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肉体的痛み・精神的な痛み

今日の世界にはさまざまな「痛み」があります。肉体的な痛みである上や渇きをはじめとして、孤独・不安・愛の欠如(誰にも愛されないというニヒリズム)・絶望・後悔・恐れ・悲しみ嫉妬など心的情緒的苦痛を意味する痛み。それらの痛み、苦痛を和らげる術、また解決方法があれば定時してください。お願いします。

みんなの回答

noname#142902
noname#142902
回答No.5

 仏陀(だったはずです)の教えで『苦諦』というのがあります。このあたりもうやむやですが持論を書かせてください。  苦諦はこの世自体が苦しみに溢れている、という教えです。一切皆苦という言葉があるように、この世には苦しみが溢れています。  あなたの痛みですが、痛みが解消しても痛みになりませんか? 人間関係が多いとわずらわしくなります。不安が無いと大きな失敗をします。多くの人に愛されると自分の没落が怖くなります。絶望しないと物事に対して諦めなくなって執着が起こります。後悔しないと自分を振り返りません。恐れが無いと危険な事柄をしでかします。悲しみが起こらないと人の悲しみが分かりません。嫉妬が無いと他人に陥れられます。  仏陀の教えの真髄は一言で言うならば『執着を断て』です。それはこの世は苦しい場所であると諦めることです。この世は苦しいと諦めるから苦諦と言います。  上に挙げたようにどんなプラスに思える事柄でも裏を返せば苦しみになります。この世は厳密に言えば全てが苦しみです。だから一切皆苦といいます。一切(全て)が皆(全て)、苦しみに溢れているので一切皆苦です。  お金持ちになればお金を失うことを恐れるようになります。彼女や彼氏が出来れば同性に嫉妬されます。出世すれば足を引っ張られます。美食をすれば健康に悪いです。結婚すれば浮気が出来ません。長生きすれば病気をします。子供が出来れば彼らの責任を取らねばなりません。この世はそういう場所です。  だからこの世に幸せを求めない、というのが1つの解決法ではあります。求めるから得られないと苦しくなるのです。  よって、諦めれば楽にはなります。ではどこに幸せを求めるか。私はそれは『死後』と考えます。鎌倉仏教でも死後の幸せを民衆は信じて辛いながらも生きていました。今の私も彼らと同じです。この世は苦しい場所であるから幸せは望みません。代わりに真面目に生きて自分の能力を上げて死後に楽をしようと考えています。ちなみにカプラン臨床精神医学によると臨死体験は本当にあるようです。大体Wikipediaの臨死体験の項と同じ内容です。臨死体験があるのですから死後の世界があると信じて生きていくのも完全には間違っていないと思います。  偉そうにしてすみませんでした。私はこの思想に入ってから楽になりました。本多信一さんの教えもお勧めです。読んでくださってありがとうございました。

  • ruehas
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回答No.4

こんにちは。 お釈迦様といいますのは「苦痛」というものを研究した哲学者であります。 肉体的な痛みや苦痛、それから精神的な恐怖や悲しみ、そして苦悩、このようなものは全てが生物としての「生への執着」、即ち「現世に抱く煩悩」によって発生するものです。従いまして、この「煩悩」を断ち切ることができますならば、我々はこの世の全ての苦しみから開放され、永遠の幸福が得られることになります。これは「苦痛の第一人者」でありますお釈迦様の結論ですから、哲学的にはこれ以上の解釈はないのではないかと思います。 少なくとも、精神的な苦痛といいますのは自分の恣意的な欲求から生まれるものでありますから、これに対処できなければ解決することはできませんよね。更に、恋人との決別や肉親との死別といった、仮にそれが完全に他律的な要因であったとしましても、確かお釈迦様は全てを受け入れなさいと仰っていたと記憶しています。中々厳しい教えですよね。 では、「食欲」や「性欲」といった生物学的な欲求はどうしたら良いのでしょうか。以前、チベット仏教の最高指導者でありますダライ・ラマ14世の手記を読みましたら、このようなものは実際には断ち切ることができないのだから対峙することに意義があると書いてありました。この辺りは宗教的な解釈を用いなければちょっとクリアできないかも知れませんが、肉体的な苦痛といいますのは神経系の生得的な「無条件反射」でありますから、ひとたび発生したならば、これは受け入れる以外に手段はありませんよね。 我々凡人とは掛け離れた話のように思われますが、お釈迦様が仰ったことは真実であり、それは至って単純なことであります。ですから、このような観点から苦痛というものを見詰め直してみますと、また結構、話がすっきりするのではないかと思います。 お釈迦様が仰ったのは、苦痛というのは己が生み出すものであり、それは決して世間のせいではない、ということです。このために、他人を批判するのではなく、自分自身の行動を改めることを「慈悲」といいます。従いまして、この「慈悲の動機」に基づいて行動をするならば、この世のあらゆる問題が解決されるということになります。実際にはそう簡単にはゆきませんけどね、何と捉えようとも、これは哲学的な真理であります。

  • baihu
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回答No.3

痛みは外部にはなく、脳が感じているものです。一見不思議に思うのですが、肉体の痛みと精神の痛みとは、脳の反応としては同質のものらしいのです。その証拠に、心の痛みに対してアスピリンなどの鎮痛剤が、抗鬱剤と同じように効きます。 飢えや渇き、外傷などの肉体的苦痛は、生命の危機に対して脳が発するアラームで、「大丈夫!?大変だよ!対応して!!」と叫んでいるのです。優れた防御機能ですね。不安や悲哀の精神的苦痛も同じです。「大丈夫!?大変なことにならない!?何とかして!!」という警報です。 ひとつは先に書いたような生化学的手法(投薬)が有効です。どうにも耐えられない痛みで、にっちもさっちもいかない場合、当座をしのげます。 もうひとつは感受性の修正、すなわち慣れです。実際には生命の危機などなくても、脳がそう感じている場合には、火災警報のように苦痛アラームが鳴ります。小さな子が転んですりむいた怪我でわんわん泣くのをなだめるのと同じように、慌てている脳に言い聞かせるのです。「大丈夫。落ち着いて。このくらいの火だったら自分でなんとかできるよ。焼け死んだりすることないから」と。 大切なのは、実際に痛みに原因があるならば“火を消してしまう”ことです。あるいは“燃え広がらないようにする”だけで済むかもしれません。そんな対応ができれば、次に同じことがあったとしても、もう脳は警報を発しません。発したとしてもすぐに鳴り止むか、小さな音になります。ただ、多くの場合は“火”そのものがない(誤報)と判明することで落ち着くのですが。 どんな場合にどんなレベルで脳に「痛み」という警報を鳴らさせるのか、その度に音量調整してやるのが重要なメンテナンスです。鳴るべきときに鳴らなくしてしまうと、それは逆に危険で厄介ですから気を付けましょう。 #短いご質問文に誤変換がいくつか。お悩み事の最中ですか?

noname#38692
noname#38692
回答No.2

第一に物理的解消法。少しお酒飲んで寝る。音楽の力を借りる。人と騒ぐ。苦痛が溜まる体にならないように、精神がなるべく通気性のよい白い状態であるように、日常の中で日々予防する。 どうしても苦しい時は、自分の不幸以外の場所はないように感じられてくるので、世界にはほかの場所や他人がいることを思い出す。 負の感情を上回る喜びの感情を見つけることを自分に課す。

  • yow
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回答No.1

哲学のカテゴリーにふさわしい質問ですね。 一つの痛みを和らげる方法として、ちがう痛みを与えるということがあります。たとえば足に擦り傷ができたとします。そこで、腕の骨を折ってみれば、足の擦り傷の痛みは忘れられます。 実際例でいえば、人間関係などでストレスを感じていると、胃が痛むことってありますね。これは、胃の痛みによって、とりあえずの実際問題の心の痛みを忘れることができるでしょう。 大失恋のあとに、不倫をくりかえして傷つきつづけるというのも似たようなものがあるとおもいます。最初の失恋の痛みを忘れるために、さらにつらい失恋をする。たしかに最初の痛みはやわらぐのですけどね。 また、自傷というのもおなじことだと思います。心の痛みを忘れるために、体に痛みを与える。 でも、これは自分が抱えている痛みの形はかわっても、痛いおもいをしているのはかわらない、という欠点があります。 では、どうするか。発想の転換です。 痛みというのは、幸福感をあじわうための前提と考えるのです。飢えや渇きの例が簡単です。飢えを知らない人は、満腹の幸せをあじわったことのない人です。空腹になるからごはんがおいしい。のどがからからに乾くから、冷たい水に感謝できるのです。 私は五体満足です。でも、それにはじめて感謝できたのは怪我をして松葉杖生活を強いられたときです。 大事な人を亡くしたときの悲しみを通じて、その人がいかに大事だったかを気づけて感謝でき、今まわりにいる人とすごす時間がいかに重要か気づけました。 今、どん底の痛みの中にいるとしたら、それはラッキーですよ。今からはあがるしかないんですから。