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?介石の国民政府

?介石の国民党と毛沢東の共産党が、第二次国共合作を結びますよね。共産党は共産主義で、?介石の国民党はどんな考えなのですか?共産主義ですか?社会主義ですか?資本主義ですか? それで汪兆銘が国民政府から抜けて、日本の傀儡政権の中心におかれますよね?汪兆銘(国民政府のNO2)は、共産主義が嫌いだったらしいことが書かれていました。とすれば、国民党は共産主義じゃないということになるんじゃないかと、、、じゃあ何主義なのかなあ?と考えてるんです。

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回答No.2

蒋介石 ***日本の反共的な政治家と結び、特に同じ反共産主義的な思想 を持つ岸信介などとは個人的な親交があった http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E4%BB%8B%E7%9F%B3 汪兆銘 ***1901年科挙に合格、1904年に清の国費留学生として 日本に留学し法政大学を卒業する。が、(この頃の国内は 中国人をひどく軽蔑していたようで)学生時代、相当 日本人にプライドを傷つけられたんでしょう、きっと。 ましてや「科挙に合格」するほどのエリートですから。 元々は中国共産党との合作派で(反共政策を採る)蒋介石とは対立。 その意味で、当初は共産主義的思考、が僅か5ヶ月間の共産党との 生活の中で「共産党の組織力と財政力」の乏しさを痛感し、 再び蒋介石の下へと。この人が何主義というよりも あえていうなら「日和見主義^^;」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%AA%E5%85%86%E9%8A%98  1936年12月12日に西安で起きた、 (父、張作霖を日本の関東軍によって殺された) 張学良・楊虎城らによる蒋介石監禁事件、 いわゆる「西安事件」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%AE%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6 によって無理やり「反共・内戦型」から「対日・外線型」へ 方向性を強いられさせられたわけだし。 1945年からは再び中国共産党との間で国共内戦が勃発するわけ ですから、(臨時的・一時的の「対日・外線型」で)国民党の 政治主義の根幹は変わってないと思います。 ましてや、1949年に敗北し台湾島に逃れ、台湾で1950年に 中華民国総統になって、1949年に成立した中華人民共和国と 今でも事実上対立してきたわけだし、昔から「反共主義」の根幹は 変わっていないように思いますが、個人的には。  「毛沢東の共産党」と「蒋介石の国民党」の対立は 「中華人民共和国」と「台湾=中華民国」の対立、 いわゆる「台湾問題」として今も続いているようです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%B3%B6  ただ時流の流れからすれば「蒋介石の国民党」的考え方 =資本主義の流れに「中華人民共和国」も変わりつつ あるともいえるのかもしれません。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%B3%B6  

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回答No.6

 蒋介石と言う人は、多くの回答者が触れておられる通り、毀誉褒貶の多い人です。なかなか人物イメージがきちっと定まらない人でもあります。元々は職業軍人を目指して日本の陸軍士官学校に学び、孫文が指導した辛亥革命に参加して、孫文が臨時大統領に就任し共和制による『中華民国』が誕生するや、その命を受けモスクワへ派遣される。  そこで共産主義思想に感化されたと言う話は余り聞いたことがありません。しかし、根が職業軍人でしたから、当時の日本など比較にならないほどの軍事独裁国家(スターリン体制) の実態を見て、後の南京国民政府(1923年4月12日、蒋介石が軍事クーデターで掌握)以降の統治方法、政権運営術の参考にはしたと思うが、蒋介石は当時の大方のアジア諸国がそうであったよいうに、専制的独裁による国家社会主義的な国家観の持ち主では無かったかと思います。  因みに、日本でも北一輝などの影響から2.26事件に加担した反乱軍将校や黒幕的な高級将校の一部に君主制国家社会主義とでも名付けざるを得ない、変てこな思想が蔓延していたようです。現在の私達が考える社会主義とはまるで違うものですが、スターリン時代の彼の統治方法に、ある種の『憧憬』の念を抱いてはいたでしょう。何しろ、蒋介石は帝国陸軍参謀達(佐官クラス)の中に、多くの『陸士同期の桜』が居たはずですから。 1912年清王朝帝の退位後 中華民国初代大統領に就いたのは、袁世凱と言って、河南項城の出で軍閥の出身です。後に自ら帝位に就こうとして失脚。ご質問の中で汪兆銘と言う名が出てきましたが、この人は日本の法政大学に学び、孫文の下で辛亥革命にも参画、後に南京国民政府の主席にもなりますが、その反共・親日的姿勢が原因で、失脚し日本に亡命し昭和19年名古屋で病死しています。この政権を傀儡政権と呼ぶのは、多分に政治的で反日的勢力、乃至は中国共産党側からの呼び名です。 後に蒋介石が全権を掌握した国民党の中にも左右の対立があり、基盤軟弱な部分を残しながらも、国民革命軍を擁して『北伐』に成功して国民党政府最高指導者として抗日戦を遂行します。日本軍の南京占領時に対日講和のチャンスがありましたが、自ら市民を殺戮してまで重慶へ遁走します。対日戦を戦ったのは蒋介石の国民党で、中国共産党は本の局地戦をゲリラ的に戦っただけですが、国民党の中に戦後八路軍(毛沢東の共産軍)に鞍替えった部隊があるために、抗日戦の主体は現共産党政権であると強調しますが、此れが現在の中国政権の最も過敏に反応する急所です。 皆さんが余り触れていない所を、2~3触れておきます。 八路軍は、日本と国民軍を激しく戦わせ、彼らの疲弊を待って中国の共産主義革命を遂行し易くすると言う戦略を持っていた(毛沢東証言)。 ロシア(当時のソ連)は、日露戦争敗戦で失った満州(遼寧、吉林、黒竜江、及び内モンゴル自治区)の権益を取り戻し、かつ中国全土を共産化することが対日戦の主眼で、広島・長崎に原爆が投下され、日本のポツダム宣言の受諾が見えてきてから、1945年8月9日に日ソ不可侵条約を一方的に破棄して、侵攻してきました。その後、火事場泥棒の如く北方領土まで奪取し、対日戦の終戦日を1945年9月4日だと勝手に称しています。ルーズベルトの慫慂があったにせよ、ソ連の蒋介石支援の意図と、対日戦参戦意図がよく判ると思います。   次にアメリカの戦略ですが、日露戦争の調停役を演じながら、その直後に日本を仮想敵国の一角に加えるよになりました。鉄道王ハリマン氏の南満州鉄道の共同経営の申し入れを、日本が無礼な態度で拒否したのが切っ掛けです。だから日米戦開戦前にハルノートを突きつけてきて、日本を挑発してきたのは、本来の世界戦略であって、『日本をして合衆国のアジアに於ける脅威ならしめざること』、即ち『大東亜共栄圏の盟主』日本などと言うことは万難を排して排除すべきである。と言う戦略です。更に対独・伊戦の宣戦布告の道案内をさせたのです。援将ルート経由での徹底した武器援助(武器は日本兵のものより優れていた)、 南京大虐殺と言う心針小棒大なプロパガンダもアメリカの広告宣・伝会社の援助に拠る、この誇張されたものを更に拡大して、東京極東裁判で使ったのは、わが国が敗戦濃厚となった時期での東京大空襲、広島・長崎への原爆投下等の民間人大量虐殺の戦時国際法違反、ポツダム宣言違反などを覆いかくす為のトリックでした。 又、1949年10月1日中華人民共和国の成立の直前、国・共内戦に敗れて、蒋介石軍は台湾に敗走。総統のまま反共復国をスローガンにするが果たせず、1975年死去、国連の中国代表(安全保障理事会常任理事国)の座も共産中国に譲らざるを得なくなり、現在に至っている。 尚、台湾で年配者の親日家が多いのは戦前の台湾総督府の統治が評判よかったこともあるが、蒋介石の白色テロに代表される弾圧・独裁政治の険悪な思い出があり、高齢島民の殆どが日本時代は良かった、と言うような比較対照と言う意味では蒋介石の功労でもあると思います。 小生の学生時代に一寸年上の台湾(彼らは中国と称していたが)からの留学生達がそう言って居たのを今思い出します。 如何でしょうか、この程度で『蒋介石』のイメージが沸いてきましたか 最後に、蒋介石の奥さん(後妻)は宋美齢と称し、宋家三姉妹の末娘、アメリカ留学帰りの超美貌、対米外交で俊腕ぶりを発揮したとの事です

参考URL:
http:///www.okwave.jp/
回答No.5

彼はただの時代の寵児、梟雄だと思ってます。自分の地位や名声、権力の為に行動していたのではないでしょうか。理想や理念が感じられません。孫文に取り入るため孫文の娘に手を出しています。戦略家としては無能だったと思います。日本軍とは全面戦争をしいられ、共産軍は力を温存する事ができました。また戦い方もえげつないやり方をしてます。日本軍に化けて同胞の中国人を虐殺して日本軍の仕業に見せ付けたりしてます。当然国民党軍の軍紀も悪く中国の人たちから支持を得られませんでした。よって日本軍を追い出しても共産軍に敗北します。毛沢東とその幹部たちに比べればたわいの無い相手だったでしょう。

回答No.4

すでに答えが出ている通り、蒋介石の国民党は反共主義ですが、面白いことに、国民党そのものは「ソビエト共産党」をモデルとしています。 特に「党は国家の上位にある組織である」という考えがそれで、蒋介石の息子、蒋経国氏(後に蒋介石の後を継いで、中華民国総統となる)は、ソ連に留学し、夫人はロシア人だったと思います。 また、国民党左派の一部は、国民党政府の台湾亡命後も大陸に残り、「民主諸党派」の1つとして、共産党に協力することを前提に、中華人民共和国建国後も存続を認められていました(今はどうか分かりませんが)。 ちょっと質問者さんを混乱させてしまったかもしれませんが、それだけ、国民党が「一枚岩」ではなかったことの証明です。

  • questman
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回答No.3

敢えて言うなら「三民主義」に基づく資本主義です。蒋介石は孫文の思想の後継者を自認しておりましたので、現在の中華民国(台湾)も同様の流れを汲みます。 とはいえ当初は容共政策を採用しており、蒋介石の息子の蒋経國(この人も台湾の総統です)は若い頃ソ連に留学していますし、経國の奥さんはロシア人です。国共合作も実施してますので一時期両者が歩み寄った時も存在したことは認識しておいて良いと思います。 また軍事的にもアメリカとナチスドイツの両方から援助をもらっていた時期もありますので、余談ですが、思うにこの頃の中国は体系的な主義や思想の対立というよりも時の為政者・権力者の心一つで動いていたと言えるのではないでしょうか。要するに自分にとって利用価値があれば敵でも手を組み、目障りになれば仲間でも討伐するような。中国が「法治」ではなく「人治」の国と言われる所以のような気がします。

noname#24295
noname#24295
回答No.1

蒋介石ですか? はっきりいえることは、資本主義・反共です。 ただ、反共だが、中国から日本を追い出してから、毛沢東と決着しよう、先ずは共通の敵を追い出そう、と言う事で、反共だが提携した、と言う事ですね。