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霊は人間の恐怖心が作り出した虚像なのに
なんで(信じている方は)信じているのでしょうか。 ○なぜ霊は夜ばかりに出るのですか(最近のホラーは昼もお構いなしですが^^;)。夜になるまで待っているんですか。どこで待ってるんですか。 ○江戸時代に見られた霊(うらめしや~とか言って出るやつ)が、最近見られないのはなぜですか。霊も時代によって変わるのですか。 ○縄文時代に死んだ人の霊はもう出ないのですか。霊はいつまで出ていて、いつになったら活動をやめるんですか。 ○ドイツ人やマサイ族の霊は日本に現れないのですか。 ○ボケて死んだ老人の霊は死んでもボケたままですか。 ○猫の怨霊や、犬神など、身近な動物の霊はいますが、キリンやマントヒヒの霊がいない(見られない)のはなぜですか。同様に、ミジンコの例がいないのはなぜですか。 上記を鑑みるに、霊というのは人間の心理が作り上げた産物であるのに、それでも霊を信じていらっしゃる根拠はどこにあるのか、お伺いしたいです。 暗闇の恐怖や、死への恐怖、畏怖の影響だと思いますが。。
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はじめまして。 私は、信じるほうです。 虚像なのに信じる、虚像だから信じない、ということではないような気がしています。信じる/信じないというのは、それぞれの育った環境や経験や考え方や資質に大きく影響されると思うので、そういったことの違いが、信じる/信じない要因なのではないでしょうか。 山があると思えば山はある、ないと思えば山はない。そういう類のものでしょう。 ついでに言えば、信じている人の脳と信じていない人の脳は、同規格ではありますが基本的に性能も機能も用途も別モノなので、他人の脳の中を簡単に否定することは難しいのかな、と。その脳だから見れるんだろうし、その脳だから信じるのでしょう。 この辺のところは、先に回答された方へのお礼欄を読むに、ご理解されていると感じていますが、念のため。 実際に弟が小さい頃にちょいちょい霊のようなものを見ていたようです。私自身も大学生の頃に、一度だけ見たことがあります。錯覚という見方もできますが、私自身にとっては現実です。悪意はなさそうでしたが、本当に怖かった…。 ちなみに見る前から存在を信じていました。 「信じるほうが自然だから」というのが私の理由としてはぴったりしています。根拠というほどの確たるものをもっているわけではないけど、霊は存在すると思ったほうが生きやすいです。 個人的には「チャンネルが合うと見える」のかな、という感覚でいます。 その人が受け取れる周波数帯と合うものが見えるのでしょう。 受け取り方も音声のみ/モノクロ/ノイズ入り、なんて状態もあれば、体調によって/特定の場所で/手順を踏んで、といったキーの存在もあるでしょうし。見れる霊も、動物霊や親戚筋限定、その土地に関係の強い霊、人につく守護霊といった感じで、対象にチャンネルが合う/合わないということがあるかも知れません。 京極夏彦の小説に、見えないものが見える登場人物がいて、確かそれは他人の頭の中や物の中にある記憶から漏れた情報が「視える」のだと、説明されていました。まぁ、そういうハイパーな能力の一端であるという説明もできますね。 もう一つ。 個人的な仮説ですが、霊とは相互のかかわりの中で認識・認知されるものだとすれば、かかわりのない(少ない)ものは、チャンネルが合いにくいのではないか、という気がします。 都会では人が多すぎて、道行く人がモノに見えるときがあるのではないでしょうか。そういう半ばモノと化した人と自分の身近な人とでは、かかわりの深さが全然違うというか。もし自分に霊を感じる能力が合ったとしても、やはり知り合いのほうが感度が上がる気がするのですが…。同様に、相互作用的な関わりができる動物(イヌやネコ)の方がアリや金魚といった関わりが一方的になりがちな動物よりもチャンネルが合いやすいのではないでしょうか。 一般に、安定して周波数帯が広い方や分析能が高い方が、職業霊能者になれるというか。 以上のことを踏まえると、チャンネルと関係性の観点から、ご質問の項目は大体説明できるかなと思うのですが、いかがでしょう? まぁ養老孟司がダーウィニズムについて述べているように、こういう反証しにくい理屈は科学的には簡単に否定できないものでして。我々は推測でいくらでも語れるわけですが、見えていない人が語ることなんて、500年後の未来について語るくらい不確実なことです。議論の前提として、見えない方がどんな理屈をこねても、見える方の正確な感じ方には近づけないことは認めなければなりませんね。その意味では、様々な見える方がいますが…マイノリティである見える方の表現に、我々見えない人たちは少し謙虚でありたいなと思っています。 その方がいろいろな意味で楽しめる、ということもありますし。 先天的に(光のオン/オフも認知できない程度の)視覚障害をお持ちの方に、赤と緑と黄色の見え方について説明することに、少し似ているかも知れません。まして緑と黄緑と深緑を上手に使い分けた、新緑の森を描いた絵と南の島の珊瑚礁を描いた絵の違いを、どう説明するのか、同じ風景でも写真と絵の質感の違いをどう分かるように説明するのか…なんて感じでしょうか。言葉で伝わる情報なんて、大した事ないものです。 また、語彙の発達とも関連があるかもしれません。中学校時代の教科書にあったのですが、あるエスキモーの部族には、雪の状態を表す数十の語彙があるとのこと。我々にはせいぜい10個ほど。これは生活における必然性による語彙発達の違いによりますが、それだけ雪に対する我々日本人の識別/認知能力が甘いこともあります。霊を見たとして、それを適切に言語化するだけの語彙が日本語に備わっているかというのも、考慮する必要があるかも知れませんね。 参考までに。 「私が見たのは大学の研究室で、テレビの方を向いて座っていた、知らないおじいさんでした。寝起きだったので周囲の風景はぼやけていたのですが、おじいさんだけは青白く光っていて、はっきり見えました。後ろのキャビネットが透けて見えていたので、あぁこりゃ見ちゃった、と。その後すーっと上に浮かびながら消えていったので、実害はなく悪意もなさそうでした。でも怖くて怖くて、それから夜にはその部屋に入れなくなりました。」 …私の語彙・認知能力ではこんなもんです。書いてみると陳腐で錯覚くさいのですが、今でも本物だと思っています。信じない人には寝ぼけたんだろって言われるでしょう。もっと見える人が同じ場所にいたら、この人は○○さんで○○な人で○○と言ってますとか、そういうことになるのかなと。 あとは蛇足です。 まぁ質問者の方がお礼で書かれているように、霊の「実在を云々」するよりも、文化的社会的機能として考える方が理解しやすいし面白いかも知れませんね。 霊魂の存在を意識することは、死してなおご先祖さまへ敬意を払いご先祖様との関係をもち続ける効果があります。先祖の名を汚さないように、とか、ご先祖様に恥ずかしくないように、とかいう言い方を昔の方は言っていたかと思います。自分の行いは自分一人だけの責任で済むではない、というモラルを語る上で、死者の霊が存在するという考え方は非常に有効ですし、死者の霊とともにあるというのはムラ社会のコミュニティの結束を高める効果もあったでしょう。なんたって、自分一人の一存(ワガママ)で死者の霊をどうこうすることはできないでしょうし、日々の供養や年中行事を行うことはコミュニティ維持にも効果的でしょう。 また、現世界で物質的に恵まれていない人々がモラルを維持する手段としても、霊魂や天国や地獄、輪廻転生という考え方は非常に効果的です。日々の些細なことに感謝できる、ささやかな暮らしは、より大きなものの実在を信じることに支えられてより強いものになるのかな、と思います。 これだけ効用があれば信じるに足りるというのが、私の立場です。 逆に言えば、神も霊魂も「科学的根拠」の名のもとに(反証可能性を含む、とかいった本当に科学的な視点ではない擬似科学的な視点で)簡単に肯定/否定し、徹底的にワイドショー化・パロディー化して地位を貶めてきた現代の世俗文化の広がりからか、最近は迷い悩む方が多いのではなかろうか、と感じています。うつ病の方、リストカットする方、引きこもる方、人を信じられない方などなど(高度情報化や都会化もかなり重要な要素ですが、これらと文化の発達は同期するもので切り分けられないものと考えています)。自分自身や目に見えるものしか信じられないから、しんどくなるのであって…昔だったらお寺や神社や教会なんかで生き方や進むべき道を示してもらえて、ある意味考えずに済んでラクチンだったのでしょうが。 ちなみに。 ある方が語っていましたが、「不思議」というのは、なぜだろうと「思案しても議論してもいけない(不)もの」なんだそうです。だから不思議なんだって。 存在の是非を問わずに上手に利用する…昔の人の方が賢く生きていたのかもしれません。 色々思うところを吐き出したおかげで、だらだらと長くなりました。 駄文失礼します。
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- ruruimo
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こんにちは。私は霊を見た経験がありませんし、「信じている」というよりは 「否定はしない」程度の立場の者です。 なぜ見たことはない物を否定もしないかというと「火のないところに煙は立たない」 と思っているからです。幽霊、オバケ…日本に限らず世界各地で遠い昔からある話です。 まったくのデタラメだとしたら現代まで残っているでしょうか?たとえ話は下手なので アレですが、口裂け女の話や人面犬の話など、一時は大ブームになったものでも、いずれ 忘れられていきます。残ってもせいぜい「都市伝説」止まりで、本気で信じてたりしたら 「おまえバカか」と言われかねません。でも霊の話になると、そうでもないですよね。 それが何なのかはわかりませんが、語り継がれて残るに足る何かがあるのでは? 血液型による性格判断についても、否定派の方々はすぐ科学的根拠がどうとか言います。 科学的に関係ないと証明されたかも知れませんが、まったく「火のないところの煙」なら どうして忘れ去られていかずに残っているのでしょう?それだけ多くの人が 「当てはまっている」と感じる、信じるに足る理由があるからではないでしょうか? 血液型に話がそれてしまいましたが、自分が信じられないものに対して、その理由を 「根拠がないから」と仰る方は、ご自身が信じて受け入れている全ての物事の根拠を 説明できるのでしょうか?
お礼
ご回答感謝いたします。 霊が全くのデタラメではなくて、人間の心理(またある方は、錯覚、磁器異常のためと言う)が作り上げたと考えています。つまり、客体としての霊は存在しないのでは、、と思うのです。 決して、根拠がないから否定、と言うわけではありません。 ただ、私は今まで一度も霊に遭遇したことはなく、人を呪ったり、心霊写真などを見るとどうも胡散臭さを感じるのです。 霊とはそういうものとは全く違うものだ、と言うことでしたら、この質問は全く無意味です。。 ありがとうございました。
- phantom1
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杓子定規に科学的でない物を全否定するだけでは人生つまらないではないですか。あれは「科学」では無く「文化」です。信じる・信じないの論議はこの際不毛なだけですよ。質問者様が霊を信じる人の存在を不思議(若しくは不快)に思っているのなら、そのような人達を「文化的風景」として眺めて見てはどうでしょうか。
お礼
ご回答感謝します。 前の方のお礼にも書きましたが、霊を文化としてみるとかなり興味深いです。 信じる・信じないの論議ではなく、なんで信じているのかの根拠を知りたかったのです。 ありがとうございました。
- daidou
- ベストアンサー率29% (491/1687)
興味深い質問ですね 幽霊、というものは人間の生み出した虚像。 確かにそのとおりでしょう。 客観的な分析・追試・調査ではことごとく否定的な結果しか出ていません。 霊能者や霊感があるという人の主観的な証言でしか分析が出来ない事象ですし、目撃事例も非常に曖昧な証言しか得られない場合が多いようです。 しかし、だからと言って霊の存在自体が否定できるかというと、否定する事が出来ないのが面白いところです。 人間の心理的な要素、心の存在自体も幽霊と一緒で、自分の主観的な証言や心を読めると称する一部の人の証言によってしか分析・追試する事が出来ないものです。 つまり、客観的な事象だけ捉えると、幽霊の否定=心の存在の否定、と拡大解釈できてしまいます。 また客観的な側面だけでなく、宗教的な要素を考えてみると 仏教で言う「輪廻転生」の輪から外れてしまった存在であったり 多くの多神教・アニミズムで説かれる万物に宿る精霊(=神)であったり様々な解釈が成り立つようです。 まあ、頭から否定しないで一種の民族文化的要素、として捉えて考えてみるもの面白いのではないでしょうか? (No.2さんの死んで幽霊、というのはどうでしょうか? 源氏物語あたりでも生霊ってのが出てきますしねぇ 生きてても幽霊になりえるって事です)
お礼
ご回答感謝いたします。 こういう事例は、UFO同様に、証明しようとする側にものすごい負担があり、かなり不利に扱われます。 そのことはよく分かっているつもりですし、頭から否定するものではありません。ただ、霊を信じている根拠が一つでもいいので知りたかったのです。。 で、完全に否定できれば、私もこのような質問はしません。 つまり、虚像とは思いつつも、霊に取り付かれたり、そのほか、霊にまつわる不可思議現象は多々あります。 幽霊の否定=心の存在の否定、とはまさにその通りですね! 人間の存在しない地球に霊がいるかと言えば、絶対にいないでしょう。 猫や犬の霊もありえません。 霊は、存在どうこうよりも、なぜそういうものが現れたのか、そういう民俗学的側面からアプローチするとかなり興味深いです。 ありがとうございました!
- hakkoichiu
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未だ存在を証明した方はいません。 それでは「存在しないことを証明しなさい。」と言われることがありますが、およそいないもの、無いものを根拠を示して論理的に無いと証明できるものでしょうか。 百歩譲って仮に存在するとしたらその像、形、色、音等を発するエネルギーは何処から出て来るのでしょうか。 言い換えれば人間の想像の産物です。現代物理学では存在は否定されます。
お礼
ご回答感謝します。 物理学に照らし合わせると、存在証明は不可能みたいです。 人間の想像の産物だと私も思っています。 ありがとうございました。
- 8942
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“証明出来ないもの≠存在しない”ですよ。 証明出来ないもの=存在しないでは、これまで科学的新発見はなにも無かった事になります。 霊になってみないと答えられないような質問を人間にしても正答は得られませんよ。
お礼
ご回答感謝します。 “証明出来ないもの≠存在しない”はもちろん理解しています。 やはり霊になってみないと分かりませんか。 ○○だから霊を信じている、というのを聞いてみたいだけなんですが。。 ありがとうございました。
- noburo
- ベストアンサー率29% (26/87)
私自身は霊を信じてはいませんが、推測するならという事で…。 霊の存在は最初は恐怖心からというよりは、その人にいてほしいと言う気持ちからでしょう。 人間には感情があるので、身近な人間が死んだ時に深く悲しみ、古代から埋葬・葬儀をしてきました。残された者はその存在が消えてしまうのではなく何か意思が残ってほしいと考えたでしょう。 また自分が死んだ後の恐怖もあり、まったく何もなくなる・無になると考えるよりは、霊として残ってほしいという気持ちもあったと思います。 当然死者の霊があるのならば、その死者たちの行く所=死者の国もなければならず、天国があったり、悪い事をすれば地獄に行くなどの考えも出てきたのは自然でしょうね。 霊がいるのならば、その中で生者に何らかの影響を与える霊、守護霊や悪霊なども考えとして出てきます。 法律の確立していない古代に道徳を教える時も、「守護霊が見守ってるよ」「悪い事をすると悪霊に祟られるよ」「善行をすれば死んだ後天国に行き、悪行をすれば死んだ後に地獄にいくよ」と非常に都合が良かったのでしょう。 ただ、身近な人が死んで悲しんでいる人の心を癒したり、教育レベルの低い時代に道徳を教えるのに利用するのはいい事だと思いますが、今のように霊が祟ってると脅して、壷を売ったり寄付をさせたりと商売に利用するのはオイオイと思いますけどねw。 あなたの書いた疑問は全ておっしゃる通りで、他にも突っ込みどころ満載です。例えばほんのちょっと昔までは戦(いくさ)や病、食べる物がなくて死んだなど、苦しんで死んだ人のほうが普通で、寿命で死んだなどの方が少ないんですが、それが全部霊になったらそこらじゅう霊だらけのはずなのに、そうではない事とか、人類が生まれてから今まで死んだ総数を考えると数が合わないとか。 ただ信じている人にそれを言ったところで、どちらも「いる証明いない証明」が出来ないので、不毛な議論になるだけでしょうね。 前述の通り私は霊を信じていませんが、信じている人を否定する事もないでしょう。それによって悲しみが癒されたり心の平静を保てるのならいい事です。 ただし先ほど書いたような、霊をを脅し文句として商売に利用するような人には、徹底的に否定してやりましょうw。
お礼
ご回答感謝します。 霊の存在は、もう人類誕生と共にと言っても過言ではないと思います。 原始社会がどんなものか分かりませんが、宗教的社会であったことを考えると、現在では比較にならないほど霊の活動(?)は活発であったと想像します。魂は永遠と言う思想はいろんな時代、地域で見られますしね。 >壷を売ったり寄付をさせたり 現在でもこういうのに引っかかってしまう人がたくさんいます。 そうすると、やはりまだ霊の存在は身近なのかな、、とも思うんです。 >信じている人を否定する事もないでしょう もちろんそうです。 否定ではなく、信じている人は何を根拠に、、と思って質問してみました。私の友人も、私の肩に(私の)ひいおじいちゃんがいるよ、とか言うのですが、そう言われるたびに、質問に書いたような疑問がわいてくるのです。 ありがとうございました!
>恐怖心が作り出した虚像なのに 霊的現象は現行強磁気下で脳の正常な働きが阻害されたためであるということが確認されています 多少の刷り込みがあれば、脳内で幽霊を作り出してしまいまい、実際に見えているのです 見えてしまえば信じざるをえないということです(リアリストのほうが引っかかりやすい) 有名心霊スポットはほとんど磁気異常で、磁気強度によりその影響は長期的に続くこともあります もちろんこれは霊のいないことを証明できることではありませんが 広く存在が否定されて認識されているものは、存在しないでOKです、証明は学者でもない限り不要です
お礼
ご回答感謝いたします。 心理的要因が霊を生み出すと思っていますが、もっと科学的に掘り下げると、磁気異常による脳の阻害現象ですか。 私が霊を見たら一発で信じそうです(^^;)。 ありがとうございました。
- kozzz
- ベストアンサー率31% (102/324)
霊の存在の有無は誰しも否定も肯定も出来ることではないと思います。 しかし実のところ皆、霊の存在を認めているのはたしかですね。例えばお盆などにご先祖様が帰ってくるからとナスやキュウリに串を刺して飾る習慣やお彼岸の墓参りの習慣なども霊など存在しないとあるならば無意味な習慣になってしまうのではないでしょうか・・・? まぁ少々、飛躍した解釈かもしれませんが。
お礼
ご回答感謝いたします。 #6様の言われたことと共通する概念ですよね。 先祖に感謝をして、幸せを祈る。。 否定も肯定も出来ることではない、確かにそうです。 こういうお盆の行事などは、霊がいるとかいないとかじゃなくて、「気持ち」の問題として行うことですから。。 ありがとうございました。
- Trick--o--
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あえて肯定派として書いてみる。 ○なぜ霊は夜ばかりに出るのですか 夜になると、昼間は気付かないような物音がはっきりと聞こえてきたりしませんか? 昼間にも霊はいますが、多くの人がそれに気付かないだけです。 「霊感」のある人は昼夜関係なく見ますよ。 ○霊も時代によって変わるのですか。 人が時代によって変わるのですから、その人から発生した霊が変わるのは至極当然のことでしょう。 ○縄文時代に死んだ人の霊はもう出ないのですか。 浦島太郎の話をご存知ですか? はるか未来の世界へと飛ばされてしまった浦島太郎は、玉手箱を開け、鶴になって飛び去ってしまいます。 知り合いもいないようなはるか未来にいつまでもいたってつまらないでしょう。 もしかしたら、縄文人の霊も現代風になって生き残って(?)いるのかもしれませんがw ○ドイツ人やマサイ族の霊は日本に現れないのですか。 同上。 知り合いもいないような土地に(以下略 ○ボケて死んだ老人の霊は死んでもボケたままですか。 痴呆の主な原因は脳に有ります。 脳が無くなった零体は「魂の記憶」によって行動するでしょう。 おそらく、ボケも治っている(?)と思います。 ○猫の怨霊や、犬神など、身近な動物の霊はいますが、キリンやマントヒヒの霊がいない(見られない)のはなぜですか。同様に、ミジンコの例がいないのはなぜですか。 あなたが、キリンやマントヒヒやミジンコを愛情持って飼っていれば、彼らの霊と出会えるかもしれません。 我々には見えなくても、秋刀魚には秋刀魚の霊が見えているかもしれませんよ。 楽しいなぁw
お礼
ご回答感謝いたします。 >あえて肯定派として書いてみる。 待っていました(^^)。 やっぱり知ってる人がいない時代、土地には霊もヒマじゃないから行ったりしないんですね。 じゃあ、知り合いが全員死んだら、もう出るのをやめるのかな? 息子、孫、ひ孫も霊になって一緒に行動するのでしょうか。 魂の記憶によって行動! 妙に納得しました。 ひよこ、カブトムシ、文鳥、金魚、ヨークシャーテリア、いままで可愛がってきたものの霊を見たことがありません。 カエル、アリを散々虐殺したにもかかわらずこちらの霊も一向に見ませんが。。 ありがとうございました。
- Gantz10
- ベストアンサー率17% (20/117)
その原因が恐怖だけじゃないからです。 もっとも、虚像ではありますが。存在の有無については、「霊がある」と主張する人があることを証明しなければなりませんが、だれも成功していませんし(存在しないことを証明せよと、悪魔の証明を求めている人もいるようですがね)。 さて、恐怖ではないという話に戻ります。例えば死んだ後も親しい人を感じることができたとき、錯覚だったと切り捨てるよりは霊が来てくれたと思う方が心地よいというのは、ヒトという生き物の性です。 こういう気持ち良いことは、廃れません。 ちなみに、死後に髪や爪が伸びると言う事はあり得ません。伸びるメカニズムは毛根や付け根の細胞が分裂して成長するというものです。血流が途絶えてからは、これは起こりません。 死体が乾燥して萎びるので、埋もれていた部分が見えるようになった結果、伸びたように見えるだけです。
お礼
ご回答感謝します。 そうですね、、私も、死んだ祖母が見守っていてくれてる、と思うときがあります。霊とは言いませんが、そういう時、人間の精神の力の偉大さを感じますね。 ありがとうございました。
お礼
ご回答感謝いたします!御礼が遅くなってすみません。 大変読み応えのあるご回答、ありがとうございます! 興味深く拝見いたしました。 >信じる/信じないというのは、それぞれの育った環境や経験や考え方や資質に大きく影響 そうですね、その通りです。 私はどうも固定観念が強いと言うか、頑固なところがあり、すぐ物事を決め付けてしまう悪いところがあります。。 >「信じるほうが自然だから」というのが私の理由としてはぴったりしています なるほどなるほど!うなずきました。 私の理由としては、信じないほうが自然なんです。信じる信じないの差はそういうことですね! >チャンネルと関係性の観点 身近なものほど、チャンネルが合う、と言うことは、言い換えればそれだけそのもの(人)に対して思い入れが深いわけで、そうなると霊になって出てくる確率は大きいでしょう。脳に刺激がそれだけ大きいので、虚像を見る確立も高くなります。祖母が死んだ日、枕の中で祖母がリアルに現れました。それを霊といえばそうなのかもしれないけれど、私にとっては脳の何かが虚像となって現れた、と捉えるほうが自然です。 >マイノリティである見える方の表現に、我々見えない人たちは少し謙虚 はい、私も否定をしているのではありません。また、他にも書きましたが、見えることを納得できる形で説明するほうがはるかに難しいことも分かっています。UFO反対論者のように醜い否定をするつもりはありません(UFOも信じていませんが。。^^;)。 >語彙の発達とも関連 そうですね。語彙に限らず、人間の脳のなせる業でしょう。 サルやチンパンジーが幽霊を見るとは思えません(見ると言う研究結果があったらすみません)。 もしbaka_inu様と同じ霊を見たら、きっと私は幻覚のせいにしてしまうでしょう。そのほうが思考が楽だからです。最もこれは思考の停止と同じことですが。 おっしゃるとおり、「霊魂の存在の意識」が希薄になりつつある現在では、以前より人間としての倫理観、モラルが欠如しているかもしれません。その結果なのか、順序が逆なのか分かりませんが、ムラ社会は崩壊し、血縁という意識もなく、核家族化が進行、霊への意識がますます薄らいでいくでしょう。
補足
(お礼の続きです、文字数オーバーでした) >これだけ効用があれば信じるに足りるというのが、私の立場です。 はい、よく理解できます! ところで、私の家には仏壇があります。しかしそこには先祖の霊などいるわけもなく、あるのはただの木細工の仏壇です。しかし水とご飯を毎日置いています。それは、先祖へ私を産んでくれた感謝の意味を記すもので、要は自己満足なんです。 baka_inu様とは、この辺の考え方が違うんだと思います。 時たま思うことがあります。 実は、霊(神、仏)を信じられないと言うことは、不幸なことなのかもしれないと。情報化社会に混じって、人として本来持つべき能力をなくしてしまったのではないかと。 いろいろと考えさせられるご回答をくださり、本当にありがとうございました!貴重なお時間を感謝いたしますね。