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懲役の上限について
最近さまざまな事件が起きており、罪の内容と懲役(罰金も)が釣り合ってないように思えるのが多いなと感じます。 そこで質問です。なぜ法律には、懲役や罰金で上限があるのでしょう? 無ければ東横インの問題や千葉県の飲酒事件などももっと責任を負わせることができると思うのですが・・・ 回答お待ちしております
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- jun2004a
- ベストアンサー率18% (166/889)
>なぜ法律には、懲役や罰金で上限があるのでしょう? 難しく考えないでください。上限は法律で決まってるからです。 ただ、懲役に関しては無期懲役と言う上限が無い懲役刑があります。 で、日本は3権(司法、立法、行政)がそれぞれ分権しそれぞれに対し監視義務がありますが立法は法律を作る為にありますし原則、刑の確定は原則で来ませんし行政も法律作る事はできませんし司法が警察業務は出来ません故に質問者が感じる事が起こるのではと思います。
- nep0707
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>しかし、これは司法がちゃんと機能していれば問題ないんですよね 正直、今のように 「法律で犯罪と刑罰が定まっている」「司法は行政から独立している」 が当たり前になっていると、なかなか想像しにくいかもしれませんが… 昔は権力者が好きなように法律作っていましたし、 司法と行政(刑罰の実行者)も必ずしも分かれていなかったわけで… 刑罰が権力の暴走に幾度となく寄与してきたという反省、 しかしそれでも刑罰は必要というジレンマ、 その中でいくつもの歯止めをかけられたわけですが、 三権分立もその1つです。 そして、「刑罰は必要最低限に」という 刑罰の謙仰(あるいは刑法の謙仰)もその1つですが、 …たぶん、歴史的には三権分立より先に誕生した思想だと思う…。
- nep0707
- ベストアンサー率39% (902/2308)
>罪の内容と懲役(罰金も)が釣り合ってないように思えるのが多いなと感じます。 この種の問題は、マスコミで騒がれるような事件だけでなく、 是非とも全体像を想像した上で考えてもらえればと思います。 >なぜ法律には、懲役や罰金で上限があるのでしょう? 直接的には「そういう価値観が支持されているから」。 上限を設けるのは別に刑法論で絶対の真理というわけじゃありません。 日本刑法が採用していないというだけで、上限を設けないという考え方もあります。 (ただし、その場合も感情的な判断で刑罰を決めることは絶対にありませんが) 刑罰の本質が「国家による国民への不利益強制」であること、 実際、刑罰が国民への弾圧に利用されてきた歴史があること、 …といった背景がある中で、 「あらかじめ、処罰の対象となる行為を予告しておく」 「行為を単位として、科されうる刑罰をあらかじめ定めておく」 ようにしておかなくていいの?…という話なわけです。 私は、誰かの癪にさわるという理由でむやみに刑罰が重くなってはたまらないと思うし、 それは得てして「誰かの癪にさわること自体が犯罪」という考えにつながりやすい、 という歴史を鑑みて、この価値観に賛同しています。
- 6dou_rinne
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刑罰法定主義をとっているので、感情はともかくとしてやはりその犯罪の及ぼす影響によって上限下限を決めておかないと、裁判官の考え方次第で勝手に決まることになりまずいからです。
お礼
回答ありがとうございます 先に少し感情的になっているかもしれないことを謝罪しておきます。 >刑罰法定主義をとっているので wikiで調べたところ刑罰法定主義は 「国家が市民に不当に刑罰を科すことを防止しようとするものである。」 とすると、今回の東横インの問題の場合は、ハートビル法や建築基本法(間違ってたらすいません)等もろもろ合わせても、罰金は総利益と比べれば微々たる物です。 そうなると上記の防止効果は機能をなさないと思いますがどうでしょうか? >裁判官の考え方次第で勝手に決まることになりまずいから 個人の考えにいかないように慎重に議論するために三審制があるのではないのでしょうか?
お礼
>この種の問題は、マスコミで騒がれるような事件だけでなく、是非とも全体像を想像した上で考えてもらえればと思います。 これはすいません。多いではなく存在すると言う表現にすべきでした。私もマスコミに踊らされてるようです。 >刑罰の本質が「国家による国民への不利益強制」であること、実際、刑罰が国民への弾圧に利用されてきた歴史があること 確かにこれはありますね。しかし、これは司法がちゃんと機能していれば問題ないんですよね。。(現状はやはり違うのでしょうかね) >誰かの癪にさわるという理由でむやみに刑罰が重くなってはたまらないと思うし、それは得てして「誰かの癪にさわること自体が犯罪」という考えにつながりやすい これも賛成します。感情的には絶対なってはいけないと思います。 問題は感情を抜きにしても、えっ!て思うような事件が起こることですよね。