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壇ノ浦の戦いのとき、どうして天皇は同船していたのか?
源平最後の決戦の壇ノ浦の戦いに関する質問です。 平家物語によると、このころ平家は関門海峡の彦島を根拠地として、おおかたは船で暮らしていたそうです。 「矢合わせが、三月二十四日に決まった」とありますから、開戦日が決定していたようです。 天皇は家族や女官たちとともに唐船に乗っていたそうですが、 この唐船はとても大きくて、真っ先に敵の目標になることが わかっていました。 (そこを小船で挟み撃ちにしようというのが平家の戦略です) どうして戦場の真っ只中に天皇がおり、かつ敵の目標となる船に乗っていたのでしょうか? リスクが大きすぎるます! 陸で待機しなかったのは何故なんでしょうか? 婦女子が戦場にいるのは珍しいと思います。 もうひとつ質問。 当時の決戦では、いついつに合戦をはじめましょうと、あらかじめ矢合わせの日にちを決めていたのでしょうか?
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連続ですみません。 教養文庫の翻訳ではそうなっていますか・・。私が確認したのは、講談社学術文庫の『全訳注 平家物語』で、この本は、覚一本系統の東大所蔵本が、底本になっています。 あげられた「水底の都」という段は、流布本では「先帝御入水」の段に当たるのだと思いますが(下記URL参照)、あまり聞かない段名ですね。どの本で翻訳したのかが分かりませんが、かなり内容に相違があるのかもしれません。講談社の全訳注は、歴史的事実なども考察してくれているので、12冊もありますが、調べるのには重宝します。ご存じの通り平家物語は、作り事や誇張も多いのですが、そうした作り事のいくらかは、同時代の公家の日記などから事実を調べることができるそうです。こうした公家の日記を中心とした当時の記録とつきあわせることで、平家物語に書かれたことのいくらかは史実と合致し、また文学的虚構であることが分かるそうです。 http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/genpei/heike/heike.html >長時間船に乗っていると酔うと思うのですが、 大丈夫だったのでしょうか。 酔っぱらったかもしれませんね。でも、朝から夕方まで、命のかかってるところでは、緊張で吹き飛んでいたような気もします。それ以前も、九州と福原の間をぐるぐる回っていた感じですので、女官達も少々の船旅には慣れていたようにも思います。
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- dulatour
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中世までの戦いは、旗頭が戦闘に立つことによって、その戦いの正当性が明確となり、士気が高まりました。 その意味では、平家としては天皇を擁して闘うと言うことが大義名分であって、日本国の正規軍であるということを誇示したかったのでしょう。 幕末で、「錦の御旗」が伏見で上がったときに、最後の将軍慶喜は自分が逆賊になることを恐れて、大坂城での決戦を諦め、単身、江戸に逃げ帰ったそうです。 まして、源平の世であるならば、実際に幼少の天皇が戦列の奧にいるだけでも、味方の士気と敵方に対する威圧感はあったと思います。 大坂城落城の折に、楠木正成が秀忠の出馬を最後まで主張してにも関わらず、淀君の反対で陣頭に姿を現さなかったというのが、豊臣家滅亡の一因ともいわれています。
天皇は、二位の尼などと一緒に別の船にこっそり乗っていたというのです。
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ありがとうございます。 長時間船に乗っていると酔うと思うのですが、 大丈夫だったのでしょうか。
えーと唐船には、天皇は乗船してないと、私の平家物語ではなってますよ(遠矢の段)。 底本によって違うのでしょうか? 源氏の目をあざむくために、唐船には雑兵を乗せていたのですが、阿波民部が裏切ってその計略が源氏にばれてしまったとあります。
お礼
ありがとうございます。 唐船は複数あったようです。 教養文庫の現代語訳では、「平家の女たちは一そうの大きな唐船に集められていた。その船には安徳天皇がおいでになり、」 とあります。(「水底の都」)
- eqw-102
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盾にしたのは、天皇と神器の一部ですね。 神器は海の奥底に沈んでしまい、 相当捜しましたが見つかる事はありませんでした。 (現代の神器は、一部はレプリカ。) 通常の戦なら、 天皇の救出の失敗、神器の損失は死罪。 いや、一族全員が罪に問われる重罪です。 しかし、 史実は大いに異なります。 天皇は、平家の女官と共に海に入水。 (だが実際分かったもんじゃない。^_^;) 流れ矢や火矢でやっちまったか、気付かず刃にかけてしまったか。 船もろとも沈めちまったのか?^_^; その結果、 平家追討のお褒めの言葉と、官位を授かりました。 この時点で、 既に天皇家には、武家を咎めたり、裁く実力は無かったのです。 ここで、上皇側に付いた義経と、幕府を開こうとする頼朝の兄弟喧嘩が始まるのです。 上皇は、慕ってくる武家を利用する程度の力のみです。 荒れ狂う武家のしでかした不祥事は、 レプリカ作成でごまかしたり、 新しい天皇を就かせる事で難を逃れたのです。 >もうひとつ質問。 義経は、旧来の名乗りを上げる一騎打ちから、 集団による戦闘。特に奇襲戦法で勝ち進みました。 ゆえに、汚い方法と、当時の評価は低いものでした。 この観点から、 自分の都合の良い日時に決戦へ向かい、 海流が変わったのだと思います。
- kawakawakawa13
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ANo.1です。 「いくら敵の傀儡でも、安徳天皇やその近習達を平家と共倒れにするには政治的にリスクがあったので、源氏側が「降伏勧告」を行ったはずです。」 と書きました。安徳天皇が同行していることは承知していたはずです。 降伏者や捕虜等からの情報収集はしていたはずですから。 そうでなければ降伏勧告はしません。不倶戴天の敵ですから。 当時戦闘指揮官だった源義経は、背後からの奇襲戦法など活用していますし、また、源氏側に救助された女官の話もあります。 源氏側はあくまで抵抗を続ける平家宗家を滅ぼすつもりだったので、また、平家側もその覚悟だったので、安徳天皇は平家の道連れにされたのです。
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ありがとうございます。 平家から源氏方に寝返ったものもいたので、情報は筒抜けだったようです。(阿波重能など)
- airgroove2714
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初めまして。大学の時中世文学を習っていた者ですが、NO,1さんがおっしゃっているように、安徳天皇は幼く、自分で政治をできなかったため、平家は天皇家の威光をかさにして、傀儡政権を手中に収めようとしていました。平家はこの時点で劣勢だったため、自分たちが正しいとの主張のためにある意味人質としての安徳天皇の利用法しか思いつかなかったのではないでしょうか。これが、分別の付く天皇が平家の味方に付いたなら、源氏に一緒に殺されるか、良くて島流しですが、自分の意思をもてない幼子なら源氏も保護したでしょうし。陸に待機してたら、平家としては源氏に安徳天皇をかっさらわれて政権の後ろ盾に使われますしね。平家物語の中では、安徳天皇のお付の女官が安徳天皇に対して、死後の世界の素晴らしさを説き、騙して(?)入水自殺して天皇は助からないですけど。頼朝が征夷大将軍になるには、天皇の院宣がいります。婦女子が戦場に居たのは天皇のお世話をするため以外の何者でもないと思います。那須与一が扇を射抜いた時、扇を持っていた人は女性でしたから、一族郎党挙げての総力戦だったのでしょう。 矢合わせの日にちを決めたかという事の回答ですが、これより時代が下った北条時宗の頃、元寇で元(当時の中国)が攻めてきた時、日本の武将は、敵軍に自分は誰か名乗って、正々堂々と戦い始めようとしたが、敵軍は名乗っている間におかまいなく、集団戦法でてつはう(火薬を使った原始的なダイナマイトのような物)等で攻めてきたといいます。お国柄の違いが出たようですが、日本人同士なら正々堂々、逃げも隠れもせず戦う礼儀のような物では?
お礼
ありがとうございます。 >陸に待機してたら、平家としては源氏に安徳天皇をかっさらわれて政権の後ろ盾に使われますしね。 これは考えませんでした。参考になります。 せめてここに天皇がいますという印くらい船につけておけばよかったのにと思いました。 >那須与一が扇を射抜いた時、扇を持っていた人は女性でしたから、一族郎党挙げての総力戦だったのでしょう。 さぞ船酔いしたのではと心配になります。 助かった女官は遊女になったという伝説がありますね。 いま、読み返してみたのですが、 「天皇や女院、三種の神器はどんな犠牲を払ってもも無事に迎えるように命令が出ていた」 とありますので、源氏も船中に天皇がいることは知っていたのですね。
- kawakawakawa13
- ベストアンサー率25% (514/2010)
>壇ノ浦の戦いのとき、どうして天皇は同船していたのか? 平家としては、既に敗勢著しく、傀儡とはいえ、天皇の権威にすがるほか無かったのでしょう。 安徳天皇は幼少であり、また、リスク云々よりも前述のとおり、平家の都合が優先されたのです。 まあ、平家としても、やけくそで、「死なば諸共」、心中に近い心積もりだったようです。 >もうひとつ質問。当時の決戦では、いついつに合戦をはじめましょうと、あらかじめ矢合わせの日にちを決めていたのでしょうか? いくら敵の傀儡でも、安徳天皇やその近習達を平家と共倒れにするには政治的にリスクがあったので、源氏側が「降伏勧告」を行ったはずです。 矢合わせの日にちと言うより、回答期限という意味合いです。
お礼
ありがとうございます。 >平家としても、やけくそで、「死なば諸共」、心中に近い心積もりだったようです。 やけくそはいいとしても、いさぎ良すぎですね。 源氏は船に天皇がいることを知っていたのでしょうか。 それによって事情が違ってくるように思います。
お礼
ありがとうございます。 所有の原文の本は中道館出版のものしかなく、全訳ではありません。 そこで↓で確認してみました。 http://www.st.rim.or.jp/~success/heike11.htm#9 たしかに天皇が唐船にのっていたとは書いていないですね。 ただ「平家のふねはせんよそう、たうせんせうせうあひまじれり。」とあるので唐船が複数あったのはマチガイなさそうです。 それと二位の尼が「「われはをんななりとも、かたきのてにはかかるまじ」と言っています。 この人の強気の性格が幼帝の運命を決定づけたようにおもえます。 >12冊もありますが、調べるのには重宝します。 すごいですね。12冊ですか!