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無限
タイトルの事項はhttp://okwave.jp/search.php3にたくさんのご回答がありました。主に数学や物理の分野と思われます。私としてはどんな分野でも、例えば神話や説話などでも結構なのです。円周率とか、正確な用語になっている自信がないが、無限級数とかは、限りがないということでは無限なのでしょう。姿かたちは変わってもいつまでも同じ事のようなことを繰り返している、川の流れや人類の営々たる営みなども無限の思いを持たせます。そして語の意義としては、限りないということなのでしょう。しかし数学や物理の、非目的的な生活の無限と言うのは、むしろ取り留めない、とかエンドレスという状態でしょう。エンドレスと無限は同じなのでしょうか。無目的とかエンドレスという状態はいつまでも同じ状態の繰り返しだとするならば、それはどこで初めても、どこで終了させても同じだから、それは無限ということとは区別するか、或は二種の無限を措定する必要がないでしょうか?
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krya1998さんがお困りの詳しい状況がわからないので、話がずれてしまうかもしれません。 「無限」というのは、日本ではうまく理解されていないという話を読んだことがあります。どの本だったかは、お時間をいただければ調べることができますので、興味がおありになれば補足してください。 その本には、浄土信仰について説明があり、インドで生まれた西方浄土の信仰は、浄土が西のかなた(無限のかなた)にあるとイメージしたのだそうです。 しかし、仏教が日本に伝わってからも、「無限」のイメージはうまく受容されず、在来の山岳信仰と結びついて、「山の上に極楽がある」と変化していったというのです。それで、死後の魂はお山に行くし、仏様は山から降りてきてお迎えに来てくださるようになったのだそうです。 抽象的な議論に弱いのはわたしたちの民族性なのでしょうか???
お礼
ひんどぅの思想には、既に法然や親鸞の思想は講述されています。そういう意味での浄土における無限が正に、日本語化に、いい置き換えはないかな、とおもっているものであります。現にいま、いつでも、万物にある、無限。当然に、山岳修行の厳しい彼方にも、地上の日常生活にも、その彼方にもあるのでしょう。死んでも、生きていてもあるのでしょう。要するに仕方のもんだいなのでしょう。お回答のことは、自分としては、やはりそうか。という思いにさせられました。抽象的なことは、日本人だけではなく、目前の事で目を血ばらせなければならない、と思わされている私達、この地上界全てのものの不得意なことですね。ほんとうにありがとう御座います。たいへん参考になります。ガチンと自分で鷲摑みにしないとならないという、不遜な理解志向は慎むべきだと誡めます。
補足
おことばに甘え、補足します。हिन्दु hinduのभगवद् गीता Bhagavad Gītāを英文で講述している図書を読んでおります。創造の根源者たる、根源意識を the Infiniteということばで指し示すことがあります。これは無限者という直訳になると存じますが、このthe Infiniteは、決してエンドレスではないはずです。ラートブルッフでいえば、窮極の立脚根拠であり、且つ、窮極の理念・価値にあたるのですが、でもそういう西欧的当為命題の次元のものではなく、もっと信仰や、詩情のレベル実在的で全包含的なものなのでしょう。いうなれば創造の唯一神、というものでしょう。無限の方向であるが、決して取り留めなく無限ではなく、寧ろ今、現在、いつでも現に存在している無限という意味のものと存じます。エンドレスではない。しかし無限。これを心も、配慮もなく、機械的に無限者という単語いうのか。単なるエンドレスは万物の価値と言う意味はないし、いつでもちょん切れる同じものの繰り返しでありましょう。そういうものは価値的存在の世界には存在し得ない。万物の根源は価値であり、無限のものの立脚・基盤でありましょう。そういう無限者はエンドレスの無限ではなく、万物存在の当為意識であり、現にいつでも、どこにも存在している。これをエンドレスと同じ、無限ということばで観念したり、表現しては妥当ではないのではないか。他にいい言葉はないのかな、と存じた次第です。理論演繹の世界の抽象的な、無いものではない、有にして無というもの。これは抽象という頭の理論以前の根源有のことなのですね。無限は二様あるのでしょうね。ということなのです。こんなにことばを使っても、未だ十分に気持ちがどうも表現できないのですが。