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湯島の白梅
回答ありがとうございます。 タイトルのように「湯島の白梅」ご存知の方へ伺いますが 最後の歌詞で「あかぬ別れの 中空に 鐘は墨絵の 上野山」とありますが、 1.この時の鐘はどう示すか、どうして鐘と出ているのでしょうか。 2.最後の上野山は何か意味が入っていますか。 3.「鐘は墨絵の 上野山」全体的にどういう意味でしょうか。 探しても、意味が分からないので、ご存知の方、教えていただけますか。日本語を勉強している外国のものですが、分かりやすい回答お願いします。
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「湯島の白梅」3番の歌詞ですね。 青い瓦斯燈 境内を 出れば本郷 切り通し あかぬ別れの 中空に 鐘は墨絵の 上野山 歌詞の解説がどこにもないので推測で書きます。 1.「上野の鐘」は寛永寺の鐘が有名です。 2.上野は江戸から明治にかけて山でした。 正岡子規の「春雨や上野の山も見飽きたり」という句があります。 3.全体の意味は、「まだ夜明け前の湯島から本郷に向かうお蔦と主税は鐘の音に 耳を澄ました。 見ると中空に上野の山がぼぉっと墨絵のように霞むのが見える。」ですね。
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- yagi3yubin
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まず3.(=全体の意味)は削除されてしまった“社会カテ”No.1に記載されていたjyamamoto氏の 『墨絵のような上野山を背景に、さびしげに鳴り響く鐘の音の中で、心を残しながらお蔦と主税が別れていく情景を歌ったもの』とのご意見に同意します。 こちら“音楽カテ”yabukoji氏は“あかぬ別れ”を“(夜の)明かぬ”と解釈されていますが、この場合“(心の)飽かぬ”ではないでしょうか。 次に1.と2.の質問ですが、始めに1.と2.をまとめて、後で改めて1.について説明します。理由は読み進んで下されば判ると思いますので少々お付き合い下さい。 では、何故1.と2.は、まとめられるか、ですが、俳句を二句、狂歌を一首紹介しましょう。 松尾芭蕉 花の雲 鐘は上野か 浅草か 正岡子規 寄席はねて上野の鐘の夜長哉 貧乏と言えど下谷の長者町 上野の鐘のうなるのを聞く 芭蕉と子規の活躍した時代には200年近い隔たりがあります(狂歌は、その二つの間) また尚も時降って1925年にも『上野の鐘』という映画が松竹で撮られており、この例からも“上野”と“鐘”は、ある種不可分であると、お判り頂けると思います。 現在でもこの鐘は朝夕の6時と正午に撞かれており、いかに時代を越え人々に愛され親しまれてきたかも分るでしょう。 なによりこの(寛永寺の)鐘は、幕府公認の“時の鐘”でした。 例に挙げた狂歌から読み取れるのは、公方様のお膝元(=上野の鐘の聞こえる範疇)に暮らす者の誇り、江戸っ子の矜持です。 さて、ここでseisyuサンの質問には書かれていない『湯島の白梅』の二番の歌詞を見てみましょう。 ♪忘れられよか 筒井筒 岸の柳の 縁結び 堅い契りを 義理ゆえに 水に流すも 江戸育ち♪ 質問のご様子からseisyuサンは舞台『婦系図』の梗概はご存知だと思われますが・・ 主税は、恩師に「俺を棄てるか、婦を棄てるか」と決断を迫られ、隼の力と呼ばれるスリであった自分を学者にまで育て上げてくれた恩師を棄てる事などできるはずもなく、お蔦と別れる事を宣言します。そして有名な「別れろ切れろは芸者のときに言う言葉」の件に進むわけです。 現代人なら、どうするでしょう?同じ選択をするかもしれませんが、別の方法を模索して両立させるかもしれないし、逆に先生と決別するかもしれません。しかし江戸っ子の主税には人情(=恋人)を棄て義理(=恩師)を採るしか道はないのです。 舞台の設定は既に江戸時代ではありませんが、その気風は現代人より江戸のそれに近いことが解ります。この時首都は既に東京であったのに♪江戸育ち♪と歌われ、その後ろには“上野の鐘”が響いているのです。 つまり上方とはまた違う武家社会の(武士だけでなく、江戸に住む者達にも、後代の人達にも影響を与えた)精神性と、結果としての別離という悲劇を表しているのが、この場面、歌詞の“上野の鐘”と思われます。 湯島天神と上野の地理的状況は削除されてしまった“留学カテゴリー・daiju1961”氏の仰る様に三番の歌詞の通り “(湯島天神の)ガス燈のある境内を出ると、そこは本郷(上野山と本郷台の間の)切り通し(山の間の抜け道)の道を満足出来ぬままに別れた気持ちで歩いている。上野の山が、夕闇と辛く哀しい心のために墨絵の様に見える中、寛永寺の鐘が物悲しく響く” だと思います。また“湯島は上野の鐘で飯を食う”という言葉の今に残っていることも付け加えておきます。 1.について。 『婦系図=湯島の白梅』が頻繁に上演されていた頃の人々ならば“暗い表情の男と女”の立つ舞台に“鐘の音”が聞こえてきたら、もう一組の悲運の恋人同士を思い浮かべることでしょう。 近松門左衛門の当り狂言『曽根崎心中』です。 “あれ数ふれば暁の。七つの時が六つ鳴りて残る一つが今生の。鐘のひヾきの聞きをさめ。寂滅為楽と ひヾくなり。鐘ばかりかは。草も木も空もなごりと見上ぐれば・・・” 主税お蔦を見『湯島の白梅』を聞きながらも、彼らの心には義太夫節が低く響き、耳には聞こえぬその声から、今この舞台にいる二人も幸福にはなれないと感じ取るのです、お初・徳兵衛がそうだったように、と。 現代のように情報量が多く、また消費されて行く時代と違い、長い間人々は限られた物語を、解いては編み、また解いては編むようにして味わってきました。軍記物の武者達をアイドルのように愛し、誰が好みかを言い合う。筋立てはおろか台詞、所作まで憶え込んでいる芝居に嬉々として通い、寄席に足を運ぶ。字の読めない者達も、そうやって歴史を世間を義理人情を、愛や恋を、決して学ぶのでなく、肌身に染ませていきました。ほんの5~60年前まで人々は、そのような重層的な精神文化遺産を紐帯としてきたのです。 それら受け継がれてきた財産が失われてゆこうとしている今日seisyuサンのように他国の方が日本語と日本の文化を学ぼうとして下さっていることは喜ばしい限りです。どうぞこれからも、しっかりお勉強なさって理解を深めて下さいますように。 蛇足ながら申し添えます。 最初上記の文は“社会カテ”に回答したのですが質問の重複とのことで削除されました。当方それなりに力を注いだつもりでしたので消滅させるに惜しく、再度の投稿となりましたがjyamamoto氏やdaiju1961氏が同様になさるか分かりません。 相互の善意と信頼でで成り立つシステムです。seisyuサンにおかれましては今後このような事の無い様ご留意頂きたく思います。 おそらく、どのカテゴリーへ分類すれば良いかお判りにならなかったのでしょうが(音楽カテと留学カテと社会カテに投稿なさいましたね?)もしまた同様の質問をなさるようなら“国語カテ”が良いと思われます。ご参考まで。