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日本史上の武家の妻たちの役割とは?
NHKの大河ドラマなどをみていて思うのですが、いわゆる戦国武将や武家の妻達についてふと思いました。 今では「妻」といえば料理洗濯炊事などの家事に加えて子育てなどをし、「家庭を守る」という重要な役割を担っていますが、歴史上の武家の妻達って、そういったものを全て飯炊き女や乳母にまかせっきりで、夜伽以外は、正直言ってなんにもしてない気がします。 彼女たちは何をもって「妻の役割」としていたのでしょうか? 後継ぎを産み、側室を管理することだけだったのでしょうか? 教えて下さい。
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私は、下級武士の女房であれば、現代のサラリーマンの専業主婦よりは、はるかに大変という印象を持っていますが、お話が戦国武将や大名の妻ということですので、現代の奥さん方との比較はなかなか難しいですね。でも大名の奥さんも、それなりに大変だったんじゃないでしょうか。 皆さんがおっしゃっていますように、大名の妻達はほとんど100%政略結婚により、無理やり嫁に行かされました。亭主になる男がどんな人間であるか全くわからないわけですから、大変な不安と心労を胸に抱えて嫁入りしたのだと思います。 戦国大名の妻ですと、両家の同盟の証として嫁入りしました。嫁としてはその同盟を崩れないようにするために、ない知恵と力を出していろいろ気配りをしたんではないでしょうか。 人質ですから両家が離反すれば、自分の命はもちろん、子供や夫、または実家の父母や兄弟の命が危うくなるわけですから、その気苦労は相当なものであっただろうと想像できます。 それから江戸時代になって世の中が落ち着いても、政略結婚は続いていました。嫁ぎ先と実家との戦争ということはなくなりましたが、今度は参勤交代の制度ができ、正妻はと家族は江戸住まいとなり、これも幕府への人質といえるでしょう。 大名の妻がテレビドラマの山内一豊の妻のような性格の人ばかりとは限りません。多くは乳母や女中にかしづかれていた深窓のお姫様です。対人コミュニケーションは上手であったとは思えません。お千代さんのような前裁きが上手な人はむしろ少なかったと思いますね。 嫁入りのときは乳母や少数の家来が実家から付けられていたとはいえ、大名家の裏方を統率していくことにはそれなりの気苦労があったと思います。また当時は当たり前であったとはいえ、側室の問題から発生する嫉妬心の処理にも困ったことでしょう。 そういうことで、大名の妻は現代サラリーマンの専業主婦よりは大変であったと思います。 今のサラリーマンの専業主婦なんて楽なもんです。 一昔前の主婦は大変でした。朝早く起きて、井戸から水を汲んで水がめに水を入れ、竈に薪をくべて飯を炊き、汁を作り、井戸端で盥と洗濯板で衣類を洗い・・・。こういうイヤミなことをしょっちゅういうもんだから、家内に嫌がられていますが(笑)。
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大名になってから迎える妻というのは、#2さんの言うように外交官であり人質ということになります。 例えば真田信幸の妻の小松姫は徳川4天王の本多忠勝の長女に生まれ、家康の養女として真田家に嫁ぎます。 太閤秀吉の意向は、舅の真田昌幸を通してのものと、5大老筆頭の家康を通してのものがあり、小松姫は義父である家康からの情報を速くするよう求めたという逸話もあります。 大名の奥方は実家と嫁ぎ先が戦になれば子供を置いて離縁されるのが一般ですから、そうならないように勤め、共に発展するのが理想ですが、場合によっては実家に情報を送って、夫を攻めるように薦めるということもあったようです。 例えば伊達政宗の母親の義姫は正宗とは仇敵で、息子が実家の最上家を攻めたことに立腹して、正宗に毒をもって殺そうとしたり、いろいろ画策し、この母子は和解することなく終わっています。(性格が似てるので、近親憎悪というファクターも多いですけど) 一方、大河ドラマの妻たちはいずれも軽輩の時に一緒になりましたから、こういう意識は無く、夫の立身と共に実家の運も開けるようにする程度と思います。 正室になれば跡継ぎの育成も大切で、実子が無くても養子を迎え、自分の子供として育てるのが武家の習いで、秀吉も淀の最初の子供の鶴松はそうしたようですが、秀頼は側室の淀がそのまま育てたので豊臣家の崩壊に繋がったという説もあります。 子供の無い正室は、自分の妹や姪、召し使う侍女など自分の息のかかった女性を夫にあてがい、生まれた子供を自分の子として育てる、そういうものだったようです。
お礼
詳しい事例で、びっくりしました。 なんだか夫婦というと一心同体と考えてしまうのですが(私がまだ未婚で夢見がちなのかも)、人質だったり外交手段だったり、心から信用できる相手とは限らないのですね。 上杉謙信は当時には珍しく母と姉の深い愛情に恵まれていたから、妻という女を必要としなかった、という説を挙げている人がいますが、そういう背景があったのかもしれませんね。 大変参考になりました。ありがとうございました。
おねさん、おまつさん、おちよさん、という、賢夫人を見ますと、名マネージャーであり、留守宅の主人代行人であり、夫の晴れ舞台を演出する、名プロジューサーかと、思います。 飯炊き女にまかせっきりとは、言えないと思います。 メニューの組み立て、指定は、するでしょう。 育児は、しなくても教育は、したでしょう。 上記の奥方も、夫の芽の出ない時期は、家事一切をしていたはずです。 おまつさんも10人からの子どもを生み育てている最中は、利家などは、冷や飯食いの時だったと思います。 子どもを生んでいないおねさんも、生きのいい若者を何人も預かって、大変だたっと思いますよ。 こまねずみのように、働いているときも、奥方として、構えていなければならないときも、「自分がいなければ、夫が困る」くらいの自尊心は、あったと思います。
お礼
名プロデューサーというのは、なるほど、と思いました。 人間関係を円滑にのりこえられる気質もだいじだったのかもしれませんね。 今の政治家の妻達ってかんじかな?家事よりも夫が出世するためにうまくたちまわる。。そう考えると家事って確かに誰でもできますものね。正室って大変だなあ。。。! 参考になりました。ありがとうございました!
- tanuki4u
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実家と嫁ぎ先の「外交官」である。 という表現をされていた歴史家がおりました。 大名レベルでの話ですが、身一つで嫁いでくるわけではなく、それなりの家来を連れてきているわけです。 前田家出身で、秀吉の養女として宇喜多家に嫁いだ豪姫の場合、豪姫について宇喜多家に入った家来が、宇喜多家の実権を握りました。それで 在来の宇喜多家の家来との一悶着ありましたが。
お礼
嫁入りのときに家来も多くつれていったのですね! それじゃあ派閥争いみたいなことはありますよね。今の政治家ような「うまい人間関係のたちまわり」が当時の妻の役割だったのかもしれませんね。 だとすると家事より大変かも。。と少しわかりました。 ありがとうございました。
- milky0204
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1) 京都の公家の娘が、大名や将軍家に嫁ぐ場合 夫の方が、高貴な血筋が欲しかったことや、 高貴な家柄と縁続きになることがステイタスだったりしたためだと思います。 逆に公家のお姫様は嫌々嫁ぐというパターンが多かったみたいですね。 公家は名ばかりで、貧しかったので、金銭的な援助が欲しかったということもあったと思います。 実際は、公家のお姫様は、体が弱かったり、かたわだったりということが多く、「夫婦」というのは名前だけということも多かったみたいです。 2)人質 娘を嫁がせることで、相手に家に「逆らいません」という証にしたということもあると思います。 逆もあると思います。「嫁にもらう」ことで、相手への服従の意思を示すという場合も。。。 どちらにしても大名家同士の敵対・裏切りを防ぐためという意味があったと思います。 武家でも公家でも、身分の高いところに生まれた女性は、自分の好き嫌いで結婚は出来ないものですから、最初から「政略結婚」の道具ということは納得していたと思います。 それでも「仲がよかった夫婦」もいたし、逆に名だけの夫婦もいたのですから、やはり最終的にはお互いの相性も合ったかもしれませんね。 いくら政略結婚といっても人間ですから。。
お礼
なるほど。。今の価値観だとつい妻とは生活をつかさどるものと考えてしまいがちですが、そもそもその時代の妻がつかさどるものが人質としての外交だったり、高貴な血というシンボルだったわけですね。。 回答ありがとうございました。
お礼
なるほどー。気苦労という点では、確かに今の主婦は一夫一婦制に守られているし、好きなひとと結婚できるので気楽かもしれません。 そう考えると「好きな人と結婚」するんだから、離婚が多くなるのは当たり前ですね!?(^^;) 人間関係の処理がうまい機微にとんだ人が妻として重宝されたかもです。 私みたいに「人付き合いは苦手~」なんて言ってたら夫の身もこどもの身も危ないわけで、そういう意味では気苦労の大変さが少しでもわかります。 とてもよくわかりました。ありがとうございました!