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力を入れると力を出すとの違い
武道をしていて、力を入れるな力を出せと言われるのですけど、その違いが分かりません。と言うか違いがあるのですか?
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アメリカで使える伝統空手と護身術を教えている者です。 (私のプロフィールを見てください) この表現にはいろいろな意味があります。 英語ではDon't force it, use the force (properly).とかEffective power is not force alone.とかDon't rely on force but use it.とかAbility is not how to generate force but how to generate furceful "you".とか言うような表現をしてこの日本語と同じようにいろいろ(多くについて)な「教え」を説きます。 私のプロフィールでお分かりのように、武道が使える業界で指導員の指導をしています。 その教えのひとつに、Communicate!と言う項目があります。 つまり、「説教」をするな、「一方方向的講義をするな」と言う事なのです。 指導員とは説教者ではないのです。 指導員とは指導される側の者が実力をつけられるようにする人なのです。 一方的に教える(説教みたいに)だけが指導をするという風習がある日本の多くの道場は結果として、「素人のコーチが教えても自然に強く・うまくなる人だけ(生まれつき運動神経が良い、とか)」のものに成り下がっているのです。 この日本語の表現には、冒頭でも書きましたが、いろいろな意味を持っています。 力むな、必要なときだけ力を使え。 対になっている筋肉群をうまく使え。 スピードを出すための筋肉には力を入れるな、しかし、貫通力を出すためには当たる瞬間に力を入れろ。 更にもっと抽象的(武道的)な思想の、力(実力・能力)は自分に入れるための物ではなく、いつか出す(使えるようになるために)為の物である。 (この件は非常に大切な部分なのですが、力を筋肉の力ではなく、実力と言う意味で使われていますが、このことで誰か質問があれば、この質問の中ではなく改めて質問してください) なぜ私がこのご質問への回答に「指導員」と言う事を書いたのかちょっと説明させてください。 近代武道の基礎、についての説明でもあります。 今回のように様に、いろいろな意味を「教え」がある表現を指導員が使うとき、「奇麗事」「かっこいい表現」「覚えておきたい表現としての表現」で済ましてはいけない、と言う事なんです。 武道にはすばらしい心を打つ表現がたくさんあります。 武道の持つ神秘なところの一部でもあるし、また、おぼえやすい表現にもなっていることが多いのですが、それと同時に、とり方によって多くの意味を持っていると言うことを忘れてはならないのです。 (ことわざ的な「継続は力なり」の継続すれば力になる、と言う意味と、もっと大切な、継続できると言うことはそれ自体が実力であるから継続できる自分を作り出すことが必要、と言う意味でもある、と言う複数の意味があるのと似ていますね) そのためにも、指導員がその表現を使うときにはその表現のいろいろな意味をしっかり把握していなくただ使うとなると教えられる側は「その表現を表現として覚えるだけ」になってしまうわけです。 ですから、これらの表現を使うときに、その表現を使ったときの意味合いを弟子・生徒が本当に分かっているか「確認」する必要があるわけです。 そして、指導員は弟子・生徒に「あいまいなときには必ず聞き返し確認する」また「確認しやすい」情況を作ってあげなくてはならない、と言う事にもなるわけです。 なぜでしょうか。 それは、今回と同じように、この表現を聞いて意味がはっきりしなかったにもかかわらずtakemusuさんは「聞き返して説明をしてもらわなかった」と言う事が起こってしまうわけです。 そして本人に聞かずにほかの人に聞くと言うことになってしまうわけです。 そして、ほかに人に聞くと言うことになるわけですが、この表現がなぜそのときに使われたのか、ここにいる私たちには分かりませんね。 使われている情況が分からなくてはその指導員がどういう意味で使ったのか分からないということなのです。 つまり、指導員はこの表現を「何かを教えるために追加・サポート」として使ってtakemusuさんにより「うまく」なるようになってもらうためのコミュニケーションの一部だったわけですね。 しかし、私たちにはその意向が分かりませんし、分かるわけもないのです。 さらに、takemusuさんの武道への知識や経験のレベルが分かりません。 上に書いた「武道の抽象的考え」を教える格好のタイミングだったのかもしれません。 そんなときに「力むな」の意味だ、と私たちが言ったところで何の効果があることでしょう。 聞き返してください。 自分が納得するまで聞き返すのです。 確かに教えられない指導員は存在します(存在しすぎと私は言いますが)。 しかし、takemusuさんは「教えられている」立場なのです。 教えてもらわなくてはならない立場にいるのです。 この表現を使った指導員はあなたを「教える」立場にいるのです。 あなたに「説教」「知っていることを朗読」する立場の人ではないのです。 ですから、道場に帰ったときにぜひその指導員に聞いてください。 この表現を説明できない指導員であれば「自称指導員」と言う事になるだけのことです。 しかし、この表現を使ってあなたを教えようとしたのであれば、この表現をあなたが理解し、納得し、そしてもっと大切なことですが、あなたがこの表現の要素を「使える」ように「導くことが出来なくてはならないと言う「責任」もあるのです。 私がなぜ私の半生とも言える期間を「指導員の養成」にこだわってきたか少しお分かりになってもらえましたでしょうか。 最後にひとつの「武道訓」を書き残させてください。 日本ではあまりにも表面だけの意味を教えてもっと武道的、言い換えるともっと科学的な「教え」をしていない物です。 それは、空手・武道に先手無し、です。 先に手を出すな、喧嘩を売るな、だけしか教えてくれないのはおかしいと感じる私です。 (子供に武道を教えるわけじゃなるまいし、と思ってはいけませんか) ask(聞く), doubt(疑う), challenge(挑戦)の武道精神、うまく使ってくださいね。 これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。
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- Forseti
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力を入れるとは、力を内側に溜めること。 そして、力を出せとは、内から外に向かって力を伝えること。 多くの武道は相手を倒すために技を出すのですから、相手に伝わらないと意味がない。 力を入れたら体が動かない。なぜなら、力を入れる=筋肉を収縮させる=体が動かない。 結局は、筋肉を伸ばさなければ技を繰り出せないんです。 ですから、「力を入れず、(相手に向かって)力を出せ」となるわけです。 近年、空手を科学的に解釈することが流行っています。 そのなかで、重要なのが「脱力」です。 すなわち、技に入る直前に体の力を全て抜き、インパクトの瞬間にのみ力をこめるのです。 技の最初から最後まで、体には余計な力が入らず、相手に接触する部分にのみ力が加わっている、というのが理想形なのです。 最初に力が入っていれば、それを脱力させるのに時間を食い、 途中で力が入っていれば、関節のスムースな動きを邪魔し、 最後に力をこめても、それまでの過程で力の方向をずらされ、よい技が繰り出せないのです。 これが「力を入れずに、出せ」と言われる所以です。 逆に、相手に力を伝えず、自分の内に溜める事もあります。 空手の三戦や、柔道の投げ技(足技は違う)などです。 おもしろいのが、唯一武道の中で、脇を開けることを指導するのが柔道です。 他の武道が脇を締め、力の伝わる方向を整えるのに対して、 柔道の投げ技は力を内に溜めることが主なので、脇を開けることが出来るのです。
お礼
ありがとうございました。
- wi06001
- ベストアンサー率52% (11/21)
合気道をしている者です。 『力をいれている』と感じているときは、上半身では縮める方向に働く筋肉を動かしているときです。上腕二頭筋(ちからこぶ)などがいい例です。しかし、突きや投げ、剣や杖などは、腕を伸ばす方向に動かすほうが多いのです。だから力をいれようと意識すれば、逆の筋肉が働いて逆効果のようです。 私は先生に『気を指先から出せ』と言われて『気なんてあるわけねーじゃん』と思いながらも、出しているイメージで身体を動かすと技のきれや重さが全然違います。 力をグッと入れるイメージではなく、外側に出すイメージでやってみたらいいかも知れません。もちろん簡単ではないですし、私も出来ているわけではないので確実にそうだとはいえませんが。
お礼
ありがとうございました。
- simoyama
- ベストアンサー率27% (118/432)
「力を入れるな」で言ってる力は余分な力、力みのことを指しているのでしょう。 反対に「力を出せ」では「本来の力を出せ」と言っているのだとおもいます。 スポーツに限らず音楽でも仕事でもどんな事も必死になりすぎると肩に(単に体の部分としての意味でなく)力が入り本来の能力が出せません。深呼吸をして気持ちを体の下に持って行った方が上手くいきます。ゴルフや野球のスイングを見ればわかるように一流のプロは必死さむき出しでスイングしていません。 それと同じことではないでしょうか。
お礼
ありがとうございました。
お礼
ありがとうございました。