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薩摩軍はベストを尽くした?
西南戦争初頭の熊本城攻めと周辺の戦いで破れた時点で戦争は終わりましたが、ここまでで果たして薩摩郡はベストを尽くしたと言えるのでしょうか。他にやりようがあったと言うような言説も耳にしますが、どうも私にはかなりベストに近い戦いをやったのではないかと感じられます。鎮台のシンボル的にな熊本城攻略は、戦略的(やはり後方に放置はできなというよりも、薩軍の基地に必要)にも政略的(各地の呼応を期待)にも必要であったのではないか。そのために、城攻めの定石である篭城戦を行ったが、政府軍の後詰が思いのほか強力であった。特に海軍による南方の八代上陸が決定打となった。あと、何週間?か城を囲んでいられたらおそらく鎮台は降伏したのではないか?それから後はわかりませんが、とにかくニュースは日本中を駆け抜けるでしょう。
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ま、今となってはなんともいえませんが、 熊本鎮台には志士の生き残りである谷干城が司令官で 副参謀が日露戦争の勝利者である児玉源太郎がいたわけで、 あの状況で降伏は絶対にありえないですね。 薩摩軍は、熊本城を攻略できるだけの重砲なくて、 兵站も事実上皆無の状態だったから、 そもそも攻城戦なんか行うこと自体が馬鹿げていたといえます。 それに最初は鎮台の武器・弾薬を奪い取ることが目的だったわけで、 その試みが失敗した時点で、もう終わりにすべき。 意地になって熊本城を攻め落とそうとしたのは明きらかですが、 もともと加藤清正が島津の北上を防ぐために築いた名城、 熊本城は、堀・石垣がしっかりしていて、準近代戦にも対応可能でした。 天守閣が燃えても、あれは何の意味もないのです。 薩摩軍が包囲篭城戦にしたのは、定石だからではありません。 そもそも長期戦を避けるのが、戦闘の定石とされ、この場合は 特に愚挙愚作ですが、強襲が上手くいかず、攻略を諦めることもできなかったので 包囲を続けたというのが真相でしょう。これは一番よくないことです。 あきらかに薩摩軍は準備不足で、若気の至りのような戦い方です。 通説のように西郷隆盛は西南戦争に乗り気ではなかったかもしれないし 死に場所をもとめただけで、勝つ気がなかったのか、 そもそも万事戦備を整えたり、策を講じたりする才能に欠けていたのかもしれません。 西郷は戊辰戦争の名目上の総司令官ですが、 実際の指揮の大半は大村益次郎や黒田ら後の明治政府高官がやっていたので 一から出直しといっても無理だったのかもしれません。 薩摩郡、(指揮についての)素人の集団にしては、ベストは尽くしたと言えるでしょう。
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池波正太郎とかの文学作品では桐野利秋A級戦犯説が多いですね。 官軍を「農民兵」と完全に馬鹿にしていて、熊本城などあっという間に陥落させてみせると豪語していたことは事実のようです。この指揮官の思い上がりが薩摩軍の能力を完全には発揮できなかった大きな原因だと思います。 しかし仮に他の作戦を取っていてもどうだったでしょうか?天下の薩摩武士が、理詰めで装備と教育を施した官軍の農民兵に負けることは必然であり、時の勢いだったと思います。「合戦」から「戦争」への時代の転換点であったような気がします。
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確かに思い上がりと言うのは最も高くつきます。歴史的事実ですね。そして歴史の転換点と言う流れも確かにあるのでしょう。じつに最後の士族反乱が起こって明治が名実ともになったという、納得の流れができますね。
- komes
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薩摩軍には戦略、戦術というものはありませんでした。 そもそもの発端が明治政府の挑発から始まり準備不足のまま暴発したのですから。 それまでの反乱がいずれも小規模で局地的であった為、殆どが容易に鎮圧されたのに対し、当時の精強集団であった薩摩兵の実力を過信した暴挙でした。 挙兵の第1報を聞いた西郷が「しまった」とつぶやいた 位で中止の説得を試みたのが失敗しすでに死を予感しての同行です。 各地での参加を期待しながら陸軍大将の肩書きを利用して熊本城の開城を要求するなど支離滅裂の行動でした。 当時長崎港を占領し蒸気船を獲得し海路上京する策を唱える人もいましたがこれをとらず熊本城攻撃に入ったのが失敗でした。 しかし当時の薩摩軍としては選択肢がなかったのも事実です。 ベストというより計画的自殺行為の感じがします。
お礼
確かになかったようですね。しかし、作戦的には実に粘り強く、攻守すごいことをやっています。そして熊本城に対する認識の甘さと傲慢な態度。こういう甘さが高くついたようです。
お礼
装備も不足で作戦も行き当たりばったり出会ったということならば、負けるべくして負けた歴史であったのでしょう。ただ、熊本城にもっと弱気な司令官がいれば、それはそれで一時的に占領できたのかもしれないと思いました。ただ、歴史が変わったとは思えません。時の流れは、再び士族に政権は戻らない時点に来ていました。