いろいろな言い方ができると思いますが…
母性社会は全て一体化していて何事も平等で全体的な構成であり、一方で父性社会は何事にも区分けした理屈や個体を重んじる社会とするならば、これまでの日本は母型的で全体主義的みたいな分析がされています。日本という国そのものがずっと小宇宙的に鎖国していた部分がありますが、封建的な社会をやめ、唐突に西洋の政治形態を取り入れ、個人主義をとりいれ…これからも過激に西洋的な方向性がありますが、この個人主義だったり、タテ社会の理論が、日本人にまだないがために、多くの人間が虚無的な何かを感じているかもしれません。けれど、人間が言語を介さないからといって、気持ちを共有できない…故に「寂しい」「虚無」っていうのは筋違いではないでしょうか。どうしても対立的な部分はあるし、まぁ共有する部分もあるであろう…フェアな関係があります。
わたし(他人)とあなたが分かりあえないのは、私のせいではなく、あなたのせいでもあるかもしれません。
またその只中にあっても…
個体という認識をもっていながらも、心を共有できないと泣き言を唱えるのは、母性的な依存の精神に他なりません。自分自身や社会に、なんらかの真理的なモノを感じとって、虚無的な結論に至るのは勝手ですが、それは全体主義に依存しすぎているせいでは。
東洋思想にしても…この虚無を説明する理論にするには早計かと思います。浄土真宗の親鸞なんかだと、この苦しい現世において仏恩報謝しています。人間関係が寂しい以前に…どんな人間も仏に救われている←宇宙の(全体的な世界)から外れた人間なんていないって事を意味していると思います。
私の場合は、あらゆる社会において宇宙の原理と喩えましょうか、この真理から外れたアウトローがいないという点において、個体が存在しない危うさを自分自身の存在に感じます。
母性社会がどうだとか、構造主義がどうだとか、勉強していますと、変な方向に行き過ぎたのか、寂しさ以前に自分が個体として存在しているかどうか世界にすべてからめとられた、自分自身の無力感や恐ろしさがあります。
個体である寂しい認識ができるならば、
ある意味で幸せかもしれませんよ。
お礼
そうですね。 なかなか一人前の人物と言うひとにはおめにかかれませんね。 でも自分をしっかり高めていけば、いろんな人と出会い、いつかは素晴らしい方に出会える日もくると信じて生きていきます。 そうすれば、それをきっかけにもっと多くの方とも出会うことがきっとできると思います。