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霊は人間の恐怖心が作り出した虚像なのに
なんで(信じている方は)信じているのでしょうか。 ○なぜ霊は夜ばかりに出るのですか(最近のホラーは昼もお構いなしですが^^;)。夜になるまで待っているんですか。どこで待ってるんですか。 ○江戸時代に見られた霊(うらめしや~とか言って出るやつ)が、最近見られないのはなぜですか。霊も時代によって変わるのですか。 ○縄文時代に死んだ人の霊はもう出ないのですか。霊はいつまで出ていて、いつになったら活動をやめるんですか。 ○ドイツ人やマサイ族の霊は日本に現れないのですか。 ○ボケて死んだ老人の霊は死んでもボケたままですか。 ○猫の怨霊や、犬神など、身近な動物の霊はいますが、キリンやマントヒヒの霊がいない(見られない)のはなぜですか。同様に、ミジンコの例がいないのはなぜですか。 上記を鑑みるに、霊というのは人間の心理が作り上げた産物であるのに、それでも霊を信じていらっしゃる根拠はどこにあるのか、お伺いしたいです。 暗闇の恐怖や、死への恐怖、畏怖の影響だと思いますが。。
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はじめまして。 私は、信じるほうです。 虚像なのに信じる、虚像だから信じない、ということではないような気がしています。信じる/信じないというのは、それぞれの育った環境や経験や考え方や資質に大きく影響されると思うので、そういったことの違いが、信じる/信じない要因なのではないでしょうか。 山があると思えば山はある、ないと思えば山はない。そういう類のものでしょう。 ついでに言えば、信じている人の脳と信じていない人の脳は、同規格ではありますが基本的に性能も機能も用途も別モノなので、他人の脳の中を簡単に否定することは難しいのかな、と。その脳だから見れるんだろうし、その脳だから信じるのでしょう。 この辺のところは、先に回答された方へのお礼欄を読むに、ご理解されていると感じていますが、念のため。 実際に弟が小さい頃にちょいちょい霊のようなものを見ていたようです。私自身も大学生の頃に、一度だけ見たことがあります。錯覚という見方もできますが、私自身にとっては現実です。悪意はなさそうでしたが、本当に怖かった…。 ちなみに見る前から存在を信じていました。 「信じるほうが自然だから」というのが私の理由としてはぴったりしています。根拠というほどの確たるものをもっているわけではないけど、霊は存在すると思ったほうが生きやすいです。 個人的には「チャンネルが合うと見える」のかな、という感覚でいます。 その人が受け取れる周波数帯と合うものが見えるのでしょう。 受け取り方も音声のみ/モノクロ/ノイズ入り、なんて状態もあれば、体調によって/特定の場所で/手順を踏んで、といったキーの存在もあるでしょうし。見れる霊も、動物霊や親戚筋限定、その土地に関係の強い霊、人につく守護霊といった感じで、対象にチャンネルが合う/合わないということがあるかも知れません。 京極夏彦の小説に、見えないものが見える登場人物がいて、確かそれは他人の頭の中や物の中にある記憶から漏れた情報が「視える」のだと、説明されていました。まぁ、そういうハイパーな能力の一端であるという説明もできますね。 もう一つ。 個人的な仮説ですが、霊とは相互のかかわりの中で認識・認知されるものだとすれば、かかわりのない(少ない)ものは、チャンネルが合いにくいのではないか、という気がします。 都会では人が多すぎて、道行く人がモノに見えるときがあるのではないでしょうか。そういう半ばモノと化した人と自分の身近な人とでは、かかわりの深さが全然違うというか。もし自分に霊を感じる能力が合ったとしても、やはり知り合いのほうが感度が上がる気がするのですが…。同様に、相互作用的な関わりができる動物(イヌやネコ)の方がアリや金魚といった関わりが一方的になりがちな動物よりもチャンネルが合いやすいのではないでしょうか。 一般に、安定して周波数帯が広い方や分析能が高い方が、職業霊能者になれるというか。 以上のことを踏まえると、チャンネルと関係性の観点から、ご質問の項目は大体説明できるかなと思うのですが、いかがでしょう? まぁ養老孟司がダーウィニズムについて述べているように、こういう反証しにくい理屈は科学的には簡単に否定できないものでして。我々は推測でいくらでも語れるわけですが、見えていない人が語ることなんて、500年後の未来について語るくらい不確実なことです。議論の前提として、見えない方がどんな理屈をこねても、見える方の正確な感じ方には近づけないことは認めなければなりませんね。その意味では、様々な見える方がいますが…マイノリティである見える方の表現に、我々見えない人たちは少し謙虚でありたいなと思っています。 その方がいろいろな意味で楽しめる、ということもありますし。 先天的に(光のオン/オフも認知できない程度の)視覚障害をお持ちの方に、赤と緑と黄色の見え方について説明することに、少し似ているかも知れません。まして緑と黄緑と深緑を上手に使い分けた、新緑の森を描いた絵と南の島の珊瑚礁を描いた絵の違いを、どう説明するのか、同じ風景でも写真と絵の質感の違いをどう分かるように説明するのか…なんて感じでしょうか。言葉で伝わる情報なんて、大した事ないものです。 また、語彙の発達とも関連があるかもしれません。中学校時代の教科書にあったのですが、あるエスキモーの部族には、雪の状態を表す数十の語彙があるとのこと。我々にはせいぜい10個ほど。これは生活における必然性による語彙発達の違いによりますが、それだけ雪に対する我々日本人の識別/認知能力が甘いこともあります。霊を見たとして、それを適切に言語化するだけの語彙が日本語に備わっているかというのも、考慮する必要があるかも知れませんね。 参考までに。 「私が見たのは大学の研究室で、テレビの方を向いて座っていた、知らないおじいさんでした。寝起きだったので周囲の風景はぼやけていたのですが、おじいさんだけは青白く光っていて、はっきり見えました。後ろのキャビネットが透けて見えていたので、あぁこりゃ見ちゃった、と。その後すーっと上に浮かびながら消えていったので、実害はなく悪意もなさそうでした。でも怖くて怖くて、それから夜にはその部屋に入れなくなりました。」 …私の語彙・認知能力ではこんなもんです。書いてみると陳腐で錯覚くさいのですが、今でも本物だと思っています。信じない人には寝ぼけたんだろって言われるでしょう。もっと見える人が同じ場所にいたら、この人は○○さんで○○な人で○○と言ってますとか、そういうことになるのかなと。 あとは蛇足です。 まぁ質問者の方がお礼で書かれているように、霊の「実在を云々」するよりも、文化的社会的機能として考える方が理解しやすいし面白いかも知れませんね。 霊魂の存在を意識することは、死してなおご先祖さまへ敬意を払いご先祖様との関係をもち続ける効果があります。先祖の名を汚さないように、とか、ご先祖様に恥ずかしくないように、とかいう言い方を昔の方は言っていたかと思います。自分の行いは自分一人だけの責任で済むではない、というモラルを語る上で、死者の霊が存在するという考え方は非常に有効ですし、死者の霊とともにあるというのはムラ社会のコミュニティの結束を高める効果もあったでしょう。なんたって、自分一人の一存(ワガママ)で死者の霊をどうこうすることはできないでしょうし、日々の供養や年中行事を行うことはコミュニティ維持にも効果的でしょう。 また、現世界で物質的に恵まれていない人々がモラルを維持する手段としても、霊魂や天国や地獄、輪廻転生という考え方は非常に効果的です。日々の些細なことに感謝できる、ささやかな暮らしは、より大きなものの実在を信じることに支えられてより強いものになるのかな、と思います。 これだけ効用があれば信じるに足りるというのが、私の立場です。 逆に言えば、神も霊魂も「科学的根拠」の名のもとに(反証可能性を含む、とかいった本当に科学的な視点ではない擬似科学的な視点で)簡単に肯定/否定し、徹底的にワイドショー化・パロディー化して地位を貶めてきた現代の世俗文化の広がりからか、最近は迷い悩む方が多いのではなかろうか、と感じています。うつ病の方、リストカットする方、引きこもる方、人を信じられない方などなど(高度情報化や都会化もかなり重要な要素ですが、これらと文化の発達は同期するもので切り分けられないものと考えています)。自分自身や目に見えるものしか信じられないから、しんどくなるのであって…昔だったらお寺や神社や教会なんかで生き方や進むべき道を示してもらえて、ある意味考えずに済んでラクチンだったのでしょうが。 ちなみに。 ある方が語っていましたが、「不思議」というのは、なぜだろうと「思案しても議論してもいけない(不)もの」なんだそうです。だから不思議なんだって。 存在の是非を問わずに上手に利用する…昔の人の方が賢く生きていたのかもしれません。 色々思うところを吐き出したおかげで、だらだらと長くなりました。 駄文失礼します。
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- crow2222
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大変面白い視点の質問ですね 今迄調べなかった内容ですので調べてみますね Q.なぜ霊は夜ばかりに出るのですか(最近のホラーは昼もお構いなしですが^^;)。夜になるまで待っているんですか。どこで待ってるんですか A.これは夜の方が人の感覚が研ぎ澄まされやすい為 見つけやすいのですね 別に霊側にとっては昼夜関係無いみたい Q.江戸時代に見られた霊(うらめしや~とか言って出るやつ)が、最近見られないのはなぜですか。霊も時代によって変わるのですか。 A.えっ(・.・?) 今でも沢山おいでになってますよ Q.縄文時代に死んだ人の霊はもう出ないのですか。霊はいつまで出ていて、いつになったら活動をやめるんですか。 A.霊の定義が今イチ曖昧なんだけど 基本的には魂と認識しなくちゃいけない 一般的に霊界にいる魂を霊と呼んでいて 神界(6次元以上)に入った魂を神と呼ぶ!だから神界に入れば元人間でも神様 因に幽界(死後49日前後までの世界)と霊界の狭間に落ちた魂を幽霊って言うだよね で 質問の解答なんだけど どの世界にいる魂かによって存在出来る限界が変わってくるのですよ もし幽霊さんだったら限界は900年(後に自動的に霊界に回収されちゃう) だから縄文時代の幽霊はいません Q.ドイツ人やマサイ族の霊は日本に現れないのですか。 A.マサイ族様はおいでになってますね しかし何故かドイツで無くなられたドイツ人の霊はおられませんね 不思議ですね 第二次世界大戦の同盟国なのに!なにか確執があるのでしょうか? Q.ボケて死んだ老人の霊は死んでもボケたままですか。 A.いいえ しっかりしておられます Q.猫の怨霊や、犬神など、身近な動物の霊はいますが、キリンやマントヒヒの霊がいない(見られない)のはなぜですか。同様に、ミジンコの例がいないのはなぜですか。 A.キリンやマントヒヒの霊もいますよ ただ日本では絶対量が少ないですからなかなか出会いませんね ミジンコはミジンコのみの霊界というシステムではないので見かける事はありませんね 我々人間の霊界とは違って地球で発生したグループソウルですから! 以上です 何を根拠にして解答しているかは聞かないで下さいね 説明が困難ですから 戯言と思われるのならマル無視しちゃって下さい
お礼
ご回答感謝します。御礼が遅くなってすみません! 戯言なんて思っていません。 信じてる方の中で、一番具体的回答をくださり、なるほどと思いました。 幽界(死後49日前後までの世界)と霊界の狭間に落ちてしまうのはなぜなんでしょうか。。死に切れない、ってやつでしょうか。 crow2222様は専門家と言うことは、霊媒師か何か、霊ご関係の方でしょうか。 詳しいご説明とても感謝いたします。 ありがとうございました!
- kohsuper
- ベストアンサー率8% (7/82)
簡単に言うと昔話・おとぎ話・宗教・昔からのいい伝えなど現代に伝わって今でも信じている人もいるってことかな。霊がいるかいないかは個人の「言論・思想・発想」自由だと思います。このての特番テレビで誰か言ってたような気がします。
お礼
ご回答感謝します。御礼が遅くなってすみません! >個人の「言論・思想・発想」自由 もちろんですね!否定するつもりなど毛頭ないです。 昔話は、民俗学の視点から見ると、本当に興味深いですよ! ありがとうございました。
- MDLDM0110
- ベストアンサー率40% (4/10)
「運」等と同じものかと思います。 運なんてものが本当に存在するのかすら定かではありませんが、 物理的な構成要素が判明していなくても、ある種の法則性がこの世に存在すると仮定しているのでしょう。 脳内でこの複雑な世の中の情報を処理する上で、仮定した法則に纏わる世の中の部分を別括りにして、 世の中全体把握の計算を楽にしているのではないかと思います。 「霊」を法則なり存在なりで定義して、複雑怪奇なこの世の脳内レンダリングを楽にする場合、 注目されるべき点は、「霊ではない」世界のほうかと思います。 その時代・文化により「霊」の占有する範囲は異なりますが、 それはそれぞれの現代社会から反映されたものと思います。 「霊」の定義は人それぞれですが、その定義によって、その人の持つ「実生活」が綺麗に浮き彫りになるような気がします。 「怖いもの」を無意識に実生活から切り離して考える人にとって、霊は怖いものかもしれません。 哲学的にも物理学的にも解明されていない「この世の成り立ち」に納得がいかない人にとって、霊は人の存在の大前提なのかもしれません。 その人達は、納得の行く交流や事の流れを実生活では重んじるかもしれません。 虚像の定義を普遍的なものにするということは、我々の生活や社会が、誰にとっても普遍的な内容で存在するということで、無理なことだと思います。 言い方を変えると、今のままの世界観で、他人の言う霊の定義を鵜呑みにすることは、できません。今の世界観に見合った、霊の定義があるはずです。
お礼
ご回答感謝いたします!御礼が遅くなってすみません。 宗教的な観点から出ない、霊へのアプローチ(?)、大変興味深く拝見しました。複雑系、カオス理論などは霊の研究なんかしてないのかな? >今の世界観に見合った、霊の定義があるはずです。 そうですよね!妙に納得いたしました。 ありがとうございました。
私は幽霊を信じることができないタイプの人間です。 でも否定しない派です。 私が思うには人間は見たものは信じるのでしょうが人から聞いたものも信じるのではないかと思うのです。 でも人から聞いたことはその相手の信頼性で情報を取り分けるのでしょうがもともと人間の記憶ってものは物凄く曖昧なもので変な人から聞いたことでも印象に残っていれば覚えているのでしょうがその情報の発信元は覚えていないなんてことが良くあると思うのです。 霊って多くは肉親(信頼のおける発信元)の「お化けが出るよ」なんて話で覚えたりするのでしょうが、その時は信じていて、信じていれば目の錯覚も幽霊になり得る(目の錯覚と疑わない)と思います。 それが続けば見ているから永遠に幽霊を信じていることができるのだと思います。 実際に幽霊を信じていなかった人が大人になって幽霊を見て信じるようになったってことはあまり聞かないように感じます。 これは幽霊がいないのが自然な考えに感じられて万が一にも本物であったとしても目の錯覚として処理するのではないかと思います。 逆に子供の頃の体験で幽霊を見て大人になって見なくなったって話はよく聞きますね。 これは幽霊がいる事が不自然な考え方と認識していない頃は幽霊を受け入れることができるように感じます。 何かしら必要があって幽霊というものを人は作り出しているのでしょうが多少宗教も関係するのではないかと思ったりもしますね。 でも、幽霊を見て救われるって話はあまり聞かないです。 幽霊とは別に天国、地獄、死後の世界、魂に救いを求めていてこれらは幽霊とは印象が違うように感じます。
お礼
ご回答感謝いたします!御礼が遅くなってすみません。 子供の頃の霊体験が、それ以降の霊に対する考えを決める、、、これは確かかもしれませんね! 霊感が強かった友人は、いまだに部屋の中で「この辺に何かいて空気が冷たい」とか言いますし。 私は霊どころか、こっくりさんも反応せず、金縛りにもあわず、肝試しもバカらしいとずっと思っていたので、それが固定観念で霊が見えないんだと思います。 ありがとうございました!
- taue
- ベストアンサー率0% (0/1)
質問者さんがおっしゃってる「霊」というのは、一般的に言う「幽霊」と解釈して書きます。 「幽霊」とは幽界に存在する霊です。 ○なぜ霊は夜ばかりに出るのですか(最近のホラーは昼もお構いなしですが^^;)。夜になるまで待っているんですか。どこで待ってるんですか。 夜になると出る・・というのは、人間の造作話としておもしろい(恐怖心を煽る)からであって、昼夜問わず居ます。いつでもどこにでも居るので、出るとかどこで待つと言う表現はありません。ただ人間の世界と同じく昼は眠ってて何処に居るかわからないような人(その人でもやはり昼間でも存在してます)が夜を好まれて夜に集られるよな場合があるように、霊の世界でも同じような波長の霊は同じような時間帯・場所に集ります。 ○江戸時代に見られた霊(うらめしや~とか言って出るやつ)が、最近見られないのはなぜですか。霊も時代によって変わるのですか。 うらめしや~は多分に人間が創造した世界や物語であって、その事を覚えている霊が「うらめしや~」と語る場合はあります。その時その時代の言葉を使います。 霊の世界も人間の世界と同じく時代によって変ります。霊の世界が人間の世界に映り、人間の世界の歪んだ想念が幽界という別の世界に映り、それが人間の世界に映る為、幽界の世界に長く居る「うらめしや~」の霊も時代の変化と共に自らを悟り、行くべき世界へ行けば古い霊も少なくなる為「最近見られない」と感じます。ただ霊の世界に居るとずっと同じ想念なので(飛び降り自殺の霊が何回も同じ所で飛び降り自殺を繰り返すのも死んだ時の想念がそのままだからです)、なかなか現実の人間のように気付いたり悟ったりが出来ない為、苦しい想念のままの霊は助けを求めてきて、昔の霊でも想念が強い、または死後まだ時間が浅く人間に近い状態等の時に、出会うと幽霊となって見えるわけです。 ○縄文時代に死んだ人の霊はもう出ないのですか。霊はいつまで出ていて、いつになったら活動をやめるんですか。 死の概念や執着が今の時代と違い、死とは自然なものと受取っていた時代の方々は幽霊として残りません。 文明が発達し知識が付き、死への恐怖心が残る時代になった頃から霊も留まるようになりました。活動をやめるのは霊自身の恐怖や執着が無くなり自らの死を悟り受け入れるようになると幽霊としての活動も無くなります。 ○ドイツ人やマサイ族の霊は日本に現れないのですか。 生きていた時の思念の強い場所に留まる事が多い為、ドイツ人ならドイツという場所に多くなりますが、生前、日本をよく訪ねられた霊などは日本に来る事もあります。生きてる人間と違い、想念の中で生きている霊にはドイツから日本への距離や時間は関係ありません。 ○ボケて死んだ老人の霊は死んでもボケたままですか。 死んだ時の想念がそのまま残りますので、ボケたまま何かに執着を持って死んだ老人はボケたまま霊として存在しますが、生前ボケる事により、執着自体が薄れている場合もありますので、そのまま幽霊にならない場合も多いです。ボケがひどくなるという事は、食べる事はおろか、人に助けを求めたり、恨んだりという事すら忘れてしまいますから。何らかの執着の強い方や自己中心的な方はちゃんと光の世界に帰れるようにボケる事により強制的に執着が取れる・・・という場合もあります。 ○猫の怨霊や、犬神など、身近な動物の霊はいますが、キリンやマントヒヒの霊がいない(見られない)のはなぜですか。同様に、ミジンコの例がいないのはなぜですか。 猫や犬などは人間に飼われている数が多く、また人間に近い動物として生まれてきている為、猫や犬が霊になって人間に憑いた時、その人間の想念を読み取ってある程度理解したり、人間の言葉が話せます。狐や狸なども同様です。先ほどのドイツ人の場合も日本人の想念を借りて日本語で話も出来ます。生きている人間の場合は語学を勉強したり、翻訳機を使うなどしないと、国や世界が違うと大変苦労しますが、霊の場合、霊自身が翻訳機になるようなもので、想念の世界ですから先ほどの距離や時間、言語、等は人間の世界とは違った感覚・概念です。 他人の家のキッチンに行って、普段使う包丁や鍋や火加減とは違うのでいつものようには完璧な料理は出来なくても、ある程度ちゃんと食べれる料理は作れます。それと同じような事を、ドイツ人や犬や猫はするわけです。 キリンやマントヒヒ、ミジンコなどは、人間と共に側で生活をする、という事がほとんど無い為、人間の想念そのものが犬や猫のようにわからない事と、生死に対して犬・猫・人間ほどの思念を持たない為(自然な為)、幽界に留まる必要が無いからです。でも生物の”霊”としての存在はあります。 上記を鑑みるに、霊というのは人間の心理が作り上げた産物であるのに、それでも霊を信じていらっしゃる根拠はどこにあるのか、お伺いしたいです。 暗闇の恐怖や、死への恐怖、畏怖の影響だと思いますが。。 現実の世界しか見ない方には現実の世界しか目の前に現れません。 「心」という、人の世界に文字や漢字で存在し、辞書にも載ってる物を、質問者さんは持ってきて目の前に見せてくれますか? でも「心」は存在する・・・と、きっと誰もが言うであろうし納得されるであろうと思われます。 「霊」も人の心と同じように、現実の世界では見えなくても存在はするものです。
お礼
ご回答感謝いたします!御礼が遅くなってすみません。 説得のあるご回答、読み応えがあり、かつ興味深く拝見いたしました。 こんなに力説してくださり、貴重なお時間を申し訳ないです。 私は、霊は心の中にあるものだと思っています。 心が見えないように霊が見えないのなら分かるんですが、見えてしまう霊がいるとなると、客体としての霊を想像してしまい、擬人化してしまい質問のような疑問がわいてくるのです。 詳しいご説明、ありがとうございました!
- michael-m
- ベストアンサー率50% (2724/5433)
>なんで(信じている方は)信じているのでしょうか。 信じない人と大差は無いと思います。別に確証があって信じているわけじゃありません。いると思うからいると信じるだけです。 ○なぜ霊は夜ばかりに出るのですか(最近のホラーは昼もお構いなしですが^^;)。夜になるまで待っているんですか。どこで待ってるんですか。 夜は陰の気が満ち、同じ陰性の霊のエネルギーが強くなるから…とも言われていますが。 蛍も昼は目立たず、そばにいても気がつかないけど、夜なら目立つ。歯は寝るときに痛む。これと同じ様なものでしょう。でも、最近の都会は夜でも昼と変らないので、ひょっとしたら気がつかないだけかも。 ○江戸時代に見られた霊(うらめしや~とか言って出るやつ)が、最近見られないのはなぜですか。霊も時代によって変わるのですか。 怖がらせる為に人が創作したイメージですから。時代と共に形も変るだけです。 ○縄文時代に死んだ人の霊はもう出ないのですか。霊はいつまで出ていて、いつになったら活動をやめるんですか。 いるかもしれないけど、気がつかないだけかも知れません。それに自然に生き、自然に死んでいった者が彷徨う確率は少ないでしょう。昔の人は死を身近に感じていたのですから。幽霊などという類のものは人が自然から離れていくに従って強く意識されるようになって来ましたから。 ○ドイツ人やマサイ族の霊は日本に現れないのですか。 ○ボケて死んだ老人の霊は死んでもボケたままですか。 魂に国籍や人種などないでしょう。たまたまその国に生まれたからその国籍になっているだけです。肉体の個性と魂の個性は全く違うのです。 ○猫の怨霊や、犬神など、身近な動物の霊はいますが、キリンやマントヒヒの霊がいない(見られない)のはなぜですか。同様に、ミジンコの例がいないのはなぜですか。 見ないとか取り上げられないのと、居ないということの間には幾万光秒もの差があると思いませんか? アフリカやアマゾン、東南アジアなどでは、そこにすむ動物の霊を見たり、模写した逸話などがあるでしょう。日本だからこそ、キリンやヒヒが身近に生息していないので、そんな話が出ないだけでしょう。 >上記を鑑みるに、霊というのは人間の心理が作り上げた産物であるのに、それでも霊を信じていらっしゃる根拠はどこにあるのか、お伺いしたいです。暗闇の恐怖や、死への恐怖、畏怖の影響だと思いますが。 上記の喩えを以って幽霊や霊魂の不在を説くのは、あまりにも無理がありすぎです。確かに暗闇や死に対する恐怖はあるでしょう。しかし、それが長い歴史の中の遺産であるなら、暗闇に対する恐怖は人霊を見せるのではなく、肉食動物であるはずです。人霊が出てくるとすれば、それは相手に対する良心の呵責があった場合に限られるのではないでしょうか?それに、幼児の死への恐怖と言うのも考えにくいものです。 最初に述べたように、信じないと言う事に関しても、なんら確たる証は存在しません。錯覚や幻想だと言い切ってしまうのも、あまりにも非科学的ですし、幽霊もまた視力と同じ様に脳が判断する以上、「脳に刺激を与えたら天国が見えた。だから天国は想像の産物だ」という論拠も成り立ちません。 要するに、信じない人も信じる人も同列に存在しているだけなのです。信じない程度の根拠で信じているのです。そして唯一差があるとすれば、経験したかしないかの差だけでしょう。
お礼
ご回答感謝します。御礼が遅くなりすみません! >いると思うからいると信じるだけです。 はい!それを否定するとか、そういうことは毛頭ないです。 >最近の都会は夜でも昼と変らない つまり、ネオン輝く繁華街ではあまり霊が出なくて、真っ暗な墓地に出そうな感じがするのは、人間の主観により霊が作られてるのでは、、と思うわけなんです。 >アフリカやアマゾン、東南アジアなどでは、そこにすむ動物の霊を見たり そうなんですよ!つまり、身近な人だけ見て、そうじゃない人は見ない。霊がいるとすれば、A、B、C、、個々の霊がいるのではなく、それを霊と認識した人の精神の中にいるということになるでしょう。客体として霊が存在していないのは確かです。なぜなら、友人が見える霊が私に見えないからです。そもそも客体自体本当にあるのか、となると哲学分野ですので深追いしないようにしましょう(^^;)。 >暗闇に対する恐怖は人霊を見せるのではなく、肉食動物であるはずです。 このご説明がよく分かりませんでした。。 縄文時代などの狩のイメージでしょうか。 (これはお互いの価値観の相違ですからしょうがないですね) >相手に対する良心の呵責 >幼児の死への恐怖と言うのも考えにくい つまり霊は、出ると思っている人のところにしか出ないんです。 >信じない人も信じる人も同列に存在しているだけなのです これは思えば、確かにそのとおりかなぁ。。と思いました! 恐怖の怪談話とかで出てくる現象、これは虚像とだけでは全く説明が付きませんし。 ありがとうございました!
- yaninatta
- ベストアンサー率18% (6/32)
>なんで(信じている方は)信じているのでしょうか。 存在を否定しきれていないからでしょうね。 まあ、そもそも霊とはなんぞやという定義がなされていない状態では論理的に否定するのはほぼ不可能ですが。 ○なぜ霊は夜ばかりに出るのですか(最近のホラーは昼もお構いなしですが^^;)。 夜になるまで待っているんですか。どこで待ってるんですか。 暗闇でないと実体化するのが困難若しくは苦痛(?)を伴うとする説もあります。 目撃談(それ自体の信憑性はおくとして)としては昼間や明るい照明の元でのものも多数あります。 「夜ばかりに出る」というのは単なる思いこみです。 「どこで待ってる」→「昼間どこにいる」っていう意味では、「霊界あるいは幽界(・・・ってどこなんでしょうね?)にいる」とする説から、「昼間でもそこ にいる(単に知覚されないだけ、見える人には見える)」という説まで諸説あります。 ○江戸時代に見られた霊(うらめしや~とか言って出るやつ)が、最近見られない のはなぜですか。霊も時代によって変わるのですか。 「うらめしや~」自体が劇中での演出効果を考えた役者のセリフであり、実際の目撃談で「うらめしや~」と言った霊の話は知りません。 もっとも、これは私の認識不足かも知れませんので、そいう例をご存知なのでしょうか? 単に昔の霊の目撃談ならいくらでもあります。 怪談で、落ち武者の霊とか大戦中の兵隊の霊とかは定番です。 ○縄文時代に死んだ人の霊はもう出ないのですか。霊はいつまで出ていて、いつになったら活動をやめるんですか。 昔は出たのかも知れませんが、縄文時代という知識を持たない時代の人がその霊を見たとしたら「縄文人の霊を見た」とは言わないでしょう。 「猿の化け物を見た」とか「鬼を見た」とかなんとかってことになるでしょうね。 そういうことなのかも知れません。 極端な説としては「霊は時空を越えた存在である」とするものもあります。 まあ、それが本当なら明日にでも縄文時代の霊が出るかもしれませんが。 この世に執着がなくなったら成仏するとかしないとか、霊は残留思念(って概念も分かったような分からんようなもんですが)だとかって説からすると、人ならぬ霊それぞれってことになるんでしょう。 これに答えろと言うのは『「人はいつ恋に落ちて、いつ恋から冷めるのか」を明確に答えろ、それが出来ないなら恋なんてものはないんだ』と言うようなもんです。 ○ドイツ人やマサイ族の霊は日本に現れないのですか。 一般にいわく因縁のある場所に出るとされていますからそういう縁があれば出るんでしょう。 現に外国人(若しくは外国人らしい)霊の目撃例は沢山あります。 マサイは知りませんが日本でドイツ人の霊が出る話は聞いたことがありますから「現れない」という断定がそもそも間違いです。 ○ボケて死んだ老人の霊は死んでもボケたままですか。 延々自殺を繰り返す霊の話なんかからすると、その状態(この場合ボケた状態)に強く囚われているとそうなるんじゃないでしょうかね? 脈絡なく病院なんかを徘徊する霊の中にはボケた状態の霊もあるのかも知れません。 と言うか、そもそも自分が死んだ事を理解出来ない霊っていうのはある種のボケなんじゃ・・・ ○猫の怨霊や、犬神など、身近な動物の霊はいますが、キリンやマントヒヒの霊がいない(見られない)のはなぜですか。同様に、ミジンコの例がいないのはなぜですか。 これまた、キリンやマントヒヒの霊がいないと何故言えます? 日本で、と言うのなら単純に生息数と霊になる個体数との割合の問題で遭遇する確率が低いってことでしょう。 例えばアフリカには様々な(勿論キリンやマントヒヒなどの)動物の精霊を信じる宗教を持ち続けている部族も現存します。(現在でも心底信じているのかは知 りませんが) ミジンコの霊は今現在眼の前にあったとしても知覚できないですから目撃例がなくても不思議ではありません。 日常において実際のミジンコが肉眼で見えると言うなら別ですが・・・見えますか? 「10m先の池のあの辺ににミジンコが集まってる!」とかって・・・。 ちなみに古今の怪談というか怪異談の中には昆虫の霊というものもあります。 もっとも、仮に目の前を蠅や蚊の霊が横切ったとして、それが霊なのか実体のある本当の生きた蠅や蚊なのか、区別つきますかね? ましてや、100匹のミジンコの中に1匹霊が交じっていたとして、それに気づけます? そういうわけで、 >上記を鑑みるに、霊というのは人間の心理が作り上げた産物である という証明には全然なっていませんねえ。 全て単なる疑問です。 >それでも霊を信じていらっしゃる根拠はどこにあるのか、お伺いしたいです。 暗闇の恐怖や、死への恐怖、畏怖の影響だと思いますが。。 思うのは勝手ですが、信じる、信じないっていうのは個人の主観の問題ですからねえ。 客観的な証拠がないと信じないって人もいれば、そうじゃない人もいる。 ちなみに私は「それを信じさせたいなら、証明とまでいかなくともせめて納得のいく説明をしてくれ」というスタンスです。 「不在証明=悪魔の証明」を振りかざしてしたり顔の人も時々いますが、裁判してるわけじゃないのですから、この際には当てはまりません。 自分の主張(霊はいる、霊はいない)を他人に信じさせたい、主張したい方がそれを証明する必要があります。 「存在を証明出来ないのだからいない」と言うのでは自説を主張する根拠としてはあまりにお粗末です。 まして、事が他人の宗教観にまで土足で踏み込みかねない話ですからね。 霊の存在を信じることによって心の平穏を得ている人もいるだろうってことで。
お礼
ご回答感謝いたします。御礼が遅くなりすみません! 大変ご丁寧に回答頂き、ありがとうございます! 昼間の霊の目撃例も結構あるんですか。 夜は特に人間の本能である暗闇への恐怖心が増して、それが霊を作り上げると思いましたが。。人魂は昼出てもあまりインパクトなさそうですけどね(^^;)。 うらめしや~、、は極端でしたが、「落武者」「兵士」の霊はありきたりだと思われませんか。 >『「人はいつ恋に落ちて、いつ恋から冷めるのか」を明確に答えろ、それが出来ないなら恋なんてものはないんだ』 なるほど!これはその通りですね! 皆さんのご回答を読んで、私は霊と言うものをかなり「擬人化」しているみたいです。しかし、霊は精神であるとすると、このご説明はうなずけます。 >キリンやマントヒヒの霊がいないと何故言えます? つまり、yaninattaさんがおっしゃるとおり、身近な霊は存在するんです。キリンやマントヒヒがとても身近にいて、人間と生活をしているような文化圏では、それらの霊がいるでしょう。しかし、猫がいない環境では、猫の怨霊はありえないでしょう。そういう意味で、私は霊が虚像だと思うのです。ミジンコなんか人間の生活と無縁ですから霊自体が存在しませんよね。 また、他の方のお礼にも書きましたが、私は他人に霊の存在を否定させたいとか、そういうことでは全くありません。自分が固く信じている価値観を、違うと思っている方々の思いを知りたいだけです。宗教観の否定なんてもってのほかです。ただし、オウムとかの他人に迷惑をかけるものは断固はんたいですけど。ありゃ宗教じゃないか。 ありがとうございました!
何を今さら仰いますやら・・・。 何で信じているのか??って『信じたいから信じている』に決まってるじゃないですか。 なんか、イロイロ質問項目挙げられていますけれど、信じたい人の信ずる姿で語られるものなんですから、こんなの無意味でしょう。 恐怖や畏怖の影響だと仰いますが、それこそ質問者さんの思い込みですよ。 霊を語る場合、懐かしみや愛情をもって語られる事も多くあります。 つまり、それによって心の安定を図っているのです。 そんなのに理屈なんか要りますか? 神の存在を理屈で説明できますか? 存在を信じたいから信じる、存在を信じたくないから否定する。 個人の心の安定を図るという意味では、ベクトルの向きが違うだけで根幹は一緒に見えますね。 ていうか、信じることに何か問題でも? 何か悪意をもって信じる事を強要されているなら別ですが、個人の思想、良心を制限するような発言は問題ですよ?
お礼
ご回答感謝します。御礼が遅くなりすみません! なんだか失礼な質問だったのでしょうか。。? お気に障りましたらたいへんすみません。 私は信じる人を決して否定していません。 疑問の出発点が質問に挙げた例なのです。 それゆえ、霊を信じず、虚像であると確信しています。 しかし、それはもちろん私の思い込みです。他人との価値観が大いに異なると言うことも理解しています。でも「なぜ?」というぎもんがよぎります。それで、なんで信じているのか聞きたかった、素朴な疑問です。 >信じたい人の信ずる姿で語られる それをぜひお聞きしたいのです。 霊がいるかいないかの議論じゃないので、「そういう考えもあるのか!」と思いたかったのです。 ありがとうございました。
- jameskun
- ベストアンサー率17% (123/685)
思いつくままに、記します。 1.現実逃避・・・ あまり科学だの哲学だの考え始めると面倒になり、霊を持出しておくと、妙に納得できるから。これは幼少時は誰でもそうですが、大人になって続いてる人も多い。疑問や矛盾をそのままにしておくからですね。 だから、ちょっと分かり易い言動の霊能者などにすぐに飛びついたり、奇蹟を起こす人=霊界の使者だと即信じる。 2.命の概念の勘違い・・・ 生命を構成するファクターが『肉体』と『魂』だと昔から信じ込まれてきたから。 21世紀だというのに、未だにこれを妄信してる人も多い。 3.未発達科学の勘違い・・・ 科学では証明できないから、霊は存在するという短絡的考え。 その割には幽霊を語る時、『エネルギー』『波動』などといった純然たる科学用語を平気で使う。この矛盾に何故か気が付かない悲劇。 4.不思議な出来事の対応・・・ 1.とかぶるが、不思議現象=霊現象にしておくと一応安心?できる。 5.宗教との区別が明確にできない・・・ 質問のように、心の問題(想像の世界)と実在の問題(物質世界)をはっきり分けて考えることが困難。かなりクロスオーバーしてる人が多い。 総括して、メディアの無責任な対応、情報過多などの社会問題が根底にあるのかも知れません。 たとえば、○○心霊研究所だとか、○○大学教授などの肩書きだけで、科学的アプローチをしているなどと信用してしまう。実際はトンデモな疑似科学なのにね。 また、海外では霊能者が犯罪捜査に協力しているなどという偏った情報を鵜呑みにする姿勢も、大いに問題あると思います。 参考までに。
お礼
ご回答感謝します。御礼が遅くなりすみません! 現実逃避で例を持ち出すと言うご意見、妙に納得です。 また、宗教(特に仏教かな?)と死者を弔うことを混同してしまってる感もありますね。 ありがとうございました。
- elmsan
- ベストアンサー率0% (0/6)
亡くなる直前とか直後には、なにか不思議な力が働くことがあるかも知れないと思い、一概にすべて否定はできないかなと思っています。 私の経験ですが、勤務していた学校の女生徒が、早朝、自宅付近でマラソンをしていて路上で倒れて亡くなったことがありました。私は鉄筋のビル一階の窓辺に立ち、呼び集めた先生方の登校するのを待っていました。そのとき、突然3階のはめ込みの硝子窓が音もなく目の前に落ちてきたのです。後ろにいた事務長が「来てる!」と叫びました。学校の窓枠が地震でもないのに落ちてはたまりません。以前にも以後にもそんなことは起こったことはありません。学校へ行くのがとても好きだったという秀才でした。しかも窓は植え込みの木に引っかかり、ふわっと地面に落ちましたのでそのまま3階の窓にはめこみました。以来なにか不思議な力を否定は仕切れないかもと思うようになりました。あらゆる生き物にある「いのち」とか自然の摂理の中心にあるであろう「万有引力」などもなんだかよく分からないものですね。まだ分からないものがたくさんあるかもと思った方が何かよいことがあるかもしれませんね。
お礼
ご回答感謝します。 貴重なご経験談ありがとうございます。 不思議な経験をされましたね。 その場に居合わせれば、私も単なる偶然ではかた付けられない思いがしたと思います。 確かに、この世は分からないことだらけです。 ありがとうございました。
お礼
ご回答感謝いたします!御礼が遅くなってすみません。 大変読み応えのあるご回答、ありがとうございます! 興味深く拝見いたしました。 >信じる/信じないというのは、それぞれの育った環境や経験や考え方や資質に大きく影響 そうですね、その通りです。 私はどうも固定観念が強いと言うか、頑固なところがあり、すぐ物事を決め付けてしまう悪いところがあります。。 >「信じるほうが自然だから」というのが私の理由としてはぴったりしています なるほどなるほど!うなずきました。 私の理由としては、信じないほうが自然なんです。信じる信じないの差はそういうことですね! >チャンネルと関係性の観点 身近なものほど、チャンネルが合う、と言うことは、言い換えればそれだけそのもの(人)に対して思い入れが深いわけで、そうなると霊になって出てくる確率は大きいでしょう。脳に刺激がそれだけ大きいので、虚像を見る確立も高くなります。祖母が死んだ日、枕の中で祖母がリアルに現れました。それを霊といえばそうなのかもしれないけれど、私にとっては脳の何かが虚像となって現れた、と捉えるほうが自然です。 >マイノリティである見える方の表現に、我々見えない人たちは少し謙虚 はい、私も否定をしているのではありません。また、他にも書きましたが、見えることを納得できる形で説明するほうがはるかに難しいことも分かっています。UFO反対論者のように醜い否定をするつもりはありません(UFOも信じていませんが。。^^;)。 >語彙の発達とも関連 そうですね。語彙に限らず、人間の脳のなせる業でしょう。 サルやチンパンジーが幽霊を見るとは思えません(見ると言う研究結果があったらすみません)。 もしbaka_inu様と同じ霊を見たら、きっと私は幻覚のせいにしてしまうでしょう。そのほうが思考が楽だからです。最もこれは思考の停止と同じことですが。 おっしゃるとおり、「霊魂の存在の意識」が希薄になりつつある現在では、以前より人間としての倫理観、モラルが欠如しているかもしれません。その結果なのか、順序が逆なのか分かりませんが、ムラ社会は崩壊し、血縁という意識もなく、核家族化が進行、霊への意識がますます薄らいでいくでしょう。
補足
(お礼の続きです、文字数オーバーでした) >これだけ効用があれば信じるに足りるというのが、私の立場です。 はい、よく理解できます! ところで、私の家には仏壇があります。しかしそこには先祖の霊などいるわけもなく、あるのはただの木細工の仏壇です。しかし水とご飯を毎日置いています。それは、先祖へ私を産んでくれた感謝の意味を記すもので、要は自己満足なんです。 baka_inu様とは、この辺の考え方が違うんだと思います。 時たま思うことがあります。 実は、霊(神、仏)を信じられないと言うことは、不幸なことなのかもしれないと。情報化社会に混じって、人として本来持つべき能力をなくしてしまったのではないかと。 いろいろと考えさせられるご回答をくださり、本当にありがとうございました!貴重なお時間を感謝いたしますね。