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石橋湛山の財政政策について
第一次吉田内閣の蔵相石橋湛山の財政政策は、デフレ抑制のためのインフレ政策といわれることが多いようですが、終戦直後の軍需関係債務の大量支払いによって1946年はすでにインフレだったとおもいます。それなのにデフレ抑制とはどういうことなのでしょうか? この頃の日本は設備や労働力に比して過少生産であり、ケインズのいう真のインフレではないという石橋の考え方と何か繋がっているのでしょうか。駄問ですが、教えてください。
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- Bird1979
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こんにちは、経済は門外漢なのですが >デフレ抑制のためのインフレ政策 文脈が不明なので、確かなことは言えませんので、あくまで推測として回答します。 確かに、1946年当時は小売物価指数1893.0(1934~36を100)というハイパーインフレ、一方では生産は停滞、失業者は溢れ、国民生活はドン底という状況ですね。 湛山自身は、のちに(ドッジプランに対して)以下のように言っているようです。 「私の経済政策をインフレ政策というのは当たらない。 私のは経済力増強政策という積極政策である。 インフレーションは歴史の示す通り、戦争直後、或は社会的混乱の後に起こるもので、現在の如く一応安定した経済情勢ではお金を出しても、インフレにはならない。」 湛山は「終戦直後のインフレ」と言っていますが、1946年当時は「ケインズのいう真のインフレではない」と思っていたのではないかと推測します。当時のインフレは、katskさんもご指摘のように軍需補償金、軍人退職金、占領軍関係費支出などという貨幣的要因による財政インフレであり、その点では需要インフレ・供給インフレとは異なります。 ですから、湛山の主眼は「停滞している生産の再開・失業者の救済=デフレ状態の脱却、をめざした景気刺激策」を行うことにあったと思われます(1946.10には「復興金融金庫」を設立)。 なお、「デフレ抑制」という表現はピンときませんね。「デフレ状態からの脱却」なら、わかるんですが。 門外漢の繰り言として、ご参考までに。