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ナポレオン
こんにちは。 高校1年生の者です。歴史は大変にがてですが,深くて面白いなと最近思いました。今私はナポレオンに興味があり調べています。そのことをまとめてみます。 ナポレオン(フランスの皇帝) 絶対王政→絶対王政で不満が起きてフランス革命→人権宣言→ここでナポレオンが政権について改革の理念を固めた。 という解釈でよいのでしょうか?? *自分で調べて流れを記したのであっていないかもしれません・・(すいません>< この解釈であっているのか教えてください。 よろしくお願いします、
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ナポレオンも、最初は「フランス革命」=「人権宣言」の理念を持っていたと思います。 ですが、「理念を固める」までには至っていないと思います。 最終的に、「皇帝」と言う権力者に収まり、やがて滅亡、ですからね。 参考のサイトです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%8A%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%88
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- caesar-x2
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残念ですが、全然違います。 しかしあなたのように誤った単純化で 誤解している人は多いのでしょうがないと思います。 まずフランス革命の起こった理由が違います。 絶対王政に不満というのは国権の問題ですから、 高等法院などでの法廷闘争や、立憲議会での論議に 直結する問題であって、革命とは無関係です。 革命は民衆の間から起きたことであって、法律論争や 立法改革からおきたものではありません。 開明派貴族を中心とする立憲諸派の改革運動は 革命前から続いていて、それは憲法制定で完結するのですが 革命はその後も続くどこか、そこから激しくなるのです。 革命の直接的な原因は、穀物不作と飢饉、そこからくる税収の低下と、 それ以前からたまっていた戦争出費による財政赤字です。 財政の悪化のために三部会を開いて、増税しようとしたのがきっかけで、 アメリカ独立戦争前の「代表なくして課税なし」としうスローガンは有名ですが、 要するに負担増ならば権利を認めるように第三身分が 封建制度の改革をもとめ、特権身分廃止を提議していったわけです。 これに第一、第二身分が反発し、テニスコートの誓いのシーンへと つながるわけですが、 ここまでの流れとは全く別に、パリの街中ではパンの値段高騰による 暴動が頻発していて、生活苦に起こった市民が暴動を起こしていました。 彼らは民衆はあまり革命の本質を理解していなかったのですが、 この暴徒たちは、国王が軍隊を(従来は軍隊の入市が禁止されている)パリに呼び寄せて 武力鎮圧を図っているという、デマを信じて、 バステューユ監獄と廃兵院を襲撃して武器と弾薬を奪ってしまったわけです。 これが革命のおこりです。 絶対王制云々は無関係で、 殺されるかもしれないと思ったから武器をとっただけです。 しかもそれは間違った情報を基にした行動で、この後もそういう 軽挙妄動がしばしば革命の道程を決めてしまいます。 人権宣言は、穏健派の理想をまとめたものではありますが、 多くのパリ市民にとっては内容が満足できるものではありませんでした。 まず国民主権を謳ってはいるものの市民の定義は限定的で 要するに一部の能動的市民にのみ政治参加を認めただけで 女性はもちろん除外されてまいますし、財産による制限選挙でもあり、 またパリ市民が一番切望していた生存権について、あるいは 生活苦に対す対策を何も示さなかったわけで、革命は1789年の理想を 越えて進んでいくのです。 よって人権宣言は、法の歴史の上では重要ですが、 革命のなかの位置づけは低いのです。 さらにナポレオンの政権ですが、「改革の理念」云々とは 全く無関係です。 ナポレオンの政権は単純な軍事政権で、軍隊によって維持されていました。 ナポレオンは革命の成果である基本的人権や市民的自由(一部制限あり)を 認め、革命を継承する立場をとりましたが、 彼は存外保守派であり、共和主義者ですらありません。 命の成果を容認したのは、それが合理的だからであって、 ナポレオンは共和国の政権の安定化に成功し、外敵から共和国を守り、 さらに永続させるために帝政に移行させますが、 それは同時に個人的野望であり、革命の流れから言うと、 彼の15年間の治世はイレギュラーなのです。 革命を集大成したようなものでは、全くありません。 あなたの大きな間違いの一つは、(特に歴史の)物事が一本の道で できているように誤解していることです。 現実には複数の道が入り乱れていて、進む方向も同じではありません。 一般的に歴史は予定調和して正しい方向に向かいますが、 それはその方向が合理的だからであって、 大きなスパン(期間)で歴史を眺めてわかることであり、 局地的に歴史の断片をみるならば、それはあっちいったりこっちいったりと迷走する、 あるいは迷走しているように見えるのが常です。 絶対王制が崩壊した流れと、フランス革命が起こった流れ、 ナポレオンが政権ととった流れ、この三つは全く無関係な流れで別々の川なのです。 もちろん最後までいけば同じ海に流れ着くわけですが、 それを同じ川のようにいうのは完全な間違いなのです。 わかります?
- mat983
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絶対王政→絶対王政で不満が起きて、1789年7月フランス革命 →1789年8月人権宣言→1791年王政廃止と共和政の樹立→1794年テルミドールの反動→1799年ナポレオンが執政政府を樹立。政権理念を固めた。 質問者さんの内容を少し細分化しました。
- tanuki4u
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○○を軸にまとめると という、視点が抜けいています。 視点がなければ、その解釈がいいのか悪いのか分からない。 一般国民の財産 という視点でまとめると 絶対王政(朕は国家なり。つまり、フランスの財産はすべてルイ14世の個人のモノで、ブルボン王朝の家産である。一般国民:おいら達には、土地も財産もない、生活が苦しい) 人権宣言(一般国民にも、ちゃんと生きる権利、そのために財産作り) ナポレオン法典(私有財産性の確立) となります。ナポレオンが支持されたのは、一般国民が財産を持ってもよい、そして、それが取り上げられないという私有財産性を確立したことにあります。その反対給付として、国民皆兵(私有財産を守るために、私有財産を認めたフランス革命を守るために)によって、対外戦争を継続しました。このとき、常勝将軍ナポレオンと、ナポレオン法典と、フランス国民は一体化しました。 ナポレオンの独り言として、「朕の作りしもので、未来永劫残るのは、この法典だけかもしれない」と伝えられています。 実際に、日本の憲法や刑法はプロシア系ですが、民法はフランス系(お雇い外人、ボアソナードはフランス人)であります。これは、私有財産を認めた最初の成文法がフランスのナポレオン法典だからです。