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童謡「桃太郎」の歌詞
2番についてですが、「ついて行くなら」ではなく「ついて来るなら」ではないのでしょうか? http://www5b.biglobe.ne.jp/~pst/douyou-syouka/02kodomo/momota_k.htm
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No.10です。私もこれを最後にします。 >作詞者は「行く」「行くぞ!」と言う言葉を使って、 >鬼を征伐に行くと言う桃太郎の強い意思と、 >それに協力する動物たちの決意を強調したかったのだと思います。 私の一番最初の回答にもあるように、上記ご意見に全く賛同致します。 私も最初から質問者様の意図をくみ、あくまで日本語としてどうか?ということにのみ言及してきました。日本語としておかしいからと言って、作者を非難するつもりもないですし、「桃太郎」という作品事態を攻撃するつもりは全くありません。むしろテンポが良くていい歌だと思いますよ(四番以降はちょっと怖いですけど・・・)。 以下、この問題に対する私なりの結論です。 1.2番の歌詞「ついて行く」は、文法として誤りとまでは言えないが、 言葉の用法として不適切であり、歌詞の状況であれば「ついて来る」がふさわしいと 考えるので、この点ついては、質問者様に賛成します。 2.しかしながら、作者としても1.については理解していただろうと想像しますので、 桃太郎の「勇ましさ」を強調するうえで敢えて「ついて行く」という言葉を選んだのでは ないかと思われる。 3.あくまでも「歌詞」である以上、リズムや語感というものを優先して言葉を選ぶ例は古 今多数あり、また、それを聞くものの解釈・感じ方も人それぞれなので、厳密に日本 語としての「正しさ」を歌詞に求めても仕方ない。 以上です。
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文法的にどうかと問われたら、少し変ですねと答えるでしょう。 しかし、 「ついて行くなら」ではなく「ついて来るなら」ではないのでしょうか?と問われたら、 「ついて行くなら」で正解ですよと答える以外ありません。 作詞者がそう書いたのですから。 文法的にどうなのかの問いならば、最初からそう記入すべきです。 質問文を見る限り、それを予測するのは無理です。 舌足らずだと思います。
お礼
文学カテゴリでなく国語カテゴリで質問したのだから、文法(と言いますか 表現技法)的な議論をしていただけるだろうという考えが甘かったと反省しています。 今後の質問では適切な回答をいただけるよう、工夫していきたいと思います。 アドバイスありがとうございました。
文法で考えると随分難しくなるんですね。 作詞者は「行く」「行くぞ!」と言う言葉を使って、 鬼を征伐に行くと言う桃太郎の強い意思と、 それに協力する動物たちの決意を強調したかったのだと思います。 「ついて来る」これでは耳から入るイメージが弱いと感じるのは私だけでしょうか。 ついては来るけど、本当に手伝うの?と言う気がします。 勇ましい感じを出すなら、やっぱり「ついて行く」でしょう。 福岡県では、自分が先方に出向く時に「すぐに行きます」と言う意味で、 「すぐに来ます」といいますが、 これも、すぐに着くことを強調している言葉だと思います。 「ついて行く」を使って、強調しているのだと思います。 それよりも最初に、「やりましょう」といっていたものがなぜ、 「あげましょう」になったかの方が、私には気になります。 これも、曲や詩のテンポを考えての事でしょうが・・。
補足
どちらも文法的に正しいとした場合は 「ついて来る」…犬たちのいる地点から桃太郎の間の距離 「ついて行く」…犬たちと桃太郎が出会った地点から鬼が島までの距離 を想像することになるでしょうから、桃太郎の勇ましいイメージを表すために敢えて「ついて行く」としたのかもしれませんね。 あるいは福岡県の逆のパターンがあるのかもしれませんね。 「来る」の意味で「行く」を使う地方の出身者だったとか。 「やりましょう」→「あげましょう」は気づきませんでした。 「『花に水をあげる』は誤用で『花に水をやる』が正しい」という話を聞いたことがあります。 尤も現代では「『花に水をあげる』も正しい」という説もあるようですが。
No13です。 最後の回答にします。 >「(自分に)ついていく」を使った文章を何か作っていただけないでしょうか。もちろん「ついて」と「いく」の間に何か入れてはいけません。 私が興味があるのは桃太郎の歌詞の解釈だけです。詩は各人が解釈するものです。明治以来多くの日本人がこの歌で教育を受け、代々受け継がれてきているこの歌詞の日本語の使い方に納得しています。他の状況を設定して行く・来る論争をしてもナンセンスだと思います。本来の質問ー回答から逸脱すると削除の対象にされかねませんよ。
補足
つまり (1) 文法的には「ついて行く」も「ついて来る」もどちらを入れてもよい。 (2) 作詞者が「ついて行く」にしたのだから、「ついて行く」が正しい。 ということでしょうか。
No.9です。 もう回答する気はなかったのですが、一点気になるコメントがあったので。 >理由はどうあれ、歌詞が正しいと思い込みたいようですね これは当然です。まず文章を作成した人が正しいという前提で理解しようと努めなければ、それは相手に対して大変失礼なことです。 あなたは行間を補うなと主張していますが、そもそも歌詞のように限られたスペースの中に意味を込めようとすれば、必然的に多くの言葉を省略せざるを得ません。逆に作詞者の立場からすれば、歌を聴く人が正しく補間してくれることを願うわけです。 文法的に誤りだと声高に主張する以前に、どうすれば相手の意図が理解できるかどうかを考えてみてください。
お礼
何度も回答していただきありがとうございました。 他の方のお礼にも書きましたが、文学的要素は一切排除して答えていただきたかったのですが「文学カテゴリでなく国語カテゴリで質問したのだから、国語的な議論がなされる筈だ」などという甘い考えでいたため、説明不足な質問文を作成してしまいました。
- chuji02
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No.10です。 決して他の回答者様と論戦をはったり、まして非難すrつもりは毛頭ありませんが、ちょっと納得いかないです。 >No.10の方の回答で取り上げておる例文には問題があります。それは「ママについて来る」という文には、 >行き先が明確に示されていないので、動作の基準点を「ママ」にせざるを得ないということです。 >したがって「ママについて来る?」という表現しかあり得ないのは当然です。 >しかし例えば子供が行きたいのは公園で、母親も公園に行くところだった場合、 >「公園に行きたいの?ならママについて行く?」は当然成立する表現です。 ええ!?本当にこの表現が成立しますか?ちょっとビックリです。ものすごく不自然に感じます。 目的地が明確であろうがなかろうが、 「公園に行きたいの?ならママについて行く?」→これは横にいるパパの台詞でしょう? ママが言うのなら、「公園に行きたいの?ならママについて来る?」 しかないと思いますが? No.11さんの例文と私の例文とどう違うのか全くわかりません。 私の例文の「買い物に行く」をもっと具体的に行き先を明示して、「本屋さんに行く」「コンビに行く」と変えても同じことだと思われますが? 行き先の明示の有無によって「行く」と「来る」の使い分けが本当にあるのでしょうか? もう少しわかり易い例があれば教えてください。 自分で考える努力もしているつもりですが、全く思いつきません。 私が思うにあくまでもこの二つの動詞は動作のベクトルと発話者の視点に違いがあるわけで、AがBに付き従って今いる場所Xからある目的地Z(目的地Zが明確か否かに拘らず)へ向かう場合、 (1)発話者がAの場合、私(A)は(XからZに向かって)あなた(B)について「行く」 であり、 (2)発話者がBの場合、あなた(A)は(Xからに向かって)私(B)について「来る」 です。 そして、発話者がそれを観察している第三者Cであった場合、 (3)彼(A)は(XからZに向かって)彼(B)について「行く」 となります。 この問題は、文法とか品詞がどうとか言う問題ではなく、「行く」と「来る」という言葉の用法の問題であり、上記(2)の状況で、「行く」を使った用例が問題の「桃太郎の歌詞」以外にあれば教えて欲しいです。 ※例文はダメですよ。“成立します”って言い張られても納得できませんので。小説でも何でも良いので過去の文献にそういう用例があることを具体的にあげてください。そうでないと私も質問者様も納得いかないと思います(ですよね?)
お礼
私の聞きたいことを代弁していただき、ありがとうございます。
- heisenberg
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「ついて行く」は 明らかに間違いですね。 ここでは「鬼が島に行く」のは桃太郎自身で ついて行くのは猿や犬などです。そして2番の歌詞に於ける発言者は桃太郎ですので 厳密に歌詞に沿って解釈するのなら「ついて来る」でなければなりません。 回答者の方の中には 自身で文言を勝手に挿入して解釈されておられる方も見受けられますが そういう風な手法を採ると この世の全ての文章(小説などの文芸作品や法律の文言 産業の技術マニュアルの文・・・etc)はどのようにでも解釈可能になってしまいます。それを避けるためには 可視(歌詞ではありません。念のため・・・)の文言に沿って解釈する必要があります。そして その場合 今回の件について言えば 繰り返しになりますが 歌詞に沿って素直に背景・条件等を勘案して解釈すれば「ついて行く」の用法は間違っていて 「ついて来る」でなければ 正しい表現とはなりません。
補足
正しい表現ではないが、他の解釈のしようがないので意味が通じてしまっている ということでしょうか。
No.9です。 No.12の方が回答さfれているように、「ついていく」は本来「付く+行く」の複合動詞なので、「付く」と「行く」に分けても意味は変わりません。「ママについていく」が「ママについて公園に行く」であっても、何の問題もありません。 同じことの繰り返しは好みませんが、「省略可能か否か」は「省略によって意味が取り違えられる恐れがあるかどうか」に「よってのみ」決まります。文章の流れから、行き先が公園であることが理解できる相手に対しては省略可能ですし、その理解力が無いと思われるなら省略不可能です。逆に意味の取り違えの恐れが無いのなら、例えば「な?」「ん!」でも立派に「文章として成立する」のです。 そもそも『省略したら「行く」が補助動詞になってしまう』など何を根拠にしているのですか? >「(自分に)ついて(征伐に)いく」という強引な解釈をせざるをえない気がしてきました。と書いたことについてはいかがでしょうか。 既に「鬼の征伐に」と書かれているのですから、ここでは「(自分に)ついて(征伐に)いく」のでは無く、「(自分に)ついて(鬼ヶ島に)いく」のです。 問題なのは、「行く」か「来る」かは、相手=犬・雉・猿の移動に関する基準点を、鬼ヶ島に置くのか、桃太郎に置くのかという点だけです。作詞者は鬼ヶ島に置いているつもりなのですから、あなたが「桃太郎でなければいやだ」と主張しても仕方ありません。 >できたら何か例文を作っていただけないでしょうか。 自分で考える努力もしてください。「これだけ説明しても納得できないのなら、もう回答はいたしません。」
お礼
まだ納得できていませんが、回答していただいたことについては感謝いたします。 今の私には「理由はどうあれ、歌詞が正しいと思い込みたいようですね」としか言えませんが。
No12です。 この欄では各人が信じることを述べるのであり他人との論戦や評価は行えません。判断は質問者さんが行ってください。 私の解釈はすでに述べたとおりです。作詞者の視点の差であり、日本語としてどちらも使える状況です。 俺について来るなら(何のために?鬼が島へ行くために)、俺について行くなら(どこへ?鬼が島へ)と解釈すればどちらも可です。これまで多くの日本語或いは詩の大家のチェックを経て今日に至っているのでA,Bどちらでも良いが、この作詞者はAを取ったと柔軟に考えられませんか。
補足
誹謗中傷はあってはなりませんが、他者の理論を否定できない理論なら、 私は「正しくない」と判断せざるをえません(個人的な評価ではありますが)。 「(自分に)ついていく」を使った文章を何か作っていただけないでしょうか。 もちろん「ついて」と「いく」の間に何か入れてはいけません。
No8です。 ついて行くとは主人公に従って(或いは主人公の後ろを)行くという意味ですから動詞の行くと解釈して良いでしょう。 桃太郎は約100年前に制定された文部省唱歌の小学校低学年用の歌(原典は童話)ですから、文法的には問題ないと思います。時代を経て理解しにくい(特に童話を知らなければ)点はあっても、明治を代表する歌が大正、昭和、平成と生き抜いて来た歌です。短縮(省略)された歌詞に解釈が分かれることがあっても、間違いということは考えられません。
補足
No.10さんが述べられた件については、いかがでしょうか?
No.10です。 質問者の方は理由はどうあれ、おかしいと思い込みたいようですね。私は「同一文の中で主語が食い違うのはおかしいのではないか?」という質問だと考えたので「そうではない」と回答しただけです。「表現が気にいるかいらないか」に答えたわけではありません。 No.10の方の回答で取り上げておる例文には問題があります。それは「ママについて来る」という文には、行き先が明確に示されていないので、動作の基準点を「ママ」にせざるを得ないということです。したがって「ママについて来る?」という表現しかあり得ないのは当然です。 しかし例えば子供が行きたいのは公園で、母親も公園に行くところだった場合、「公園に行きたいの?ならママについて行く?」は当然成立する表現です。 「行く」か「来る」かは単に基準となる点が異なるだけで、動作そのものは同じです。この歌の場合、「鬼ヶ島」という目的地は自明なのですから、「ついて行く」としても問題は無いのです。 >主文と副詞節の主語が異なっても、主語の省略は可能なのでしょうか? もちろん「主語の取り違えが生じる恐れがなければ」可能です。
補足
思い込みが激しいので、かなりな説得力のある説明でないと納得できないことが多いです。すみません。 例として挙げられたものも「ママについて行く?」は私はおかしいと思います。 「ママについて来る?」または「ママについて公園に行く?」であり、後者の文で「公園」は 省略不可能だと思います(省略したら「行く」が補助動詞になってしまう)。 私の周囲には「行く」と「来る」を区別せず適当に使う人間がいるので、 歌詞も挙げていただいた例文も理解できますが、ちゃんと考えるとやはりおかしいと思います。 私が「お礼」欄に >「(自分に)ついて(征伐に)いく」という強引な解釈をせざるをえない気がしてきました。 と書いたことについてはいかがでしょうか。 強引かどうかは主観が入るのでどちらでも結構ですが。 >もちろん「主語の取り違えが生じる恐れがなければ」可能です。 できたら何か例文を作っていただけないでしょうか。
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お礼
「文法的」という言い方は適切でないかもしれませんね。 2につきましては、作詞者の生い立ちや現代との言葉の用法の相違などの可能性の 考慮も必要と思いますので、手放しで賛成できるまではいきませんが、 1と3につきましては全く同感です。 何度も回答いただき、ありがとうございました。