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期待と現実の差

こちらのカテでいいのか分かりませんが… 幼い頃からなんですが、すごく楽しみにしていたことがことごとく潰れていきます。 例えば「明日映画を観に行く」ってことにをすごく楽しみにしていると、映画館にすらたどり着けないんです。 友達が風邪を引いた・電車が故障して動かない・車の鍵がないetc 楽しみにしていた映画の内容がつまらないとか、混んでてすごく待ったとかならいいんですが、その場所にすら到着できなかったり、約束自体がなくなったりします。 幼い頃からこの現象は収まらず、今では「楽しみにしないように、なんとなく自分を騙す」ようにして当日を迎えます。声に出して「楽しみ」なんて言えないので、大して楽しみではないことには「楽しみ」と言い、本当に楽しみなことは自分を騙し騙し、ひっそりとその日を迎えるようになってます。 ただ間が悪いだけなのでしょうか?それとも無意識に頭の中でなにかが作用しているのでしょうか?

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noname#155689
noname#155689
回答No.4

> しかし偶然が度重なると必然と思ってしまうのは私だけでしょうか? 繰り返しになりますが そこに運命や超自然的な力を見るか/否か?は 各自の価値観や信仰の領域になってしまうと思いますので 安易な回答はココでは避けるべきだと考えます。 その上で 「楽しみにしないように、なんとなく自分を騙す」ことで 癒しや心の平穏が訪れるのか?がちょっと気になった訳です。 癒しや心の平穏が訪れるのなら、自己欺瞞も悪くないよね、と 考える次第です。 偶然の蓄積の中に必然を読み込むことに 何かの意味を予感するなら、それも「アリ」だと思うんです。 ただ、もし「偶然が度重なると必然」を感じ、それが恐れや苦になっているなら 辛いかも知れませんね。 ここで突然話を変えますが 偶然の蓄積の中に必然を読み込むのは どちらかというとキリスト教やイスラム教、ユダヤ教的な態度ですね。 (キリスト教、イスラム教、ユダヤ教は同じルーツを持つ宗教ですが) 要するに全ての出来事に神の意思があると思う。 超越性を自分の外部に置くことで、生き方が強くなる人もいる。 そういう人には優れた価値観です。 これの逆が仏教ですよね。 全ての出来事(結果や形)は本質ではない。 様々な縁りあいが、たまたま瞬間的にそのような形となって見えるだけだ、と。 諸行無常、色即是空です。 物事は人間の思いとは関係なく進みます。 期待通りに進むこともあれば、その逆もあります。 それらは人間が期待する平等性とも数学的な確率とも関係なく進みます。 世界は我々のコントロールの範疇を超えています。 偶然も必然も我々人間の認識に過ぎません。 世界は我々の認識の範疇を超えて動き続けます。 我々から見れば、世界は混沌であり矛盾であり非合理なのです。 仏教はそのような諦観から出発し ポジティブな心の在り方を模索します。 期待が適わずガッカリするのは「執着(煩悩)」の成せる技です。 期待をするな、と言っているのではありません。 それでは単なるニヒリズムです。 > 前日に彼が足を捻挫し行けなくなってしまいました。 足が直ってから計画を練り直せばいいのです。 楽しみを先延ばしに出来る友人がいることありがたく思えばイイのです。 > 本賞状と比べてもいかにも即席の賞状でした。 銀賞を貰った事実は変わりません。 そのことへの喜びや感謝を忘れなければイイのです。 賞状は単なるカタチです。 何だか説教臭くなりました。 私は仏教徒ではありません。 ただ、こんな価値観もあるよ、というだけです。 運命性のようなモノに苦を感じる人には 有効な価値観だと思います。 自分にとって一番納得のいく価値観を選び取って下さい。

namu-namu
質問者

お礼

再びありがとうございます。 なるほどなぁと思いました。 根本的なところに、どの段階で満足を得られるか…ということがあるのでしょうね。 事実を事実として受け入れるか、その事柄+付加価値も必要とするのか…ということから違ってきますね。 付加価値(その日に行きたい、又は賞状が欲しい・自慢したい)という所に観点を置き、事柄よりも+αを重要視しているのだなぁと思いました。 違う観点に目を向ければ、たとえ私が出したようなことが起こっても気にも留めない、すなわちそういったハプニングがあったことすら気が付かないんでしょうね。 >癒しや心の平穏が訪れるのなら、自己欺瞞も悪くないよね 確かに。本当そうですよね。 私の中ではそう考えることがジンクス化しているのでしょう。 辛いか辛くないか…どっちかと問われたら辛いですね。出来れば素直に喜びたいし、ウキウキしたり色々考えながら準備から楽しみたい! 辛いなら止めればいい、でも怖くて止められない。。。 もし自分の考えるとおりに物事が運んでも…もしかしたら私はそのことを忘れてしまうかもしれないような気がします。自分に暗示をかけてしまっているのかな?「絶対にうまくいきっこない」って思っているのかも。 そのことに気が付かせてくれたお答えでした。ありがとうございます。

その他の回答 (4)

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.5

他の方への回答を読んで、最初に読んだとき感じた印象通りだと思いました。 あなたが不在。 どういえばいいんでしょう。 映画に行くことは、本当の目的ではない。 誰かと一緒にいるための道具ですよね。 賞状をもらい、みんなの前で自分に格付けされたことを、みんなに知ってもらいたい。 そのための道具が賞状ですよね。 常に他人を必要としなければ、あなたはまるで存在してなどいないかのような、存在する価値など無いような強迫観念にとらわれているように思えるのです。 他人を利用して自分の存在を確認する。 確かに他人に映った自分というイメージを持って、自分を確認する作業をする方法もありますが、自分が自分とは何かを自分の内面を冷静に洞察することでも、可能だと思うんです。 他人という鏡に映った<幻>を自分だと思うのではなく、肩書きとか名誉とか、誰かと一緒にいる自分という幻ではなく、生の自分を知ろうとすることに興味を持ってみてはどうでしょうか。 もちろん自分を100%理解することはできません。 でも、<誰よりも自分に興味を持つことができる>のは、自分でしかない。 一番身近な存在は、自分でしかない。 一時の喜びを他人とシェアして、まるで同一の喜びをお互い得たかのように感じるのは、所詮幻です。 やがて幻は幻ですから消えます。 すると、再度もっともっとと他人とシェアすることを望む。 それができないと苛立つ。 そしてその原因をどこかに探そうとする。 そしてこれじゃないかと納得しようとするが、確信がない。 原因は外には無いです。 中です。 そう思ってしまう自分が源です。 なのに外に探しに出かけるので、全然納得のいくものを収穫として得られないんだと思うんですね。 的外れな場所を探しても見つからないと思います。 何故自分は自分の存在価値を他人に依存するのか を考えてみてはどうでしょうか。 何故自分で自分を認めてあげようとしないのか 考えてみてはどうでしょうか。 意外なことがわかるかもしれません。

namu-namu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 皆さんにいくつか回答を頂いて、自分がだんだん剥かれていくような感じがしています。 kigurumiさんの回答を読んで、正直な気持ち「そうだよな~」と「だって…」と感じるところがありました。 納得と反発で頭の中がリサイクルマーク状態になってます^^;。 確かに、私には自信がありません。 相手に認めてもらいたい、褒めてもらいたい、好かれたいと思っている部分は強いんだと思います。 そしておそらく私は多少なりとも主導権を握りたいと思っているのかもしれない。 暴力を受けていたから?両親に「生まれてこなきゃ良かった」と言われたから?いじめられてたから? それなりの理由を挙げようと思ったら、きりがないくらいあります。けど、もういい歳(25)だし、自分で何とかできる年齢ですよね。 おそらく無意識にそれを理由に自分を可愛がっていると思います。 そして自分を可愛がる分、人にも可愛がって欲しい!というエゴかもしれません。 なのにも関わらず、自意識過剰なのかもと思いました。 「何で私の時だけ?」って思っちゃってるんです。 幼い頃の出来事や当時感じたことは、もう変えられないとして、大人になった私は色々な考えができるんですよね。 自分の思い通りに行かないことのほうが多いし、私だってしかたなく約束をキャンセルすることもあります。 もしかしたら私が作成した忘年会のリスト、誰かが抜けているかもしれないし。 そんなことにこだわるのはナンセンスだと思う自分もいれば、最初に書いた「反発」が頭を出してきます。 やはり人に評価してもらいたいと思ったり、大切にしてほしいと思ったりします。 何で私が期待していることに限って、現実は違っているんだろう…という考えが抜けません。 折角ご回答いただいたのに、やはりグルグルしていてすみません。 でも、どうやらこの質問は私のすごく深いところから出てきているんですね。 kigurumiさんのお陰で、色々吐き出すことが出来たような気がします。 記帳なご意見をありがとうございました。

noname#155689
noname#155689
回答No.3

> 楽しみにしていた事ほど、実現しない 常識的に考えれば「気のせいだよ」と諭したくなります。 でも、この世にはまだまだ常識で計れないことが沢山あります。 実は超自然的な力や運命のいたずらがあるのかも知れません。 でも、それは私たちには計り知れない領域の筈。 ここで空想や妄想ばかり広げても現実には何の役にも立たないでしょう。 現実的な対処を考えれば > 今では「楽しみにしないように自分を騙す」ようにして当日を迎えます。 それで事態は改善しましたか? 少しでも改善しているなら、対処の仕方として間違ってはいないということで 良しとしてしまってイイんじゃないでしょうか? > 無意識に頭の中でなにかが作用しているのでしょうか? 「一念、岩をも通す」と言います。 おそらく科学的には何の根拠もない、単なる慣用句なのでしょうが ここには先人の知恵があるようにも思います。 だって、本気で「明日映画を観に行く」ことを切に欲していたなら > 友達が風邪を引いた 友達がいなくたって映画は見れるでしょう? > 電車が故障して動かない タクシーで行けばいいじゃない。 あるいは、万全を期して2時間ぐらい早めに出ておけばいいじゃない。 > 車の鍵がないetc そんなの、直前に準備するからいけないんでしょう? 車の鍵がなくたって映画館に行くぐらい出来るでしょう? どうしてそんなことで諦めちゃうの? 私はそんな程度のアクシデントなら屁とも思いませんよ。 ここで挙げた事例が全てではないのでしょうが 「幼い頃からこの現象は収まらず」みたいな思い込みが 行動を消極的にしているように見えます。

namu-namu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 現実的に考えたら、頂いた回答は正論だと思います。 ただ私はもう少し違うニュアンスで質問したつもりでした。自分の文章力が乏しく正しくお伝えできずに申し訳なく思っています。 >友達が風邪を引いた・電車が故障して動かない・車の鍵がないetc 私の都合ではなく不可抗力、又は相手の事情で潰れてしまうことが多いんです。 また映画を観ることが目的ではなく、一緒に行く人間関係・環境も含めて楽しみにしているということです。 「映画を見に行きたい」という例がそもそもおかしかったのかもしれませんね、安易過ぎたかもしれません。 実際の話をいくつか。 (1)彼と初めて旅行に行くことになりました。準備もバッチリ、下調べもバッチリ、数週間前からどこどこに一緒にいこうとか、ご飯はここで食べようとか、色々考えてすっごく楽しみにしていました。 そしたら前日に彼が足を捻挫し行けなくなってしまいました。 (2)小学校の頃、校内の絵画大会で銀賞をもらいました。両親に自慢し、近所の人にも自慢していました。 私の姉はすごく絵がうまく、一度も勝った事がなかったのでそれはもう嬉しかったです。その賞は全校集会でみんなの前で発表されるのです。すごく楽しみでした。 当日、先生の手違いで私の名前は呼んでもらえませんでした。もちろん賞状もなしです。 その後担任から簡易の賞状が手渡されました。本賞状と比べてもいかにも即席の賞状でした。 そんなことが続いてます。 思い込み…確かにあると思います。たまたまの偶然の可能性のほうが大きいでしょうね。 しかし偶然が度重なると必然と思ってしまうのは私だけでしょうか? 長々と失礼いたしました。

  • daigyo
  • ベストアンサー率28% (9/32)
回答No.2

 お話をうかがっていて気づいたことがあります。期待にも色々あるということ。  「裏切られた」という場合の期待の多くは、実現の可能性をほとんど予測せずに実現を願っているケースだと思います。「期待」というより「夢想」と言い換えた方がいいかもしれないです。  あるいは実現の不可能性をまったく予測していないという場合もありますね。これは思考が短絡的で幼児性を残しながらの期待ということになります。  いずれにせよ、期待とは、一般的には実現可能性を半分以下と見込んで抱くものと私は考えています。とすれば、期待の多くは実現しないわけですから、もともと「裏切られる」と落胆するものではない。むしろなかなか実現しないものだからこそ闘志を抱いて立ち向かえるのかと思うのですが。

namu-namu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私の書き方が間違えていたのかもしれません。伝わりづらくて申し訳ありませんでした。 「期待」…そうですね、私も回答者様と同じような意味だと認識しています。 そうなってほしいと言う願望、希望、現実的には不可能なことへの自分のエゴ…そういった意味も含まれると思います。 例えば“「あの人と付き合えるかも」と思っていたけど振られた”と言う場合は『期待』していたのに『外れた・裏切られた』という形になるでしょうね。 私の場合は「楽しみにしていた事ほど、実現しない」ということです。 題に『期待と現実の差』と表記し、誤解を招いてしまって申し訳ありませんでした。

回答No.1

まず、実際に本当に潰れているのか?ということを考えてみます。 これは観念で進めるより実証的に捕らえるほうが明快でしょう。 後で「そういえば、あれもこれも」と考察することだけに頼ると、客観性が損なわれる恐れがあります。 例えば、計画を建てるごとに前もって重要度と困難度のランク付けをして一覧表にしておき達成の結果を記入して考察してみると本当にその傾向があるのか検証できるでしょう。 案外そうでもなかったり、重要なことが困難なことに偏っているかもしれません。 >幼い頃からこの現象は収まらず、今では「楽しみにしないように、なんとなく自分を騙す」ようにして当日を迎えます。声に出して「楽しみ」なんて言えないので、大して楽しみではないことには「楽しみ」と言い、本当に楽しみなことは自分を騙し騙し、ひっそりとその日を迎えるようになってます。 この部分は少々強迫観念的な傾向もあるかもしれません。 私自身幼少時から神経症的性格があり、今でもその名残はありますが、学生時代にほぼ克服しコントロール可能になりました。 その方法のひとつが「本当にそうなのか」と確かめる姿勢です。 これは一方で学問的取り組みのエネルギーとしてプラスになりました。 幼少から少し間の悪い方なのかもしれませんね。 しかし、そうだとしてもその原因があるはずです。 私なりに質問の現象の原因を想像してみました。 あくまで参考にして実際には、自ら実証的に考察されることをお薦めします。 (1)実現しなかった印象が強く、客観的にはそういう傾向がない。 (2)期待の強いものが、実現困難な事が多かった。 (3)計画や約束の時点で、潰れやすい対応をとっている。(例えば相手に「無理をしなくてもいいよ」と思わせるような約束の仕方をしている) (4)少し病的になりますが、  自ら実現しないように行動している(無意識に「ほら、やっぱり潰れた」ということを確かめたがっている) 文面から想像したことを少し羅列してみました。 切迫観念は普通にあることです。 スポーツ選手が担ぐ「縁起」、ジンクスもその一つです。 バッターが右足から踏み出してボックスに入ったら、ヒットが多いと信じていたり、その人がその前に靴紐を結びなおしてから右足を踏み出してボックスに入ったとき満塁ホームランを打ったら、その次から靴紐も「儀式」に加えるなど・・・・。 「儀式」のやたら多いスポーツ選手はたくさん知っていますよ。 くれぐれも実証的に、客観的に考察されますように。 守護霊とか訳のわからないところに帰着されませんように。

namu-namu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 原因として挙げて頂いた(3)潰れやすい対応を取っている…当てはまります。 簡単な用事の場合は、約束の打ち合わせも簡素に済みますしメールで簡潔に終わりますが、楽しみにしている場合はその話題が増えるし、なんと言っても「無理しないでね」は私の口癖なので自然に出ていたのでしょうね。 「楽しみにする→潰れる」の方程式が成り立ってしまっていたので、自然とこういった言葉が生まれていていたのかもしれません。ただ、これを連発することにより、自分で潰れる原因を作っていたのかもしれませんね。 強迫観念…おそらく強いほうだと思います。 自分を把握できていないので、どうしていいのか分からなくなるときがあります。 幼少の頃などは、ことごとく自分が思ったことの反対の出来事が起こるので『自分は魔女なのかもしれない・負の存在なのかもしれない』と本気で悩んだこともありました。(家庭環境もあると思いますが) 今もその名残が顔を出すこともあります。 >守護霊とか~ ご心配頂いてありがとうございます。 霊的な何かに対しては人並みです。その代り人間の使われていない脳の働きや、潜在意識などについては興味があります。それでも自分の中で考えているだけなので、道を外れることはなさそうです。 長々と失礼致しました。ありがとうございます。

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