ボランティアをやる「資格」とか「意味がない」というのとは、ちょっと違うと思います。そのボランティア活動が本当に他者のためになっているのであれば、動機が不純だろうが、別のところで罪を犯していようが関係ありません。ボランティアに資格は不要です。
ただし、それとは*別に*、そのボランティア活動が本当に良い行ないであるのかを見極める必要があり(例えば、貧困国で先進国の人が活動を展開しても、その活動が貧困国の自主性を摘み取っていたら逆効果です)、また、ボランティアを*やっていようがいまいが*自分に至らない点があるかどうかを常に検討する必要があります(例えば、廃棄量の見直しとか)。一方で、社会の一員である私たちも「ボランティアをしている組織=良い組織」だと考えてはいけないわけで、ボランティアをしていようがいまいが、その組織の本質を見極める必要があります。
そもそも、ボランティアが「善意」とか「慈善」と訳されること自体に問題があります。ボランティアとは本来、「(人の役に立つことを)自発的にやる」ことであり、聖なる行ないでも何でもありません。というか、そもそもボランティアは当たり前のようにやるべきことであり、罪深ければやってはいけないとか、善人だけがやるべきことだとかいうわけではありませんし、実際、世の中のボランティア事業の大半には、何らかの形で利権が絡んでいるのではないでしょうか。大手NPOでも無駄遣いは結構ありますしね。
また、そう単純な問題でもありません。例えば、「作り置きによる廃棄」。どのメーカーのことか分からないので厳密には言えませんが、過剰に余った食料や素材を捨てずに貧困国に寄付したとしましょう。すると、その貧困国で生産された食料にお金を払って買う人は減ります。すると、その貧困国の経済が回っていきませんし、生産者は、ますます貧困に陥ります。では、どうしたらいいのか。もしかしたら、企業は金銭で寄付したり、資金を投じて貧困国で教育事業を展開したほうがいいのかもしれません。しかし、そのためには、企業が潤っていないと難しいわけで、その潤いを得るためには、作り置きをしては廃棄するという「効率の良い儲け方」をする必要が出てくるかもしれません。だから廃棄して良いのだと言っているのではありません。単純には行かない面もあるということです。
とはいえ、冒頭で申しましたように、ボランティアに資格は要らないわけで、世の中の行き届かない部分に目を向けること、あるいは消費者に目を向けさせること自体にとても意義があるのだと私は思います。そして社会が一丸となって、各ボランティア事業が良い形で行われているか検討し続けることが必要だと思います。
お礼
まず初に回答ありがとうございます。 >その過程なり結果なりで人が助かっているのならそれはそれで良いんじゃないかと。 それなりに助けていると思いますが、企業の活動により苦しむ人のが多いと思われます。