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人間は死んだ後の事まで考えるべき?
先日、身近にこのような体験をしました。 A子さん(50代後半)は、1年前に癌の症状が出始めて以来治療を受けていたのですが、半年後には末期癌で余命の短い旨、告知を受けました。 もともと闊達で大変に自主独立の気風の強かった彼女は、すぐさま自分の荷物を処分したうえでホスピスに入所し、自分の最期を待ちました。そして、彼女は夫であるB氏に、2つのことを依頼したそうです。 ひとつは、自分が死んでも決して葬式を出さぬこと。 彼女は特に何かの宗教に信仰があったわけではなく、死者のために生者をわずらわせまいと考えたようです。 もうひとつの依頼は、自分の死後、最低3週間のあいだは親戚に死亡の通知をしないこと。 夫婦の間に子供はなく、A子さん側の親戚は実家だけですが、死亡通知が届けば葬式をしないでは済まなくなることを彼女は懸念したのでしょう。 A子さんが亡くなった時、彼女の考え方を尊重していたB氏は、かなり無理をしてその事実を伏せ、約束の3週間があけて初めて妻の実家を訪れ、謝罪と共にその旨を報告したのですが、実家では連絡がなかった事を大変な不実として立腹し、B氏との仲は険悪至極なものになってしまいました。妻の遺志を尊重したがために、生者間の関係にひびが入ってしまったのです。 さて、この実例をみなさんはどうお感じになりますか。 率直なところをお聞かせ下さい。
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- jun1038
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どうも。補足を受けまして、 自分なりの意見を少々述べさせて頂きたいと思います。 皆さまからはお叱りの言葉を頂戴しそうですが、 この問題に関しては、私は完全に個人主義者です。 葬儀というのは、すぐれて死者のためのものである、 死者の一生がそれで完結する、と考えます。 遺族の都合とか、おまえは多くの人にお世話になったんだろうとか という言い方には、大変申し訳ありませんが、一種の嫌悪感すら覚えます。 私の祖父は、脳内出血で倒れ、足かけ7年、自宅でほぼ寝たきりの生活でした。 私の母は、その間、血のつながらない祖父の食事や下の世話まで、 献身的な看病を行いました。今思えば大変な事だったと思います。 祖父がやがて死んだとき、祖父は自分の葬儀について 明確な希望や指示を残さずに逝きましたので、 当然、普通の葬式を出すことになりました。 私の家は商売をしていましたので、むしろ葬儀は周辺の家々よりも 大きなものであったと思います。 さまざまな葬儀の事柄が終わったとき、母は長い間の看病の疲れと葬儀の疲れで 病を得て何週間か寝込んでしまいました。 葬儀は先人の知恵、忙しくすることにより時が過ぎ、 時の経過は最も優しい癒し方であると言われる方もいらっしゃるようですが、 それはまったくケースバイケースです。 慌ただしい葬儀よりも、もし、個人が簡素な葬儀を望んでいたとすれば、 そういった葬儀でゆっくりとしっかりとお別れの実感をかみしめることも またあり得ることなのです。 病床に伏す母の姿を見て、残された者の健康をむしばむような葬儀とは いったい何なのだろうと思いました。 当時の私が考えたことは、確かにそんな葬儀は下らないかも知れないが、 死んだ祖父がそのような葬儀を望んでいたら (明確な指示がないということは「普通」を望んでいただろう というのが一番妥当でしょう。) 祖父をそういった葬儀で送ってあげたことが、祖父に対する家族の礼儀、 はなむけであろう。そういったことでした。 そうとでも考えなければ母の立場はありません。 話は変わりますが、以前、キリスト教徒の自衛隊員の方が亡くなった時、 彼の奥さんが、靖国神社への合祀をやめて欲しいと言ったのに、 裁判所が、国の「宗教の自由」などを言って、 合祀を認める判決を出したことがありましたよね。 私は非常に悲しくなりました。私自身は無神論者ですが、 他の個人の宗教の自由は最大限に尊重されるべきであると思っています。 国という「遺族」、自衛隊という「遺族」の都合で、 本人や奥さんの意志が曲げられていく。奥さんの悲しみはどれほどであったろう、 彼の霊魂がもし存在するとすれば、どれほどその御霊は傷つくだろう。 ムラ葬などと個人の意志を考えない葬儀をする方が、 よほど「宗教への不敬者」「お気楽な無神論者」に思えます。 最後に私が作ったおとぎ話をして、終わりにしたいと思います。 「近未来」のある国に若者がいました。若者には美しい婚約者がいました。 その国は戦争を始め、若者には召集令状が来ました。 若者は戦争が嫌いでした。人と争うこと、人を傷つけたり 殺したりすることが大嫌いでした。 でも召集に応じないと家族や婚約者が「非国民」として迫害されるのです。 彼は愛する者のため戦争に行きました。 そんな彼の希望は、 「自分は好んで戦争に行くのではないのだから、 もし戦争で死んでも葬式はあげないでくれ。 へたに葬式をあげると「王様」のための「英雄の死」になってしまう。」 というものでした。 彼はやがて戦争で死んでしまいました。 婚約者は、彼の意志を尊重して葬式を出さないようにと考えました。 彼の家族も最初はそれに賛成しました。が、周囲から、 「今までさんざ共同体の世話になってきたんだろう」とか、 「普通、戦争で死んだ者は、みんな王様のための英雄として尊敬されるべきだ」 とか言われて、とうとう「普通」の「王様のための死をたたえる」葬式を 出すことになってしまいました。 遺族としての家族には、いろいろ都合もあったのです。 その国には、そんな葬式だらけだったそうです。何も知らない少年たちは、 そんな「英雄の死」の「式典」に感動して、どんどん戦争にいきました。 「王様」のために、敵艦にどんどん体当たりして死んで、とうとうその国は 若者がいなくなり滅んでしまいました。 何を極端なことをと、お叱りを受けそうです。 いい年をして甘いことをと、ご批判を受けそうです。 でも、私はこだわりたいのです。 この件の本質は、一見関係ないように見えて、 実はこのようなことではないのかと考えているからです。 それでは。
- odd-art
- ベストアンサー率9% (31/325)
喪主が考えればいいことでしょう。 実家も了見が狭い。ただ、温情としては、お別れがしたかったと存じます。 本来は、密葬でもちゃんと説明すべきでしょう。各宗派としての慣例もあるでしょうからね。 如何ですか? 実際、遠縁であっても連絡が欲しい所です。
お礼
どうもありがとうございました。 質問の性格上ポイントを差し上げられないのが残念ですが、どうぞご了承ください。
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どうもありがとうございました。(何度もご意見を頂いたのに、この前は消えてしまい残念でした) odd-artさんのような篤信の方はいろいろ思われるでしょうね。私としてはこういう動きが、「宗教への不信・無関心」を基礎に、「自分の体は自分のもの」という個人主義を骨組みに進んで行くのはちょっと寂しい気がします。 昔の葬儀はムラ葬で、喪主は何も口をはさめずに進みました。それが家族中心、喪主の意向が中心になって現在にいたりますが、そのうち故人の自己決定が喪主の意向に勝るようになっていくのでしょうか。
- DASS
- ベストアンサー率38% (116/304)
「A子さんが、自分の葬儀をしないよう、自分の実家を説得するべきだった」 言いやすい人、および、説得しやすい人、言わなければならない人(つまりA子さんです)が言うべきだったのでしょう。 それをB氏に任せてしまったのが、A子さんの配慮の無さです(死者にむち打つようで心苦しいですが)。 通常考えられるような葬儀の形態であれば、説得は必要無いというのが普通なのでしょう。 A子さんのように、通常とは違うことを望むのであれば、自分のために争いになるのを避けるため、きちんと説得しておくか、遺族に遺言を残しておくべきだったのではないでしょうか? 「人間は死んだ後のことまで考えるべき?」 というのが御質問のタイトルですので、 「残る人たちに迷惑をかけないようにしたいのであれば、十分に考え、関係者を説得し、納得してもらうべき」 と言う回答を差し上げたいと思います。
お礼
どうもありがとうございました。 質問の性格上ポイントを差し上げられないのが残念ですが、どうかご了承ください。
補足
どうもありがとうございました。 全くの正論ですね。今回のケースは、考え方うんぬん以前にちょっと社会的なつきあいの常識レベルでコミュニケーション不足ですよね。 生前中に説得を重ねていれば了解してもらえたかどうか、ifの話でしかありませんが、一般的には説得される方も正直いってなかなか受け入れにくいでしょう。A子さんのご両親がご存命かどうかわからないのですが、仮に自分の子供からこういうことを持ち出されたら…おまえは一体どこから生まれて、どうやって育ってきたの?っていう気になるでしょうね。
- oo1
- ベストアンサー率26% (100/378)
実例の場合、「死者のために生者をわずらわせまい」とする「遺志を尊重したがために、生者間の関係にひびが入ってしまっ」たのです。遺族は、現実社会と折り合っていかなくてはならない。遺志はそれとの兼ね合いで尊重されるべきです。 既にご承知の通り、弔いの諸式は実にめまぐるしく、遺族に悲しむ隙を与えてくれません。そして、ふと気付いてみると、早や三回忌なんて具合です。時の経過は最も優しい癒し方ですね。かかる意味において、本件の故人の思い遣りも、先人の知恵に心及ばすと言えるのです。 弔いは遺族の都合に任せるとするのが、黄泉に旅立つ者の最後の配慮だと思いますね。少し早いのかもしれませんが、回答しながら、そう決めましたよ。なお、「経験者」とは、遺族としての経験です。勿論、それ以外あり得ませんが…。
お礼
どうもありがとうございました。 質問の性格上ポイントは差し上げられませんが、どうかご了承ください。
補足
どうもありがとうございました。 確かに、あれやこれやで遺族に悲しむ間もなく事を消化させるという現在の弔いは、必ずしも悪いことばかりではないですよね。古い習俗には、時間の経過のなかでの遺族の心の変化も織りこまれていますから、刹那的な「こうしたい」っていう情動に流されないで済む、というのもありますし。 弔い(とむらい)という日本語は、訪い(とぶらい)という言葉とつながっているのだそうです。縁者が故人との生前のつながりを偲んで訪れてくる、それが即ち故人の弔いになる、ということですから、遺族は少なくとも弔問は受け入れられるようにして欲しい、と思います。
- jun1038
- ベストアンサー率49% (138/278)
こんばんは。 私自身は、A子さんのようなタイプの人間です。 ただ、葬式くらいはしても良いとは思っています。 私が死んだら、坊さんも神父も神主も呼ばず、 親しい人たちに私の好な マイク オールドフィールド の曲を お経代わりに聞いてもらって、それだけでお葬式の終わり。 あとは自然の中に散骨をしてもらいたいです。 妻にも言葉では話してありますが、 具体的なことはまだまだです。 もし私の死期が近づいたら一気に具体化して行くでしょう。 もし、私が死んだ後、私の思い通りにならなかったら、 その時はすでに私はこの世にいないわけだから、変な言い方ですが、 私としては大変悲しいです。 B氏は妻のA子さんが喜んでくれると思い、彼女の願いを実行した。 B氏は妻を愛していたからこそ、その死後も妻の意志を尊重した。 B氏は、A子さんと結婚したのであり、A子さんの親や親戚と 結婚したわけではないのです。 確かに、昔風の考えでは、結婚も、出産も、そして葬式も、 家のため世間体のため回りの人のためということもあったでしょう。 でも、そういった考えは、現在急速に変わっていっていると思います。 このケースの場合、BさんはあくまでA子さんの意志を尊重したわけであり、 他人への大きな迷惑にもなっていない(親戚にしてみればいい迷惑か?) わけですから、妥当性は充分だと思います。 こういうケースは増えていくと、 そして社会的にもっと認知されていくと思います。 それでは。
補足
どうもありがとうございました。これまた、別の意味でよくわかるご意見だと思います。確かに今後は増えていきそうですね。 ただ、少し私がひっかかるのは、「死んだ後まで自分のコントロールを及ぼそうというのはどうなのだろう?」ということです。現代は自己決定を尊重して、「自分の体は自分の所有物だからどうしようと自分の自由」という風潮が強いですが、やはり人間は自分の意思で生まれ出でたのでもないし、自分ひとりで生きてきたわけでもありません。望む望まないを問わず、社会的な網の目のなかの存在として生きているのではないでしょうか。 jun1038さんは「死んだ後思い通りにならなかったら…悲しい」ということですが、私は逆で、もう自分はいないのだし、死んだ後はまわりの皆さんの気の済むようにしてもらったらいいな、と思うのです。たまにはチューブラー・ベルズもかけてもらえば尚うれしいですが。
- tino
- ベストアンサー率16% (11/65)
まずはA子さんという方のご冥福をお祈りします。 私としては、A子さんの言い分(気持ち)も分かる気 はしますが、それでも、それは間違っていると思います。 A子さんが生前どのような生活だったのかは知る由もありませんが、 やはり、人の子として生まれ育ってきた以上、人とのつながりは無視してはいけないと思います。 「人のつながり=葬式」ではありませんが、 A子さんの死を悼む気持ちを持つ家族やお知り合いが居るわけですよね。 その人の気持ちを無視してしまうことに繋がるのではないでしょうか。 後に残されその生死も知らされなかった御親類は悲しかったでしょう。 葬式を出さないことは譲っても、死亡の知らせはすべきだったし、そのうえでB氏が親類縁者にA子さんの言い分をしっかり伝えて、A子さんの意に添うように説得すべきだったと思います。 とはいえ、当事者じゃないから、言えることかもしれませんけどね。。。
お礼
どうもありがとうございました。 質問の性格上、優劣のポイントは差し上げられませんが、どうかご了承ください。
補足
早速ありがとうございました。 良識的で、大きくうなずけるご意見を最初に頂いて、正直ほっとしました。 生前のA子さんとご実家の関係は私も察するしかないのですが、普段からのコミュニケーションがちょっと足りない印象はどうしても受けますよね。 血のつながった人達からすれば、どんな形であれ、「泣ける場」というのか、哀悼をささげるための場を設けて欲しい、というのは自然な欲求だと思います。「儀式」は形骸化するといやらしいですが、私達の思いを消化するためには、ある程度社会的な形式も必要なのではないでしょうか。人間はそんなに強くもないですしね。
お礼
どうもありがとうございました。 質問の性格上ポイントを差し上げられないのが残念ですが、どうぞご了承ください。
補足
再びありがとうございました。 真摯な態度で書いて頂いたこと、御礼申し上げます。 戦争を背景とした国家と個人の問題にまで及ぶと、少なくとも私の手には余る広がりになりますので、失礼ですが所感は回答前半にのみ限定させてもらいますが… ケースバイケースというのは全くその通りだと思います。また別の意味においても。 私はかつて実父と(仏教の)師匠の2人をほぼ同時期に送りました。実父の場合、勤めていた私は実家の手伝いもあり、毎週末の度に夜行列車で帰省し、家業の手伝いと父の看病をし、日曜の夜にはまた夜行で上京、という生活を1年半以上続けました。その父の葬式を世間並に出し、四十九日、百か日法要を勤め終えた頃に師匠が急逝しました。僧侶の葬式はまたいろいろと大変なのですが、師は特に仏教史の専門家でしたので、交流も広く、荼毘密葬(といっても普通の葬式を遥かに超える規模)、大規模な本葬の執行まで、名目上の責任者である私の肩にかかりました。 宗派の管長やら何十人ものお歴々の配役者の手配から何から、知らない私には本当に息もつけない期間でした。私もさすがに実父の看病からの疲れが出て、ご他聞にもれず寝こんでしまいました。 もう十年以上前の話ですが、あれほど大変だったことは私もそう体験しません。その期間中は本当に発狂しそうになりましたが、今になってみれば、しみじみ頑張れてよかったな、という気がなぜかします(jun1038さんのお母様は今どう思っていらっしゃるでしょうか)。これは私だけの特殊な思いこみかも知れません。その意味で先にケースバイケースとしたのですが。 一般化はできませんが、時間がたつと人間も当然変わっていくわけで、今死ぬほどいやだと思うことを、将来の自分は受け入れているかも知れないということが実感できる今、善悪の判断を少し保留するようになりました。習慣は悪弊ばかりでなく、ひとを時間の彼岸にたたせる、ということもありはしないか、という気もします。 話が少々ずれるようですが、養老猛司氏は、苦痛を緩和するばかりの医療の流れに少々異を唱えて、敢えて「苦痛が人間そのものを変えることが忘れられている」と書いています。私は(我田引水ですが)中国の慧能禅師が「無常は仏性なり」と言った言葉が胸に突き刺さるのです。 せっかくのご意見からはずれたかもしれませんが、意を汲んで頂ければ…。深謝申し上げます。