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野球に対するイメージ
消えてしまいましたが「野球はスポーツか?」という質問がありました。 大体の方がスポーツであるという主張でした。 私もスポーツでないという理由がないので(他にもいろいろ理由がありますが)賛成ではあるのですが 他のスポーツと比べて何となく異質なものですよね。 サッカーやバスケットなどに比べ非常に刹那的ですよね。 ピッチャーとバッターが相対している瞬間が神経がその間に集中していくのが目に見えるようでとても好きです。 それ以外にも日本で作られたものではないのですが日本的(あくまで私が感じる「日本的」ですが)な感じがします。 皆さんはこの考えに対してどのように感じますか? また、どのような野球に対するイメージ(印象)をお持ちですか?
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定義がちょっとちがうのです。私の場合には. >富を生産しない行為が娯楽 ですから。楽しむ行為を娯楽として定義していません。お話の内容は.「楽しむ行為」を娯楽と定義していませんか。 娯楽を推進させた場合に.下層階級から簡単に富を略奪できるのです(従業員に車を買わせることにより生長したフォード社が有名)。したがって.上層階級の人々は下層階級の娯楽を推進します。また.下層階級の娯楽を推進させることにより.治安の維持を確保しました。このあたりの内容は.イギリスの社会福祉政策(または.マルクスが書いたイングラントの...(書名忘却))の歴史をちょっと調べれば理解できるかと思います。
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>すごく極論ではないですか? そうでもないですよ。現代社会はかなり高度化していますので.他の分野に関係していたら簡単に乗り遅れて(今浦島のような状態になって)しまいます。 たとえば.外国語教育。普通の教育を2-3年も受けていれば.娯楽系外国語文学ぐらいは読めるようになるのが普通です。しかし.日本の外国語教育は.入学試験で人を区別するための教育ですから.ほとんど使い物にならない.外国語嫌いを製造しているだけです。 かってスポーツをしていた方々は就職すると指導者に対して盲目的に従う傾向があるので.比較的需要は多いですが.30-40過ぎになって.リストラという賃金カット・解雇後さて.何ができるのでしょうか。特に最近はゆとりの教育と称して.学力の低下が激しいです。これを補おう(大学入試試験・大学院入学試験の程度は変化していない)とすると.娯楽系内容なんて関係している時間はないのです。
補足
質問の内容とまったく関係ありませんが 娯楽とその人の能力とは関係ないと思います。 はっきり言って指導者に盲目的に従う傾向がある選手などたいした選手じゃありません。(多いに違いありませんが)それは指導者がいけません。 自分自身の考えをもち、なんらかの能力を得たり得ようと思うのは 娯楽からではないのですか? 現にこういった質問するサイトに質問する事自体娯楽とどうやって区別するのですか? 私にとっては娯楽なのですが。 失礼ですがなぜインターネットを今やっているのですか?(回答して頂いて失礼なのですが)矛盾しいませんか? なぜ世界中で娯楽をなくそうという動きがないのですか? 娯楽系内容、心を慰め楽しむための内容です。 人間の心はそこまで強くなれますか? 仕事にしたって娯楽の要素がまったくなくて続けられるものですか? 一瞬にしろ楽しむ事がありませんか? 繰り返しになりますが娯楽にあふれている現代においてなんでもかんでも享受するのは間違っているという意見には賛成できますが 娯楽をなくす事には賛成できません。 娯楽は情操教育に必要なものではないですか?喜びを知らないという事にはなりませんか?
考え方とはどこを指していますか? >日本的な感じがします。 のように.日本本来の姿のように感じる考え方です。 >日本的と感じる事と社会に関心を持たない事と何かつながりがあるんですか? 野球(娯楽系内容を代表して)にばかり興味を持って.社会に興味を持たせない風潮を作ることが最初の植民地教育です。その成果として.野球が日本の文化として定着した状態.つまり.「日本のもの」と感じることが.植民地教育の成果です。たとえば.現在の野球産業に導入されている各種資金を貯えて.ベルギーの子鬼(ベルギー農村地方の商店主の方々.ちょっとした小金持ち程度の蓄えがある方です)のように為替取引に関係したり(為替相場で富を築く).政府の政策によりみずからが経済的被害を被らない(利益が出るように)ように対応を取ったりしたらば(日銀の為替介入に反対するような為替取引をしたら).世の中は大きく変化するでしょう。 >娯楽にのみ興味を示すとは書いていませんが。 物の生産を考えてみてください.富を生産する活動が資本主義の原則です。富を生産しない行為が娯楽です。富野生産を確保するための武力行使が軍需です。GDPは富の生産・娯楽・軍需に大きく分けられます。この中の娯楽にのみ興味を示す人々を育成することが植民地教育です。野球に興味を持っているときにはその他の分野に興味を持ちません。というのは.人の物の考え方.記憶・学習の内容から人が考えられることは.一つナノです。野球に興味を持っている限り.考えることは野球だけです。 >「金沢事件」は吉田さんがかかわっているものですか? 金沢事件の関係者で氏名を知っているのは1名だけです。金沢大学の当時学生さん(現在どうしているか知りません。先日国会図書館で理工系の著書を発見しました)で.米国から植民地教育を促進するための人間が派遣され.各地の師範学校で教育関係者に対して講演をしました。この学生さんは自由主義教育を知っていましたので.自由主義教育に反すると講演者に対して詰問し.大喧嘩になりました。これが金沢事件です。この金沢事件に吉田さんという方がいらっしゃるかどうかは知りません。日本での植民地教育を推し進めることが困難と考えられ.米国による日本の植民地教育はあまり促進されなかったのです。たしか.九州からはじめて東京まで打ち切られたと記憶しています。
補足
日本的というのはなんというか「精神的な戦い」「刹那に生きる」のようなものをさしていて日本のものと感じているわけではないのですが。 もし、野球ではなくほかのスポーツを普及されたとしても日本的とは感じないはずです。 私が言うのは普及しているとかそういったことではありません。 娯楽を考えたら他のものを考えられなくなるとはすごく極論ではないですか? 確かにそのものに興味を持っている瞬間はそれだけかもしれませんが人間は 瞬間瞬間で考えている事は変わるはずです。 その興味を持つ対象を増やす事によりある一つのもに対する興味を薄くさせる そういった意味ですか? つまり考えられなくではなく考えにくくなるのではないですか? 娯楽があふれていますが安易に享受してはいけませんね。 そういわれても野球は止められません。思う壺だけどまぁ仕方ないです。 金沢事件は検索したら歌手の吉田拓○さんが関わった事件が出てきてなんでこれが 関係あるのかと思ってしまったからです。不勉強でした。ありがとうございました。
「日本的」と感じるのは、ピッチャーとバッターが一対一で対峙するところ、つまり”一騎打ち”からきてるような気がします。 昔の戦は、名乗りをあげて正々堂々と一騎打ちを挑む。 こういった名残から野球は他のスポーツに比べて日本人に好まれたのでは?という説を聞いたことがあります。
野球を小さく切り崩していくと、「打つ・走る」となります。 打つと言えば、テニスや卓球も球を打ち返す球技ですよね。 走ると言えば、陸上も勿論スポーツですよね?(サッカーやバスケットなどの球技しかスポーツと認めていないのならここまでですが・・・) それと野球は、フットボールやアメフトみたいに試合をしているフィールド以外で作戦を練る事が重要なので、プロがやっているのをボ~っと見ていてもつまらないです。 私は子供の頃、野球ではなくてソフトボールをやっていましたが、 打って走って、球を追いかけて身体を動かすととても気持ち良かったです。 どちらかと言うと『見る』より『やる』方がその良さがわかります。 >ピッチャーとバッターが相対している瞬間が神経がその間に集中していくのが目に見えるようでとても好きです。 って言っていますが、実際やってみると後ろで守っている方がもっと集中しています。 次の瞬間ボールが飛んでくるかもしれませんから。 もうドキドキですよ。 確かに将棋みたいに先攻後攻があるので、日本的なスポーツかな?とも思いますがね。 スポーツの定義が無い限り、少なくとも「野球はスポーツではない」と断言できませんがね。 弓道やビリヤードだってスポーツですからねぇ。
お礼
神経が集中していくというのはバッターから考えたものですね。 守備はまったく自信がないので「くるなっ」と念じているので 違った意味の集中ですね。私は。 ありがとうございました。
- taitan72
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野球はもちろんスポーツですが、「遊び」と「真剣勝負」のバランスが絶妙なスポーツ、という気がします。 「遊び」の部分としては、まずランナーがベース踏むよりも先にボールを投げたらアウト、あるいはランナーを追っかけてってタッチしたらアウトというのは「鬼ごっこ」や「ドッジボール」に近い感覚です。 またボールが転がっている間は危険を冒して走り回ってよいというのは「缶蹴り」や「だるまさんが転んだ」的な要素とも言えます。そういったところは比較的「遊び」という印象が強いです(もちろん本人達はめいっぱい真剣にやってますが)。 一方、ebinamoriさんも書かれているように、バッターがバッターボックスに向かってからピッチャーと相対するときの緊張感はまさに「真剣勝負」そのもの。野球をやったことのある人ならどなたでも感じると思いますが、バッターボックスに立ったときのあの緊張感、周りの声が聞こえなくなるほどの集中力。まず日常生活では味わうことの出来ないものです。 こうした「遊び」と「真剣勝負」の要素が、いたるところに散りばめられているところに、やるスポーツとしてだけではなく見るスポーツとしても、野球が広く受け入れられた素地があるのかな、と思います。まあ、科学的な根拠があるわけではないですが。
お礼
面白い考察ですね。 ありがとうございました。
草野球愛好者です。 日本に野球が普及した理由の一つに軟式ボールの発明があると思います。 海外ではあの堅くて石のような硬式ボールを子供から使っていますよね。 硬式球は脆弱な一般の日本人には扱うのは困難です。ちょっと当っただけで骨折ものでしょう。軟式球のおかげで子供からおやじまでみんなで楽しめる、とっつきやすいものになったんだと思います。 主題がずれましたか??
補足
確かに硬球は危ないですからね。 でも,日本で硬球を小さい頃から使わないのは危ないという理由だからではないのですか? 個人的にはバッティングに限っては硬球のほうが面白いです。(危ないですが)
米国による日本の植民地化制作として.GHQの管理下で高校野球が普及しました。 日本人の若者が.政治・経済などに関心を持ち.GHQによる植民地化制作に反対しては困る(例としては金沢事件など)ので.若者の関心を政治・経済から他の分野に向けることが目的でした。 ご指摘のような考え方が出てくることは.GHQによる植民地化政策の成果でしょう。つまり.社会に関心を持たず娯楽にのみ興味を示す人々を育成することが植民地政策の基本ですから。
補足
米国の思惑通りになるのは癪に障りますがいいものを持ってきてもらったと思います。 考え方とはどこを指していますか? 日本的と感じる事と社会に関心を持たない事と何かつながりがあるんですか? 娯楽にのみ興味を示すとは書いていませんが。 挑発的な文になってしまいましたがそういった意図ではありません。 「金沢事件」は吉田さんがかかわっているものですか? 再びの回答よろしくお願いします。
- mgshop
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一応、野球もサッカーもバスケットも好きで良く見ておりますが。 確かに野球は他のスポーツと比べ異質ですね。 おしゃるとうり日本的で日本人にはよく合っている様に思います。 あとサッカー、バスケはテレビで見ると面白みが半減してしまいます(バスケはテレビでしか見てないんですけどー) 見たい部分が写らない・写っても遠いとか、スタジアムで見るのとは別物ですね。 それに比べてやきゅうは、大体見たい部分が写り(プレーがボールのある場所・向かってる場所だけ動いている)テレビでみても球場の臨場感がそのまま伝わってきます。 私の野球のイメージは他のスポーツに比べ緻密な試合運びですかね。 たとえば敬遠とか、送りバントのようなベンチも一緒にプレーしているようなところが好きです。 あとやっぱりドラマみたいなところが好きですね。 9回1点差で守護人登場!対するは、最後の切り札の代打登場。 最高に盛り上がりますよね なんだか訳わかんなくなっちゃいましたね
- hdchan
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見に行った時のことを考えると・・・ 野球は球場の雰囲気を楽しむもの。 応援団の鳴り物でもいいし、メジャーリーグみたいな雰囲気でもいい。 暑くてビールがうまくて人がいっぱいいて夜空が綺麗で(ドーム球場反対派なもんで・・)、そこに乾いたカシッて音と共に白い放物線が(内野フライでもOK!)パッと上がるのがいいのです。 もちろん試合が盛り上がればなお可! サッカーは限界までナショナリズムを盛り上げ、周囲のファンとプレイヤーと一体化して選手と一緒くらい疲れるもの。 応援もスポーツ。 あと、個人的にはアメリカン・フットボールが好きなのですが、あれも野球的な間と駆引きのスポーツに思いますね。
- madkiller
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プロ野球と観客=道楽 サッカーとサポーター=野蛮
補足
その違いはどこによるものですか? 他チームを侮辱するようなファンがいることでは大差がなく、それを野蛮と呼ぶのではないでしょうか?アイルランドのサポーターにすがすがしさを感じましたが。 あのチケット売り場で暴れていたやつは野蛮というよりは なんか勘違いしているというだけだと思います。フーリガンみたいになれば暴れていいみたいな。 非常に生意気な事を言っていますができればそういう結論にいたった経緯を教えて下さい。
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お礼
不勉強なのでさっぱり理解できませんが 娯楽にそういった意味があるのも装なんだろうけれどもそれだけではないという 考えは変わりそうにもありません。 長々とお付き合いいただきありがとうございました。