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沖田総司について
最近、沖田総司について興味を持ち、詳しく調べています。 そこで、彼が実質上参戦した、最後の戦いはなんだったのでしょう? ネットなどで調べたのですが全く見つからなかったので…。 変な質問かもしれませんが、回答できる方がいらっしゃいましたらどうか教えてください。
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新選組一の使い手として知られる沖田総司ですが、歴史的な戦いに参加し実際に腕を奮ったのは、「池田屋事変」だけのようです。 鳥羽伏見の戦いは、肺結核が進みほとんど病床にいたため参戦していません。その他には、酒井兵庫や浅野薫など隊内の内部粛清で彼の剣は活躍していたようです。 「最後の戦いは、1867年1月7日。総司は四条大橋を永倉新八、斉藤一らと歩いていた時、十津川郷士中井床五郎と土佐藩士那須盛馬の二人とすれ違った。二人は高瀬川ほとりの浮蓮亭え酒を呑み大酔していた。総司らと肩が当った当らぬの喧嘩となり、双方抜刀して斬り合った。総司は那須の左肩と右足を斬りつけた。 新選組の人気隊士としては少し寂しい最期であるが、史実とはこんなものである」 (新選組と沖田総司)木村幸比古著 PHP新書より 以上が記録に残る彼の最期の戦いです。
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- G3shorty
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『 1863年の浪士組結成に参加して上洛、分裂後は近藤らに従い残留し、新選組を結成する。沖田の一番隊は常に重要な任務をこなし、剣豪ひしめく新選組の中でも一、二を争う程多くの人を斬ったと言われ、この時期では9月の芹沢鴨暗殺、内山彦次郎暗殺など手がけた。 64年6月の池田屋事件で、討幕派数人を切り伏せ活躍したものの、直後に肺結核により喀血して倒れる(諸説あり)とされていたが、その後の新選組史において依然として活躍していることから、この日に肺結核が発症したとは考えにくい。 病が進行して第一線で活躍することがなくなるのは1867年以降で、鳥羽伏見の戦いは参戦できず大坂に護送される。鳥羽伏見の敗戦後、隊士と共に海路江戸へ戻り、甲陽鎮撫隊に参加する(諸説あり)も中途での落伍を余儀なくされる。以後は幕臣の松本良順により千駄ヶ谷の植木屋に匿われたとされ、1868年に死去。 』 と書いてありました。 直接の回答にはなってませんね。スイマセン。
お礼
そんなことありません。 ご回答ありがとうございました。
- 345itati
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歴史上に残る出来事なら、「池田屋事件」が最後のようです。 新選組に詳しいサイトなら、こちらがおすすめでしょうか。 →http://www.bakusin.com/
お礼
おぉ、初めて見るサイトですね。 助かります。 ご回答ありがとうございました。
- nemutaiazarasi
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「最後の戦い」とはどういうのを指されるのか、ちょっとよくわからないのですが・・ 鳥羽伏見の戦いでは、すでに労咳で寝たきりに近いような状態だったらしいのではないでしょうか? ですので、それ以前の戦いになるでしょう。 でも幕末の戦は「鳥羽伏見の戦い」から始まるので、それ以前といわれると・・・
お礼
少し、自分の言い方が分かりにくかったみたいですね。 申し訳ありません。 鳥羽伏見に参戦できなった沖田は、相当無念だったでしょうね。 ご回答ありがとうございました。
お礼
ご回答ありがとうございました。 とてもスッキリしました。