単に「関所を通らずに」ということなら、それは簡単にできたはずです。関所はいわば、破られるためにあるようなもので、関所がある場所では、関所破りを手伝って、金品を手に入れようというやからが大勢いたのです。
ただ、「徳川吉宗時代」という限定が付くと難しくなります。というのは、江戸時代最高の関所破りの達人というのは、他ならぬ、吉宗の陰の手足であった、「お庭番」と呼ばれる忍者の子孫たちだったからです。彼らが関所を守ると、破ることが難しくなります。
(関所破りを金品の代わりに手伝おうという者たちのなかに彼らが紛れ込んでいる可能性があります。彼らには目的と使命があるので、ただの風来坊が関所破りをしたいだけとなれば、そのまま通してくれます。しかし、彼らが判断してヤバイ人間は、途中で暗殺するか、捕捉します)。
もう一つ、関所を破ることができても、関所を通ると普通、よその国(藩)です。その場合、大藩では、公儀お庭番の類を国に入れないため、特別な監視をしていました。この場合、身振りや動作や、何と言っても、「言葉」が問題になります。「藩」同士の地元での公式交流はほとんどなく、よほどその藩の言葉・方言を学んでいても、対公儀隠密のこれも忍者の子孫にかかると、正体がすぐ分かったのです。
しかし、関所は、厳重なようで、迂回すると何のこともありませんし、確かに地元の人には分かるかも知れません。しかし、地元の人こそ、関所破りの常習犯でしょう。関所を破る人間に賞金がかかっているとかいう事情でもない限り、問題は、箱根の関所などになり、数が限られて来ます。ところが、こういう関所ほど抜け道が多いというのが実状です。
公儀隠密だと疑われないようにし、また逆に、藩の隠密だと疑われないようにすれば、金と知識とコネ次第で、全国自由自在に旅ができたのが、江戸時代です。どこかの藩発行の「仇討ちの承認証明」を、どこかから手に入れれば、それらしい姿や所作で、関所は自由に通れたでしょうし、これも「関所破り」の方法だとも云えます。
江戸時代は、前期はまだ戦国の混乱が残り、秩序を立てるのが幕府として難しく、中期の吉宗は綱紀粛正しましたが、ターゲットがありました。そして江戸時代中後期は、商人の擡頭が著しく、諸藩は自己の経済困窮解決のため、特産品を発明して、これを他藩や天領、江戸・大坂などに売りましたから、ますます物資・人間の交流は盛んになります。こういうことを実践し、推奨したのは吉宗自身です。物資や人間の往来が多くなると、諸国を分断するために造った関所は、むしろ邪魔になってきます。関所は有名無実化して行くのです。
お礼
幕府、言葉、時代〃の関所のありかた、などなど。実に広い面での回答、ありがとうございました。吉宗の時代にお庭番が存在したとは、小説などで存じていましたが、そのような職務までは知りませんでした。彼等が動くとすれば、容易にはいきそうにありませんが、一般人になりますと、お金と知識、コネなどがあればどうにかなりそうなものなのですね。大変参考になりました。