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ある元号の最後の年の表し方。
例からあげます。 いわるゆ「桜田門外の変」は、三月三日に起こりました。この年の三月九日に改元があり、「万延」となります。すると三月三日は「安政七年」のはずです。ところが、高校の歴史の教科書に「桜田門外の変は万延元年に起きた」との記述があります。これはどうしてでしょうか?ある元号のの最後の年は、次の新しい元号で呼ぶという約束事があるのでしょうか?それとも他の理由があるのでしょうか?よろしくお願いいたします。
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「ある元号の最後の年は、次の新しい元号で呼ぶという約束事があるのでしょうか?」 はい。そういう決め事があります。同じ年に2回改元したような例もありますので、ややこしさを回避するためです。 手持ちの「日本史辞典」(角川書店、昭和60年版)には、冒頭の凡例に次のように書かれています。 ---------------------------------------------------------------- * 近代以前の西暦と日本年号の関係は、厳密に月日までを比定せず、改元年号(質問者様の言う『次の新しい元号』)で示す。 * 近代以降は月日を明示したものについては慶応4、明治45も用いた。ただし、1926は大正15とした。 (私注;大正天皇の崩御は大正15年12月25日で、昭和元年は数日しかなかったから。角川の日本史辞典は平成8年に30年ぶりに改訂版が出ていますが、恐らく「1989は平成1とした」と注記されていると思われます。昭和64年は1週間しかありませんでしたので) * 1872(明治5)12月2日までの西暦表記は年の初めや終わりにずれが生じるので、日本年号を主体として読み取ること。 〔例〕下田条約の1854年(安政1)12月は「安政1年12月」と読み取る。西暦では「1855年2月」である ---------------------------------------------------------------- 赤穂浪士の討ち入りも「1702(元禄15)12月」と書かれ、毎年の12月には「義士祭」が「師走の風物詩」になっていますが、西暦で言えば1703年1月か2月の出来事です。実にややこしいですね。 余談になりますが、日本史の専門家が書く文章は、西暦を用いずに元号で書くのが普通です。分かりやすくするために要所に西暦を挿入したりしますけど。「下手に西暦を使うとインチキ年号だらけになってしまい煩わしい」ことが理由です。
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- alpha123
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元号表記だけで生活しているなら質問者さんのいう表記になります。 しかし普通は年単位で考えるので大正と昭和、昭和と平成でも昭和1年(元年)、平成元年(1年)は前年号末年と同じです。 前の年号の最後の年は使わない(^^) 生年月日に残るくらいです。西暦換算で考えればわかりやすいか。 >最後の年は、次の新しい元号で呼ぶという約束事 ありそうですね。というより西暦1本で書けばそれでいいのに元号にこだわる日本政府があるからでしょう。 一時期の書類は西暦でも元号でも良かったが、いまでは西暦表記だと受け付けないものは増えました。不便で仕方ないけど(^^) お1人さまおひとつなのは幸いです。 教科書の桜田門外の変で言えば安政7年でも万延元年どちらでもいいです。 国民の自由、表現の自由、学問の自由、思想の自由ということです(言い方禁止すれば憲法違反だ)
お礼
回答、ありがとうございました。確かに西暦と元号の併用は煩わしいことがありますね。
お礼
回答、ありがとうございました。大変よくわかりました。