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村上春樹とグレート・ギャツビーについて
数年前に村上春樹氏のフィッツジェラルドを巡るエッセイを読みました。 フィッツジェラルドの破滅型人生は文学的で興味深かったのですが、 その本で絶賛されていたグレート・ギャツビーを読んでも、 いったい何がそんなにいいのか、さっぱりわかりませんでした。 その本で村上春樹氏がグレート・ギャツビーを誉めている理由については記憶に残っていないし、そもそも理解できなかったのかもしれません。 その時から今まで疑問に思っています。 グレート・ギャツビーの魅力はどこにあるのか。 なぜ、村上春樹氏はグレート・ギャツビーを絶賛しているのか。 自分でもう一度読めばいいのでしょうが、その前に道しるべとしてご教示をいただけたら幸いです。
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ええとですね、読売新聞にメールでのインタビュー連載がありました。 そこで『グレートギャツビー』について語っていましたけど、たしか、フィッツジェラルドの小説を読んで、成長しなければならないというメッセージを感じただか、そう思っただか・・・・言っていました。 曖昧でごめんなさい。 私にも春樹さんの言う「良さ」は解らないんです。 どこで読んだか忘れましたが「(グレートギャツビイを)僕のような読み方をしている人にいままで会ったことがない」とのことでしたので、一般的ではない解釈というか、春樹さんにとってはものすごく何か来るものがあった(ある)作品であり、作家である、ということなんだろうと思います。 No.1の方がお書きになっているように、他の人には解らないらしい。 私にも解らんです。村上春樹は好きですが。 探してみたらありました。本よみうり堂 《今の日本に「成熟」伝えたい《村上春樹 僕の「ギャツビー」 上》 http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20061124bk02.htm 《高い志 小説家の規範《村上春樹 僕の「ギャツビー」 下》 http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20061128bk04.htm しかし「村上朝日堂はいほー」ってのがいいですよね(笑) 登場人物たちの考え方や行動様式が現代に生きる我々にとってもじゅうぶんに同時代的で、物語の中の情景のひとつひとつの意味や成り立ちについて、あたかも「我がこと」のように真剣に考えさせられるのが良い物語である・・・・ たぶん村上さんにとって『ギャツビー』はそういう物語なんでしょうね。 フィッツジェラルドを小説家として「規範・基準」と見ている。 彼は「私生活があまりまともじゃなかった」が、天才なんだからどんな生活を送り、どんなひどいことをしてもべつにかまわない。 作品が残ればいいのだ。 など。 でも正直言って、インタビューを読み返しても、私にはいまひとつピンと来ません。 たぶん私にとってはフィッツジェラルドにはビビッと来るものがないんでしょう。 なんか村上さんには圧倒的に感じるものがあるんでしょうね。 スパンと解る(ような気がする)何かが。
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No.2です。 コメントありがとうございました。 勝手ながら、村上春樹ファンとしてのアドバイスです(笑) 村上春樹の著作は分野や作品によってかなりヴァリエーションがあります。 そのためファンの中でも、「翻訳作品はあまり読んでいない」とか「ノルウェイの森が好き」「ノルウェイの森よりは断然『羊をめぐる冒険』だ」とか、「昔の作品のほうが好み」「今の作風もいい」などなど、好みが分かれます。 短編は短編で不思議な雰囲気があるし。 村上春樹の感性に触れるためにエッセイをお読みになるなら入門編としては『村上朝日堂』シリーズがお勧めです。 小説とは全く違う世界です。 なにしろ『村上朝日堂はいほー』ですからね(苦笑) 日常的な考察があったりします。 旅行記は旅行記でまた、朝日堂とは全然違ってシリアス。 ユーモアはありますが。 小説ですと、『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』の“初期3部作”、続編の『ダンス・ダンス・ダンス』が基本を知る上では良いと思います。 他に評価が高く、なおかつ読みやすいと思われるのは『ノルウェイの森』『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』 それぞれ全然違う傾向の話ですが。私は後者が好きです。 村上訳『ギャツビイ』はまだ読んでいないんですが、従来出ている訳版は読みました。 「なるほど、ハルキさんはこういうのを読んできたんだな」と思いました。 どの話だったか、書き出しの雰囲気が似ている作品があったんです。 カフカ賞を取ったりなんかして騒がれた頃、テレビなどの報道で「村上春樹氏は自分のことをさらけ出さない」みたいに言われていましたが、そういうことを言うのはエッセイを読んだことのない人だろうなと思いました。 エッセイだとけっこう日常生活とか奥様の話とか出てくるんです。ファンなら奥様のお名前だって知ってます。 http://opendoors.asahi.com/asahido/ http://www.amazon.co.jp/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%9C%9D%E6%97%A5%E5%A0%82-%E6%9D%91%E4%B8%8A-%E6%98%A5%E6%A8%B9/dp/4101001324
お礼
再び、ありがとうございます! ご紹介を読んで、手付かずだった豊かな世界に入れそうな気がしてきました。 『村上朝日堂』、読んでみます。 アメリカ文学にもう少し入ってみようという思惑もあってフィッツジェラルドを巡るエッセイを読んだので、相互に幅を広げていければ、とも思っています。 やはりこういうことはご存知の方に教えていただくものですね。 ご指南ありがとうございました!
- tabbycat
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私はそのエッセイを読んでおらず、村上氏の熱狂的ファンという訳でも ないのですが、お答えします。 村上氏は「ギャッツビー」と「僕」の両方に自分を見たのでは ないでしょうか? ギャツビーは派手な生活をしているけれど孤独で、たった一つの事を 成し遂げたいばかりに恐ろしく膨大かつ緻密な、でも不器用に 力を注ぎ込んだ人。 「僕」は身の丈に合わないことは決してせず、人間関係のごたごたは うんざりだと引き気味にしている人。でもすべてを見守ってしまうし 周囲からの人気がある。 両方に村上氏に通ずるものを感じました。 それと描かれている時代のアメリカの雰囲気と村上氏の青春時代の 空気感と合っているのかもしれません。 でも、これらは後付けの考察であって、 それほどまでに惹きつけられる理由は、村上氏の周囲の誰も 理解できないそうです。
お礼
そうすると読み手は、村上氏のギャツビーへの思いを彼の自己理解の軌跡として受け取り、その自己理解と小説の内容を重ねる、という仕掛けのエッセイだったということなのですね。 そう考えるとエッセイの方はわかるような気がしてきました。 もともと文学を理解するとはそういうことですよね。 私自らが独自にギャツビーに共感できるかは、自分でその作業をしなければいけない、ということですね。 よくわかりました。ご教示ありがとうございました。
お礼
回答していただきまして、ありがとうございます。 ご紹介いただいたページ、とても参考になりました。 小説に耽るとき「物語の中の情景(文脈からは人物の言動か)のひとつひとつの意味や成り立ちをあたかも我がことのように」感じるのはごく普通のような気もします。まあ、過去の時代から生き残るのは、そうした小説だけだからなのでしょうが。ともかく、村上氏にとっては「我がことのように」の度合いが高いということですね。 小説を読むという行為そのものについて、考えさせられます。 実は食わず嫌いで村上作品に手をつけておらず、初めて読んだのがそのエッセイで、これで行き詰まってしまっていました。当時はまだ村上訳の「ギャツビー」も出ていなかったので、これを機会に読んでみようと思います。そのエッセイと「ギャツビー」は、村上春樹氏の感性を表すものとして、入門としての選択は期せずして間違っていなかったわけですね。 数年来のもやもやが整理できました。 ご教示ありがとうございました。