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高浜虚子の鑑賞文

高浜虚子の 『もたれあいて たおれずにある 雛かな』 の鑑賞文がほしいですけどどうすればいいですか?

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回答No.2

過ぎし上巳に想いを馳せて 雛の句は、その目鼻立ちを捉えて詠うことがあります。そうした場合、新品購入した雛の初々しさを、子供や初孫のそれとのイメージを重ねていると思います。 現代のように衛生状態や医療設備の充実していない時代では、無事に生きて3才を迎える親や祖父母の喜びはおおきかったと考えられます。 さて、ご提示頂いた句は、雛の姿を詠んでいるのではなく、それを見ている人物の心情を表現していると推測されます。余程前衛的な雛で無い限り、形態として寄り添う雛は考えられませんから。 したがって、今年もつらい冬を無事に(子供も病気に成らず?)遣り過ごして春を迎えること(雛を飾れる)ができて本当に良かった。これも僕の伴侶である君が居て、助けあうことができたからだ。これからも天佑神助(ちょっと大げさに)を得て仲良く生活しようとの事では???

atsukomama
質問者

補足

私は、作られた年代などからも夫婦を雛になぞらえて詠んだものと思うのですが、虚子等正岡子規の門弟を雛(この場合ひよこ)にたとえ頼りない存在である…、あくまでもひよこ説で、たくさんの雛が押し合いへし合いもたれ合って生きている…、など解釈が分かれているのですが・・・。良いアドバイスがありましたらお願いします。

その他の回答 (2)

回答No.3

確かに子規門弟をひよこと見て、その有り様を詠んだとも解釈は可能でしょう。でもそうした場合虚子が、『たおれずにある』と自虐的に自分らの一派のことを述べるでしょうか。 人はだれでも弱気になり『もたれあい』を甘受せざるを得ない時期(世間が認めてくれない等)もあるでしょう。がしかしその受忍には、芸術の世界では次への上昇の時期(順風が吹くのを待つ)を待ち続けるとの心意気があると思います。 したがって、雛をひよことみるなら、『たおれずにある』といわずに、『巣立ちを待つ』などと言い表すのではないでしょうか。

atsukomama
質問者

お礼

anapaultoleさん、ありがとうございました。ひよこ説にはやはり無理がありますよね?これですっきりしました。

回答No.1

あくまでも私の鑑賞文です。 季語は雛で、季節は春。感動の中心は雛である。上5だけを読むと、甘えあっているというような悪いイメージを持つ。でも、それが中7で反転する。もたれあうことなしに、雛は立っていられないのだ。だからこれは甘えを描いた句ではない。私はこの雛たちのように、人と支え合いながら生きていきたい。 以上です。いかがでしょうか。

atsukomama
質問者

お礼

mitsui1966さん、ありがとうございました。この前後に、虚子が結婚していることもわかりました。お互いに、支えあいながら共に生きていきましょう…といった感じでしょうか?