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「生きる」意味
別に、生きる意味を感じられないからとか、死にたいからとかではなく、ただ単に自分の研究なのですが、 「あなたはなぜ、何のためにいきているのですか?」「あなたの考える生きる意味」 ってことについて質問したいです。正解は無いので、気軽にお答えください。
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- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
物質に「目的」はありません。 しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。 「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。 (あなたが死にたいと思っても、死ねばそのような形質は遺伝せず、やはり全体は「生きよう」とする方向性に変わりはありません) 一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。 生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。 「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。 であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。 生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。 しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう? 人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。 原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。 お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。 本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。 要するに今の人は、自ら喜び(自己存在の本質に根ざした生)に目をそむけ、他律的生=「苦痛から逃げる事による生」に堕しているのです。 (「助け合う喜び」から「奪い合って勝つ喜び(幻想)」への変質)
- hidekyi
- ベストアンサー率50% (1/2)
「どうして人は生きるのでしょうか?」 気がつくと、既にあなたは生きている。 既に、始まっている。 もう、あなたの生活はスタートしている。 もう、みんな走っている。 もしも、既に「生きる目的がある」と思うなら、 その目的のために、なすべきことをすればいい。 もしも、「まだ目的がない」と思うなら、 これから、それを探しあてて、 その目的のために、なすべきことをすればいい。 探しても、見つからなければ、探し続けるといい。 (しかし、その時間は無限にあるわけではない。) さあ、どうしましょう? あなたは、自分で選択して、決定できます。 (それとも、他の人に任せますか?) あなたが、「生きていなくなる」時に、 「このために、生きていた」 と考えるものは何でしょう? 「この人のために、生きていた」 と考える人は誰でしょう? その時、「生きることは、○○です」 と考える、あなたなりの○○は、何でしょう? …と、言うことで、あなたに何らかの 影響を与えることはできますか? もしも、それができるのなら、 それだけでも、私の生きる意味があることになります。 「生きるあなたからの言葉」の意味も、また同じです。 こうして、人は影響しあうことができます。 「我思う、ゆえに、我あり」 "Je pense, donc je suis. " "Cogito, ergo sum. " "I think, therefore I am. " と言うデカルトの影響を受けてみましょうか? 「真理を求める勇気 精神の力への信頼が哲学の第一要件。 人間の精神の偉大さと力とは 果てしなく大きいと考えてよい。」 と言うヘーゲルの影響を受けてみましょうか? あなたの考えは、既に哲学の中にいる。
- kisaragi01
- ベストアンサー率53% (14/26)
>「あなたはなぜ、何のためにいきているのですか?」 私は、私のやりたい事ややるべき事があるから生きているのだ と思います。もちろん、やりたい事ややるべき事が無くなったら 死ぬというわけではありません。 やりたい事があったら、無謀でもとにかくやってみる・・・ というのが私の信条なので、きっと死ぬまで目標が無いなんて 事は無いでしょうね。仮に無くなったとしても、探しますしね。 目標が無ければ探せば良いですし、見付かったならひたすら 追い続ければいいと思いますよ。 「何のために生きるか」という事よりも個人的に言わせて貰うなら 「何のために生きたいか」の方が重要だと思います。 >「あなたの考える生きる意味」 生きる意味・・・それは、自分の中では使命を果たすと言う事 だと思っています。 「時間」と「死」だけは誰にでも平等に訪れるわけですから、 その中で如何に自分の人生を充実して過ごして行けるかどうか じゃないでしょうか? 長生きして平凡な人生を送るも良し、短くても輝かしい人生を 送るも良し・・・だと思います。 要するに、自身の最期が幸せであれば良いのではないかと 私は思っています。 そうする事が私にとっての「使命」であり、その使命の根源として 「人を幸せに導きたい」という考えがあるだけですね。
- ikiruimi
- ベストアンサー率25% (2/8)
生きる意味や、何のために生きているのかといった「人生の根本問題」は、 宇宙の第一原因者たる神について知らなければ解くことができません。 本来人間は、神が人間に与えた祝福、すなわち喜びを実現するために生まれてきます。 しかし、人間始祖の「堕落」によって、人々は、神が分からなくなり、 人生の意味も価値も分からなくなってしまったのです。
- lilact
- ベストアンサー率27% (373/1361)
気軽に書いてみます。まず「意味」の意味を考えてしまいましたね。 私が思うところの生きる意味 1、なぜ生きているのか 生命が一定の期間生きるような仕組みになって生まれてきたから。 生まれた瞬間の赤ん坊がもし言葉がしゃべれたとして、「なぜ生きて いるの」と聞いたら、多分分からないと答えるでしょう。 心臓は勝手に動いている、空気を吸わないと苦しいから吸う、空腹に なると不快感を感じるので乳を呑む。です。 植物でも動物でも、生まれたときに自動的に生きるような仕組みにな っている。その仕組みに障害があると生きられないこともあるし、 一定の期間が過ぎると死ぬ。 ある程度の年になると、死に恐怖を覚えるようになる。自分がこの世 からなくなるという恐怖、死ぬとき苦しいのだろうという恐怖です。 2、何のために生きているのか 死の恐怖を感じたくないから、恐怖から逃れるために生きている。 快適さを得るために生きている。 心の苦しみが死の恐怖に打ち勝つと自ら死を選んでしまう。 ある年になると、自分にとってどうすればより快適さを得られるかが わかってくるようになる。不快より快適な方がよいので、より快適さ を追求するようになる。 死んだらこの快適さはなくなると思うと、それを失いたくないと思う から生きている。 3、そこで、生きる意味とは 自分にとっての快適さを追求することが生きる意味 自分が生きていることに意味を与えるのが生きている意味 快適さというのは、人の役に立って満足感を得るとか、おいしいも のを食べて満足感を得るとか、学問を追求して知的好奇心を満足さ せるなど人によってさまざま。 同じ生きているなら自分が生きていることによりよい理由を見つけ られると、より心に快適さが感じられるのでそれを探そうとする。 哲学的に、あるいは道徳的に考えるとまた違ってくるかもしれない。 生命は一定の期間が過ぎると終わるのだが、「死ぬために生きている」 というのは、「一定の期間が終わるために生きている」となる。これは どういう意味を知りたい。私の認識では「一定の期間が過ぎると死ぬ」 のだが・・・・。 こんなところ。
- Evianus
- ベストアンサー率26% (18/69)
たのむ、教えてください。 あまり考えずに生きているかも。 たまに考えてへこむ。 いつも何も考えずに生きているが、 たまに考えてへこむ。 ぼけーとOkwebを見ていただけだが たまに考えるとへこむ。
死ぬキッカケがないからです。 私は、人身事故の瞬間を見たことがあるのですが、人の生死を分ける瞬間なんてそんなものなんだ…と思いました。 勿論、鳥肌が立って震えましたけどね。 自転車を赤信号で渡っていた人が、自動車に撥ねられたのですが、その人はこれから家に帰って寝るだけだったかもしれないし、ちょっとコンビニに行くだけだったかも知れないし、誰かが家で待っていたのかもしれない…。 でも、死とはそんな日常の真横に転がっているものです。 人が生きてるっていうことは、とても微妙なバランスの上に成り立っていることだと実感しました。 しかし、一方で、生きることも死ぬことも同じ意味なのだと知りました。 キッカケがないだけで、人はいつでも死んでしまうものです。 だから、意味なんてないんでしょうね。 死んでいないっていうだけなんですよ。
- sanako619
- ベストアンサー率14% (4/27)
私も死ぬために生きています。 生物は生まれた瞬間からただひたすら死の瞬間に向かって生きていくのだと、高校の恩師が言っていました。これまでにいろいろな死を見てきて、避けられない死を迎えるために生きているとしか思えなくなりました。 死の瞬間までいかに生きるか、が大切だとも思うのですが、流産を経験した身としては、この世に生まれることのできなかった命もあると思うと、本当にそうなのかわからなくなります。 私自身の希望としては、死ぬ時に、「あー、おもしろい一生だった!」と思いたいので、そのための努力をしているつもりではありますが。
- -soh-
- ベストアンサー率27% (55/201)
死ぬ理由がいまんとこないから
- kamkamkam3
- ベストアンサー率42% (216/514)
私は、思うのですが、今の時代ですよね。そういうことが言われているのは。昔もソクラテスさんとか言ってたみたいですが、要するに、人類が暇な時、そう思うんでは、ないでしょうか? 忙しい時は、必死で生きるための事をしてますよね。しかし、あまりにも暇だと、人間本来の生きる営み(働く、食う、寝る、などなど)が満たされないため、そう思うんではないでしょうか?あと、外で活発な活動をすると、多分、そういう思いはなくなると思います。
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