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田辺与力について
田辺与力は幕末に紀州藩士から安藤家の家臣に支配替えを命じられたのを拒んだとのことですが、それまでは、田辺においてはどのような地位で、どういう職務に就いていたのでしょうか? 紀州藩士の身分だけど、実質的な職務は安藤家の家政に携わっていたのでしょうか。
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彼らの先祖は勇猛で鳴らした横須賀党であると伝えられています。 紀州本藩から与力(助っ人、今で言うと出向かな)として、頼宣附家老として有名な安藤家に配属されたわけですが、彼らの具体的な仕事の内容は詳しくはわかりません。 大名には軍役というものがあります。石高何万石につき何人の戦闘要員が必要であるというものです。平時は行政に携わります。 当初人員不足の安藤家に対し、出向の形で貸し与え、体裁を整える形式であったと思われますが、本藩のお目付け役の可能性もあったと推測されます。 田辺ではとくに役も与えられず、しかし紀州の殿様の直臣ということでプライドも高く、田辺では浮いた存在ではなかったでしょうか。 彼らは安藤家に横暴ありとして、本藩に訴え出たということもあったと聞いています。 このようなことが、後のご指摘の騒動の遠因になっていたのではと、推測されます。
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NO.1です。蛇足です。 武家社会の侍階級の仕事量というものは、今の会社員と違って少なかったんじゃないかと思いますね。侍は本来は軍人であるということもありますが(しかし幕末の旗本8万騎は少しも役に立たなかった)、幕府の旗本でも、寄合席とか小普請組とか仕事をロクにしていない連中が居たり、また役付でも出勤午前10時退庁午後2時というようなことだったらしいです。 田辺与力にどうしてもやってもらわなきゃならないほどの仕事量もなく、また彼らにやらせたら余計なことまでやってしまう恐れもあり、 >安藤家としては扱い辛い存在だったのかもしれませんね。・・・ということだと推測します。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 太平の世だと、特に与力がやることもなかったのでしょうね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 幕府の番方のように、平時ではさしたる職務はなかったのでしょうか。 安藤家としては扱い辛い存在だったのかもしれませんね。