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ダウ船
今世界史でアフリカについて学んでいますが 「東アフリカ海岸地方には、背が高く海賊的な住民がいて、ムーザ(現在のイエメンのモカ)に象牙、サイの角、鼈甲などを積み出し、ムーザの港から槍や剣などの武器、ガラス器、小麦などを受け取っていた。この交易に従事していたダウ船の乗組員はアラブ人で、アラビアの王の支配下にあった。」って文がありますが、背が高く海賊的な住民=アラブ人という解釈でいいのでしょうか?? そのアラブ人がアフリカからアラビア半島にあるイエメンの方へ交易しにいったってことですかね?? 詳しい方教えてください
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NO.4です。 私はアラビア半島などのアラブ人が貿易の為にアフリカ沿岸を訪れ、その過程で、その地にいた住民(背の・・・)と懇意になっていったと解釈していたのですが・・・ 住民(背の・・・)が、アラブ人と一緒に貿易船に乗っていたかはわかりません。懇意になり、婚姻関係も結んだとあるので、その可能性はあると思います。 アラブ人に全部任せていたのかもわかりません。任せていたかもしれないし、そうでないかもしれません。 日本の戦国時代の南蛮貿易では、南蛮は大きな船で日本にやってきましたが、その当時の日本にはそのような遠洋を航海できる大型船はなく、自力ではアジア周辺までしかいけませんでした。その為、南蛮貿易では南蛮に依存していたのが実情です。 そうした事がアフリカ沿岸でもあったかもしれません。住民(背の・・・)は海賊行為をしていたけれども、それは近場の沿岸での活動で、自力では遠距離までいけず、貿易はアラブ人の貿易船に任せていたという可能性もあります。もちろん、反対の可能性もあります。 申し訳ありませんが、この時代の資料はあまりにも少ない為、正確なところ、詳細についてはわかりません。
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- DieMeute
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出典は「エリュトゥラー海案内記(エリトリア周航記)」でしょうか。 「エリトリア周航記」では「背が高く・・・」の住民はアラブ人とは記されておらず、その住民の首長がムザの人々に貿易の許可をだし、そのムザの貿易船の船長と船員がアラブ人とありました。そして、そのアラブ人船長と船乗り達は、土地の住民と懇意であるともありました。 これは「背が高く・・・」の住民と、貿易船のアラブ人は別者であり、また別の民族という事だと思うのですが・・・ 私は、アラブ人とは別の民族であり、どういう民族か不明だから「背が・・・」と書いたと推察していました。 もし、「背が・・・」の住民がアラブ人なら、そのままアラブ人と記すか、「背が高く海賊行為を習性とするアラブ人」と記したのではないでしょうか。 あの当時のあの場所は、アラブ人やペルシア人、ザンジュと呼ばれる黒人や、東南アジアから移住してきたマライ系の人々もおり、混血もあったそうなので、「背の高い・・・」住人については、色々な可能性があると思います。 私の解釈は間違いで、アラブ人という可能性もあると思います。 ちなみに、ペルシア方面やアラビアのアラブ人がダウ船に乗ってアフリカ沿岸を訪れ、貿易していたというのが通説です。
- tanuki4u
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ものの理解が、現代人過ぎると思います。 外国人という概念自体が、国民国家という世界史的に見て、この二百年ちょっとしかない概念、そしてアフリカにおいては、まだ定着していない概念です。 無論、ダウ船による交易が盛んであった時代においては、まったくあり得ない概念です、国民国家というしろものは。 先ほどのリンク先にあるように、当時においてはオマン=ザンジバル帝国であり、オマン(現在のアラビア半島南東部)とザンジバル(現在のタンザニア)は、当時としては不可分の一つの王国です。
- tanuki4u
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http://www.kaho.biz/at/a.html 「東アフリカ海岸地方には・・・」を日本語として解釈すれば 背が高く海賊的な住民=アラブ人 ということになりますが、背が高いのがアラブ人というのが事実かどうかは不明です。東アフリカ海岸地方といえば、背が高いので有名なマサイ族もいますし。 そもそもアラブ人という概念自体が、アラビア半島を中心としたイスラム教徒という文化的な集団であり、遺伝的な統一性はないと思います。
補足
ということは、今回の「東アフリカ海岸地方には・・・」という文を解釈すれば、南アフリカ海岸にアラブの人が住んでいたということですかね??つまり、その人は外国人(アフリカに住んでいるアラブ人だから)だったってことですか?
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/syometsu/tanzania.html 参照 バスコダガマは、アフリカの喜望峰を越えて、東海岸に着けば、インドまで彼らアラブの交易者にインドまで連れて行ってもらえると知っていたので、がんばってアフリカ東海岸まで行きました。 しかし、「海賊的な」なんて表現を教科書でしているのかしら?
補足
ありがとうございます。 でもよくわからないので、もう一回質問させてください。 背が高く海賊的な住民=アラブ人という解釈でいいのでしょうか 「海賊的な」は教科書ではなくほかの参考文献です
お礼
補足で言い忘れたことがあるので、こちらで失礼します 「エリトリア周航記」から引用してある部分がある「アフリカ」(川田順造さんが書いたもの)を読んでます
補足
では、その解釈だと 背が高く海賊的な住民(現地の人)と懇意のアラブ人が、ダウ船に乗って交易をしたってことですかね。 その海賊的な人も一緒に船に乗り込んでいるんですかね?それとも懇意だからそのアラブ人(これは背が高い人の交易相手ですよね?)が全部やってくれたってことですかね? たびたびすみません