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社会はうらみに満ちているのだろうか?
個別的体験から一般則を帰納しようとするのはやや乱暴だと思います。しかし、前々から感じていることが折に触れて沸き起こります。今日の体験からなのですが、ある音楽教室に講座を探しに行ったのですが、そのトイレで、楽器を習っている、年のころ定年後の老後趣味といった風の男が入ってきまして、並んで小用を足していたのです。で、私が先にすんで、ひとつしか洗面台がなかったのですが、ちょっと手を洗うついでにのどがおかしかったのでうがいをした。で、とくに汚したわけでもないので、別に洗い清めもせずに男に譲ったのですが、その男が私が手や顔を拭いている間、じっと恨みを含んだような視線をこちらに投げている(と感じた)それが真実とすれば、この趣味を愉しむための場所で、この男、ちっとも幸せじゃないんだなと思いました。人生先が知れていてもう大して楽器も永久にうまくなれずに終わる。おれの人生なんだったんだという恨みとも悔恨とも付かない気持ちが、一種凶暴な怨嗟となって吹き上がるときがあるのではないか。その音楽教室のパンフレットなどには、初老やら若者やら子供やらが、さもうれしそうに「笑顔」で「趣味は楽しい!」なんていう風で写っているので、その現実との落差に改めて、「すさまじい」という感覚を抱きました。「笑顔」の商業ポーズっておそろしいですよね。他にも笑顔のポスターと実像があまりにも落差があって、空恐ろしくなった体験がありました(ある趣味サークル的宣伝なのが宗教的活動だったとか)帰りの人々の中で、「ああ世の中ってのは、結局どうでもいい他人がいて、仕方なくてマナーもどきがあって、でも実際は殺してもたいしたことないって思っているのが普通なのかもナ」なんていうすさまじい気持ちになりました。 そんな感覚って正しいんでしょうか。
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こんにちは。 若輩の意見です、どうかお許しください。 >社会はうらみに満ちているのだろうか? 自分はそうは思いません。 世の中色んな人間がいる、同じ人間でも色んな面がある、と思います。 >その男が私が手や顔を拭いている間、じっと恨みを含んだような視線をこちらに投げている(と感じた) もし、自分がそこにいたとしたら、「このじいさんいい年してホント未熟な人間だなぁ」とだけ思い、後は忘れると思います。 もしも、もっとひどい事をされた(又は言われた)上に今後も教室でずっと付き合っていかなければならないのなら、「どうやって仕返しをしてやろうか」と密かな楽しみにするかもしれません。(←ちょっと悪魔的な発想ですね) でも、自分はどんな人間でも完全な「悪人」というのはいないと本気で思っています。 (逆に完全な「善人」も絶対にいないと思います) トイレで一緒になったじいさんも、家には小さな孫がいて孫に対しては優しいおじいちゃんかもしれない、なかなか嫁の来なかった息子にやっと嫁が来てくれて自分の事のように喜んでいるかもしれない、経済面も含め老後は子供を頼らずに自立しようとしているのかもしれない。 全部「かもしれない」ですが。 そのじいさんには別の場所では良い面もあるの「かもしれない」事を思えば、気持ちも楽になると思います。 「社会はうらみに満ちている」と思うよりも、「人間には意地悪な面もあるが親切な面もある」と思った方が幸せに生きれると思います。
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- agrippa
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内面の狂気 誰の.
ご指摘の通りの状況ならば、その人がかなりそういう状況において「とんでもない人」だったということでしょう。世の中とんでもない人が結構いますよ。そういう人はどうしても標準から外れているということを自覚してもいないかろくでもない感覚で生きています。 私もこのサイトでは一部でとんでもない人間との評価を受けております。
お礼
たびたびお世話になっています。 やはりよくいる「とんでもない」ににあったったのでしょうかね。やはり、世の中自衛武装して生きるという感覚でないと駄目かもしれませんね。
- nabayosh
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笑顔にもいろいろあると思いますが、商業的戦略として好印象をもたらしたいがために利用される笑顔というのは多分に偽善的な側面を持つと言えると思います。広告における笑顔は奇妙なもので、同じ人の笑顔を別の広告に転用しても構わないし、またある広告が他の人の笑顔に置き換えられても構わないという基本的性質を持つものです。もちろん、応用的性質として、その人物がタレントなどであった場合、人気や評判などが適役かどうかを定める要因になったりもしますが。しかしこの基本的性質からすれば、どんな広告においても、笑顔というのは宣伝したいものと本来無縁のものであるにも関わらずそれを結びつけて好印象をもたらすための手段ですから、広告の笑顔というのは、どこかから盗まれてきた盗品であるかのような印象を受けます。もちろん笑顔はその広告のためにギャラか何か払っているのでしょうから、厳密に言えば盗品ではなく売買されたものになるでしょうが、笑顔は本来値段をつけられないもの(プライスレス)であると考えられます。100万ドルの微笑みなどというのも値づけできないという比喩ですし、スマイル0円というのもまた同様の比喩です。100円分の笑顔と1000円分の笑顔を使い分けられるわけでもありません。それゆえお金で買えないものをお金で買っている広告には欺瞞がつきまとうものです。 そんな欺瞞的な広告と、現実に齟齬があるのは当然のことです。しかしながら、今回の出来事の「それが真実とすれば」以降は憶測にすぎないばかりか、恨まれていることに対して恨みをはじき出していることに無自覚であるbossambaさんにも問題があるのではないかと思います。いやその前に、恨まれる自分にもどこか問題がないのか、考える必要があると思います。「とくに汚したわけでもない」とは言うものの、口腔内部には無数の雑菌がいるのですから、それを不潔だと考える人がいてもおかしくはないのです。bossambaさんは自分の口で共生しているものなのでそれが汚いという意識はあまりないからこそ「とくに汚したわけでもない」というのでしょう。それならばそれと同様に男性の視線も「とくに恨んでいるつもりなどない」というものであったのを、bossambaさんが恨み(汚れたもの)と解釈しているというだけだと言えそうです。 今回の体験の解釈の背景には、自己を「汚れのない主体」と見なして他者の汚れを裁くという、自己正当化のための他者の糾弾があるのではないかと思います。実際のところ、今回の質問文や補足も私の目には随分とルサンチマンに満ちている内容だと感じました。
お礼
「笑顔」に関してのご考察非常に納得しました。まさに私が頭でぼんやりと理屈をつけたいと思ってたその通りを、言葉にしていただいた感じです。「笑顔」の印象っていうのは、それが「しかめっ面」「無表情」「憤怒」「悲しみ」などの表情に比べて、抜群に商業的価値が高いものです。つまりは、人間楽しいことが好きなのでしょうね。それを逆手にとって(作り手はまったくしかめっ面しているかも)笑顔笑顔の宣伝広告というおぞましさを感じますね。特にその裏、表面処理と内実が違うという体験をしてしまうと、これはもう世の中に嘘笑顔の宣伝なんてしべ的得てしまえという気さえします。そういうわけで、商売商売は託宣です。 というような、私には社会全般に対するルサンチマン、懐疑などがあるわけです(ご指摘いただいたのと、書いていて分かりました)それが、正当な理屈に思えるしまた確信しているのですが、それはまた自分基準でもあるわけです。私なら別にタンや何かが残っていない洗面台を使うのになんらやぶさかでないわけですが、そうでない人もいる。なので、一応のマナーはできる限りしましょうという理屈はわかります。 人によって寛容性がずれているということがまた問題なのですね。
補足
すみません。また補足です。 いま当時の情景を再現してみたのですが、やはり私のマナー違反というほどのものはなかったといっていいのではと思いました。 その洗面台というのが、蛇口(というか水出しレバー)を上方に持ち上げて水を出すタイプで、手で水をすくってうがいしますから、水が流れ続けている状態でうがいして吐き出して、それから水を止める。私が吐き出した水は、何百ccか流れている水によってほぼ洗面台から消失しているはずなんです。だから、私は無意識的にも、自分が吐き出した口腔細菌は処理していたんです。それなのに何を恨みがましい顔してんだという感覚だったのですよ。 あと、誤変換が多くてすみません。 しべ的得てしまえ→すべて消えてしまえ 託宣です→たくさんです。 だからその爺さんにとっては、純粋にぷらいどの問題だったわけでうす。これは社会的一般常識から言って、そんなに個人のプライドは保持されないというのが通常感覚ですからね。なにか不当なルサンチマンを抱くやつだなと感じたわけです。
社会というのは実は個人の頭の中にあるものではないでしょうか。個人の頭の中に恨みというものが存在していても普通言う社会という空間に満ち満ちているものではないと思います。
お礼
そうですね。ただ、どうも私は、「頭」にあるものが社会を形作るもとになっているような気がしています。それが集合的に体現されているような。
人のせいにしたり、恨める余裕があるだけ日本は贅沢が許されてい て平和とも言えますよ。 途上国でのことですが、家も食べるものもない、それでも輝く笑 顔で幼い兄弟の面倒を見ている子供や、地雷を踏んで片足のない 人の屋台で食事を作ってもらい美味しかったこと。 と何と健気な人が何億人と今同時に生きている。寂しい、儚い、 辛い、苦しい、苦悩には上には上があり、そんな上を知ってしま った人が知る喜びとは本当に微細なことでも増幅されて感じる 感性があるようです。 そして、「喜びは悲しみより深い」とニーチェの言葉は、不遇であ りながら無邪気さを失わない、その人の存在が示しているようです。
お礼
そうですね。小さいことに関わりあって心を害するほど馬鹿なことはありません。マクロ的にもミクロ的にも、小さな怨嗟とかこだわりで大儀がおろそかになり不健康になり、なにもありません。 大きな心とか大儀志で生きたいものです。
- baihu
- ベストアンサー率31% (114/357)
特定の人物の、しかも特定の瞬間を切り取ったわけですので、その“瞬間風速”をもって、「世界は嵐の中にある」と感じられた感覚は、繊細でこそあれ、合理的なものではないでしょう。 ワイドショーにとって扱いやすいからか、“世間様に汚物を垂れ流すかのように呪詛の言葉を吐き続ける人物”なんてのが頻繁に報道されますが、60億の母数に対してそんな個体も多少混じっているでしょう。80年間の一生の中では、聖人君子だって似たような瞬間があるかもしれません。私のような凡人は%のオーダーで恨み言を吐き出していると思います。 白いシャツに飛んだカレーうどんの汁のしみ一点は、1日を滅入らせるのに十分なパワーを持っています。でも、頭から丼一杯かぶったと思うのは正しくありません。しみが気になるのは、シャツがきれいな証拠ですね。
お礼
いいお答えですね。すごく溜飲が下がりますよ。恨みの「瞬間」がわずかに顔を覗かせることがあるのは、多くの人にあることなのかもしれません。私の場合は、なんか言っちゃいますけどね。人の悪意は罵倒にさらされているわけではないので、時として非常に気になるということはあたっているでしょうね。これが気にならないほどすさんだ状況にいるとしたらそれはまたたいへんです。
「現実の味」ですね(笑) スイマセン、私の個人用語なんですけど、社会の大人のギョっとする真実の一面に出会った時や、現実のリアリティに触れた時、「あ、来た、現実の味。」って私は考えるんですよ。私はいくら生きてもそれに慣れることがないもので、自分をギョっとさせるために現実が仕組んでるのかと思うくらいです。話ズレてますね、申し訳ない。 あとおせっかいですけど質問者様は殺伐とした気持ちで生きているのではないですか?自分が順調な時は他人の悪も気にならないものじゃないですか。
お礼
「現実の味」いい表現ですね!これから使わせていただきます。確かに私は殺伐としたというか、悲観的になってしまっています。慢性うつかも知れません。だから感じるんですねこういう同調波長のやつって。
補足
すみません。書き損ねたので、この欄で補足させていただきます。そもそもなぜ「現実の味」なんて体験が起こるかと言うと、社会が虚飾を多分に含んでいるからなんです。それがなければ、こういうギャップにギョッとするということもないわけです。そういう虚飾がなにか耐え難いまでに(慣れているから気付かない)なっているのが現代なのではないでしょうか?またそういう虚飾なしに生きられなくなっていると言う実情でもあります。その虚飾がどこから来るかと言うと、結局は「商売」「金」の流れで起きているという面が主体だと思っています。
- myeyesonly
- ベストアンサー率36% (3818/10368)
こんにちは。 表情だけ見てそう思われるのは、ちょっとかわいそうかもしれません。 生まれつき目つきがキツイ人とか、目が悪い人はにらむような視線になる事は珍しい事じゃないです。 ちょっと考えすぎかなって気がします。
お礼
こんにちは。 私の顔を凝視するような必要性は全くない状況だったのですがね。もしかすると、顔に巨大な蜘蛛でも張り付いていて気付かなかったのかもしれません。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
他人や社会を気にしすぎじゃないですかね。 そういう面もあるでしょうがそれがすべてじゃないと思いますよ。 人は二元論で考えがちで、なおかつ裏、影、マイナス面に妙に惹かれる傾向があるんじゃないでしょうか。 天上天下唯我独尊で行きましょうよ。
お礼
やはり、どうもマイナスに惹かれる傾向があります(特に自分には激しいか)10人好意的なのに1人反感をもたれると、そっちのほうに天秤傾くんですよね。なんてナンセンスな感覚なんだと自分でもわかっているのですが。。。なかなか天井天下唯我独尊の境地になれないで迷っております。。
お礼
長文ありがとうございます。 私も人間灰色であると思います。そしておっしゃることももっとも。家庭に行けば愛想よくてやさしくいいおじいちゃんかもしれません。一方では、今まで仕事でこき使われてきた恨みや、人生全般の悔恨のようなものがおそらくある。まぜこぜにすると純色ではないんでしょうね。恨みにみていると思うのは、どうも私の悲観主義がそう思わせるのかもしれません。波長がそういう方面に合ってしまうようです。 しかし、仮に家庭で円満ないいおじいちゃんが、ちょっとトイレでマナー違反(自分の基準で)的な行為に対して(あるいは私の存在そのものが発する何かコンプレックスろ呼び起こすものがあった)恨みがましい「真実の気持ち」が現れたことは、やはり凍りつく瞬間ですね。
補足
補足させていただきます。 結局その爺さんの癇にさわったのは、「この野郎、おれの前にうがいなんてしやがって、その洗面台で(しかも洗い流しもせず)おれに洗わせようというのか」 という殿様根性?というか奢っていたものが噴出したんでしょう。またなんでそんなことがと言えば、楽器のレッスンでうまくできないで、「師の若輩者が調子付きやがって気に食わん、おれは人生苦労したのに(やっとこの年になって楽器ができるヒマも金もできた)こいつはなんだ。親に散々すねかじって音楽やって講師になったのか。教室では穏便に済ませているが、トイレでくらい本音を出させろ」 と言うようなことでしょう。これも人間の灰色なのかそれとも裏表と言うのかよく分からない状況です。