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厦門(アモイ)占領について
こんにちわ。 1938年(昭和13年)の海軍による厦門(アモイ)占領について教えてください。 昭和13年というとまだ真珠湾攻撃前のせいか、年表には記述があるものの詳しい資料が見つかりません。(パールハーバー前後からならそれこそ腐るほどあるのですが…) 大戦通じて結構重要な海軍基地だったような記述が散見されるのですが、華僑大虐殺があったという昭南島や香港、上海ほどきらびやか(?)でないせいか、当時の街の様子などもよくわかりません。 そもそも昭和13年なんて早い時点でなぜ海軍が占領する必要があったのかという前後の事情がよくわかりません。 よろしくおねがいいたします。
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1937年(昭12)12月、日本軍は国民政府の首都南京を攻略しますが、中国軍は首都を奥地の重慶に移し、徹底抗戦を貫く構えを示しました。そして翌38年春頃からに中支の武漢方面に大軍を集中し、陸と海から軍需物資を輸送を始めたました。日本海軍の支那方面艦隊は、それまでも海上の封鎖を実施していましたが、援助物資は網の目をくぐりぬけて港へ届いていました。そこで大本営は武漢攻略作戦を策定する一方、海上援助ルートを絶つために5月3日第5艦隊に重要港の攻略を命じました。 これによって海軍はアモイを占領し、また陸軍も同年10月に広東攻略を実施することになります。 ただし、この時の作戦は、永続的なものでなかったため、日本軍が退くと再び中国軍が舞い戻ってくるという状態で、中国援助ルートを本格的に潰す目的で41年に華南作戦を開始、これがやがてさらに仏印進駐へと繋がって行きました。 資料=戦史叢書『中国方面海軍作戦 〈2〉』防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社 昭和50
お礼
ありがとうございました( ^ ^ ) インパール作戦やビルマ工作始めとして、日本は本当に援蒋ルートの遮断に苦慮していたんだなということがわかりました。