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大鏡と蜻蛉日記

こんばんわ、いつもお世話になってます。 早速質問で恐縮ですが… 『大鏡』の兼家伝での「嘆きつつ…」という歌と蜻蛉日記でも出てくる同じ歌「嘆きつつ…」という歌、両作品における歌の意義の違いとは何でしょうか??;;

みんなの回答

  • shiremono
  • ベストアンサー率70% (187/267)
回答No.1

まず共通点として、歌が詞書を添えて歌集に置かれているような場合とちがって、 「大鏡」 も 「蜻蛉日記」 も、文章のほうが主体だということがあると思います。歌の意義は、それぞれの文章の文脈に沿ったものであるはずです。   「大鏡」 は、すでに名高かったこの歌によって、兼家の伝記に彩りを添えているだけだと思います。 「きはめたる和歌の上手」 を妻のひとりとして持ち、その妻にやきもちを焼かせた、色男の兼家。妻の歌の趣もよく理解でき、当意即妙の返しをつけた、風流人の兼家。 ここでの歌の意義は、兼家の 「好き者」 的な一面に光をあて、称賛する役割をになうところにあると思います。 「蜻蛉日記」 は、嫉妬や寂しさに苦しむ作者のドロドロした思いが美しい歌に昇華されたときのようすを回顧したものです。 前後の文章の内容がとても生々しく、重苦しくて、歌の抽象性が台無しになっている気がするほどです。 ここでの歌の意義は、 「日記」 の作者の矜持のよりどころだと思います。読者にしてみれば、この歌の魅力を入口として、 「日記」 の内面的な世界に誘いこまれていくのだと思います。 「蜻蛉日記」 では最後まで戸を開けず翌日歌の贈答があったと記されているのに、 「大鏡」 では結局戸を開けたようにも読めるのが、興味ぶかいところでした。 わたしは、国文学について素人もいいところです。両作品や和歌のことをわきまえている人からみたらとんでもないことを書いたかもしれません。なかなか回答がつかないので、質問者さん、ほかの回答者および自分自身にとってのとっかかりとして、思いつきを書かせていただきました。