、もうここらで切り上げます。 > transcendental apperceptionがsensation とunderstanding を統一をしているってことでしょうか。私はreasoningがこの二つを統制しているものかと考えておりました。 超越論的統覚は、悟性(understanding)を統合させる働きです。 感性は受動的な働き、悟性は能動的な働きです。能動的に働く、としたら、それを働かせる何ものかが必要です。 直観は「多様」な情報を受けとります。その多様に総合的統一を与えるのが、カテゴリーに従った悟性の働きです。 カントは悟性のカテゴリーを4×3に分けるのですが(分量、性質、関係、様相×それぞれの三つの性質)、こういう作業を行っているそのすべての根底に「Cogito」がある、としたわけです。 そうして、この悟性の根底にある「Cogito」=transcendental apperception が、カントにとっての「自我」にあたるものです。 ここでのポイントはふたつ、 ・統覚は単独ではあることができない。かならず知覚に伴って働く。 ・個人的なものではなく、普遍的なものである。 いまのわたしたちから見ると、個別性を欠いた自我というものは、なんとなくピンとこない。自我=アイデンティティ、みたいな見方をしてしまいます。ただ、カントが言っているのも、フィヒテが言っているのも(多少ちがうんですが)、根底にある「自我」は、わたしたちがこの言葉から受ける“「わたし」を「わたし」としている意識”みたいなイメージとはちがうものであることを踏まえておいてください。 話は多少前後しますが、感性と悟性を媒介する働きは「統覚」だけではありません。統覚が、直観の多様を統一する働きであるのに対し > the productive power of imagination これはふつう「構想力」と訳されるこの能力は、直感力が得た情報を、カテゴリーに当てはめるための図式を発動させる能力のことです。 この構想力と図式については、昔回答したと思って検索してみました。 ありました。えーと、これも相当危なっかしいんですが、こんなもの、という参考になるんじゃないかと思います。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa880572.html ともかくこの「構想力」と「統覚」のふたつが、直観と悟性を媒介する能力、わたしたちの認識の根底にある能力である、というふうに理解しておいてください。 > reasoning ここらへんはほんとうにややこしいんですが、理性は感性と悟性を統合させているものではありません。 理性というのは、悟性が得た認識から、さらに法則や原理を見出すような働きです。 推理・推論の能力、と考えてください。 理性は感性とは関係を持っていない。 だからどこまでも推論を進めてしまう。そこで、本来なら人間には感知し得ない「物自体」の世界についても考察を進めてしまう。 こういう理性の働きの限界をあきらかにしよう、というのが、『純粋理性批判』の趣旨なんです。 けれども、その現象の考察においてはきわめて大きな働きをするけれども、一方で限界をも併せ持つ「理性」の働きが必要となってくる場面がある。それは道徳の場面である、というのが、『実践理性批判』の趣旨です。 そこから、この理論理性と実践理性、二種類の理性がでてきてしまった。 フィヒテはこれを関連づけ、実践理性のもとに理論理性を従属させようとした。 こういう脈絡があります。 > reason (or the Ego) is by no means passive ここで言っている reason は、実践的自我(カントの実践理性を、あらゆる哲学の根底に「自我」を置こうとしたフィヒテはこう言い換えます)のことです。 理論理性(理論的自我)が対象に対して受動的な態度をとるのに対し、実践的自我(実践理性)は能動的な態度を取るものである。 その働きかけのやりかたを説明しているわけですね(いまいちこれだけだとよくわかんないんですが)。 ここから理論的自我は実践的自我なくしては可能ではない、ということを言おうとしているのだと思います。 このあとフィヒテは「対象」の考察に移っていきます(参考文献:岩崎武雄『西洋哲学史』)。 フィヒテによると、対象とは「逆らい、またはそれに対して立っているもの」。 つまり対象がそこにある、ということから、対象に逆らってある働きがある、と見なすことができる。 理論的自我に対して対象がある、ということは、まず自我そのものの働きがあり、しかも自我はそれを乗り越えていこうとする指向性を持つものである。 なぜ、自我はそうした指向性を持つのであろうか、それは、自我の根底において、ただ、絶対的に自己自身を定立しようとする自我の働きがあるからである。 フィヒテは「我思惟す」を「我行為す」と読み換え、この自我の働きを事行(Act)と名づけ、その自我を「絶対的自我」(absolute act)と呼ぶわけです。 どうでしょうか。つながってきました? arbitraryの発音、ありがとうございました。 使うチャンスはあんまりなさそうだけど(笑)。 わたしは「r」の発音は、英語を教わった先生に、上唇の口角を緊張させる、と習ったので、わりとうまくいくんです。 ただ、うっかりすると、つい、子音をたてずにしゃべっちゃう。そういうときは "Excuse me?" とやられます。 昔、どうやっても "cheese" が通じなくて、泣きそうになったことがあります(笑)。なんで通じなかったんだろう……。
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- ghostbuster
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えーと、これはカントの自我問題ですね。統覚のところだ。 またややこしいところがでてきたな(笑)。 このもんだいはデカルトまでさかのぼります。 デカルトが第二省察のところで「私とは何であるか。それは思惟するものである」と言うとき、ここで問われている「私」というのは、そう問うている「私」、つまりデカルト自身のことではなく、広く普遍的な「私」、いわば「私」の表象です(フーコーが『言葉と物』のなかで、古典主義の幕開けのところで、デカルトとベーコンについてふれていたことを思いだしてください)。 鏡に映った自分の姿を見て「これはわたしである」と認識できるのは、ラカンによるとそれは他者(母親)の言葉だったわけですが(そうやって幼児は象徴界に入っていく)、だれであれ、鏡に映った像が自分の姿であることを判断する人がいなければ、「自分」と「鏡に映った像」が同じものであることはわからないわけです。ミラン・クンデラは『存在の耐えられない軽さ』のなかで、アダムは泉に映った自分の姿を自分とは気がつかないだろう、と書いています。 つまり、表象はつねに何ものかの表象であること。そうして、それを判断する主体が「表象」という言葉の中には前提とされているということです。 デカルトは(もちろん「鏡」というメタファーは使いませんが)「私」という表象を見て、これがほかならぬ「この私」である、と判断する、もうひとりの「私」のことも当然考えます。ただ、「我思惟す(Cogito)」の状態をつねに保っている「私」については推論によって結びつけただけに留まります。それを統合したのがカントです。 ここを説明しようとなると、おっそろしく大変なので、簡単に筋道だけを示していくことにします。 まず、わたしたちは外的なさまざまな刺激を受けて、さまざまに考えます。 外を見る。雨が降っているなあ、と思う。傘をさしていかなきゃいけないから、自転車には乗れない、だからいつもより早く出かけなきゃ、と考える。そうして、その自分をさらにいまそう考えているなあ、と認識する自分もいる。 この経験的な自我意識の背後にあって、意識を意識している〈自我〉というのは、いったいどういったものなんでしょう。何を見ても、何を聞いても、どんなふうに考えたとしても、わたしはそれを考えているのがこの自分である、ということをつねに知っています。 突拍子もない考えが急に頭に浮かんだとしても「あれ、いまこれを考えたのはほんとうにわたし?」と思う自分がいる。 つまり、この何であるとはいえないような、それでもまぎれもなく「このわたし」と思えるような自己意識はつねにある。 それをカントは統覚(apperception)の働きであるとして、根本におきます(ああ、危うい説明だ)。 「統覚」とは ap-perception 、つまり知覚に付け加わる意識作用ということ。 何ものかを知覚しながら、「わたしはいま~いうことを考えているな」と気づくのは、「経験的統覚」(empirical apperception)です。内感(inner sense)にも相当します。 さて、人間の認識というのは、直観によって感性が得た対象の情報を、悟性が論理的に思考し結合することで可能になります。 この結合作用は「統一」という概念を必要とする。 「統一」は「統一する」という主観の働きによって形成されるものであり、これによって悟性の結合作用も可能になる。 この働きは、経験的に与えられたものではなく、アプリオリに与えられたものである。 この統一をもたらす主観の根源的活動が「我思惟す(Cogito)」である。 これは悟性にとっての最高原理であるだけでなく、人間の認識そのものの最高原則なのだ、とするのです。 こういうのをカントは「超越論的統覚」transcendental apperception と呼びます。 わたしたちが自我を認識しようとするとき、やはりまず感性が「自我」についての情報を受けとらなければなりません。 過去にああいうことがあって、自分はこう考えた……、という認識、あるいは身体感覚による認識、これらはすべて経験的意識です。 「私」についてさまざまな判断を行い、自分の自我が同一であることを意識する「超越論的統覚」の統一を遂行する主体としての自我があるはずだ。 けれども、この〈自我〉そのものは、内感に与えられない以上、自己認識の対象とはなりえない(だから「どんなものである」とはいえない)。 さて、カントは自我をこんなふうな統覚作用として位置づけましたから、ここでの自我は超越論的自我、アプリオリに純粋に同一であるわけです。 個別性が生じるとしたら、それは経験的統覚においてである。 カントがこの「意識」に対する表象でしかないとした「経験的側面」に注目したのがフィヒテなわけです。 おっと、もう行かなくちゃなりません。 フィヒテについてはちゃんと読んでないし、何を言ったか忘れちゃってるから、また読み直して明日ぐらいに続きを書きます。急ぐんだったら、旗、立てておいてください(笑)。
お礼
早速の回答ありがとうございました。フィヒテにつてのご教授お願いいたします。transcendental apperceptionがsensation とunderstanding を統一をしているってことでしょうか。私はreasoningがこの二つを統制しているものかと考えておりました。またフィヒテのこの文章が気になっているんです。 reason (or the Ego) is by no means passive, but absolutely active. In contemplation, reason is the productive power of imagination. through the seeing, or contemplating, something is thrown out from the Ego, as it were, somewhat in the manner that the painter throws out from his eye the completed forms upon the canvas (looks them, so to speak, upon the canvas,) before the slower hand can draw their outlines. (Fichte, 1978, p89) 理性(またはエゴ)は受動的ではない、それは絶対の活動をしめすものである。観想の中、理性はthe productive power of imagination(上手く訳す事ができませんでした、このまま残します)である。見るか、または熟孝する事を通し、何かある物がエゴから引き出される、いわば、それはある意味、実際に外形をキャンバスに描くだろう前に... 画家がキャンバスに放つ彼の視点によって創った構図といえるだろう。 私は、posteriori knowledgeとreasonは分けて考えていたんですが、フィヒテの言うproductive power of imagination(これはカントの用語ですか?)この言葉が気になるんです。posteriori knowledgeとreasonは同じ物のような気がしてきました。 それと前に言われていたarbitraryですがar-bi-traryと分けてから発音すると比較的に上手く発音できます。この単語は日本人にとって強敵のRを二つも抱えています。単語の後半部はlibraryのraryと同じ発音です。前半はアービと日本語発音で大丈夫です。だたし発音のストレスは最初のアーの部分です。これはクラスでは必ず使う必須単語なんですが、最初全然通じなかったんですよ(笑)
お礼
回答ありがとうございました。最近、違う論文を書いていましたが、それもようやく終わりそうです。ようやくカントとフィヒテに集中できそうです。質問は近いうちにまたします。その時はご教授のほど、よろしくお願いいたします。 英語の発音って腹が立つ事が多いいですよね。僕がまだL,Rの発音に苦労していた頃、Lollyという単語に出会いました。これがまた通じなくて(笑)。日本語でアメですよ。それでcandyって言えばいいかなぁ、なんて思いまして、キャンディって言ってたら、友達からアメリカ英語を使うなと言われ、lollyは通じず、俺にどうしてほしいねん!と思いました。 しかしcheeseにしてもlollyにしても日常的な簡単な単語ですよね、それで"sorry"なんて言われると、すごい劣等感に苛まれます(笑)最近の強敵はfoucaultの発音ですね。この間のプレゼンで'sorry'言われました。俺のプレゼン終わるまで頼むから黙って聞きてくれ、思いましたよ(笑) 質問は上記します。ありがとうございました
補足
返答だいぶ遅れましたが、ありがとうございました。