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疑問が
私はこの間、仕事で移動中にとある死亡事故現場へ遭遇しました。まだ最近のご不幸だったのか、たくさんの花が並べられていました。色々な飾り?のようなものなどを見ていて、まだ若くして亡くなられたのだと思いました。お母さんらしき方がお花を並べていました。 私はそのとき、もし自分だったら・・・とか、もしあのお母さんが私の母だとしたら・・・と突然起こりうる死について考えてしまいました。そこでひとつ疑問が生まれました。 供養というのは一体なんなのでしょうか? そしてそもそも亡くなった人を思い、供養するということはいつごろからしていることなんでしょうか? どのようなご意見でもかまいませんので、感じることや知っていることなどございましたら教えて下さい お願いします
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ごく身近の人間を亡くしたとき感じたのは死んだという現実を受け入れたくないという感情でした。 たとえ肉体が焼かれ灰になり、この世の物質の分子や原子のレベルに還元されたとしても、でもどこかで相変わらず生き続けているはずなんだ…そういう感じかたです。だからこそ生きてるときのように食べ物や好きだったものを揃えてやろうとします。別の世界に宿替えしても、そこで不自由してもらいたくないんです。 全身が焼けつくような思いで、御供えをします。 そして次のを御供えするとき「お下がり」といって古い分を食べたり飲んだりします。自分は、これがなかったら食欲のないままに飲まず食わずで倒れてたか知れないです。うまいことできた風習と言うか「おしゃかさんアッタマいい~」とかって思いました。 時間たつにつれて御供えするときの心境も少しずつ変化してきます。諦念、ってやつですか、それとともに御供えすることで気持ちにも区切りつけるよう自分で言い聞かせて、それが現実を受け入れていくということに繋がっているんでしょうか。 けど少なくとも最初のうちは「現実を確認して受け入れるために御供えしてる」なんて断じて思えないですよ。そんなのは、もっともっと後の段階です。でなければ故人に対して、その程度の想いしか持ってないということなんじゃないでしょうか。 何かで読んだんですが「供養」的な行為は、どうやら人間の専売特許ではないらしい、という話でした。もちろん人間ならではの文化によって様々に洗練されてきたんでしょうけど。 そもそもの起こりは至って素朴なもの、やむにやまれぬ行為だと思います。そう実感しました、自分のときは。
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- jujutu
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供養は霊を成仏させるためにすることです。 いつごろからしているのかはわかりません。すみません。
供養により、小さな生まれ変わりを行っていくんではないかな。 長年連れ添ってきた人や、使い込んできた道具。支えになってきた形見、それらが失われた時に、心をごっそり持っていかれてしまうから、立って居られなくなってしまう。だけれど、心に穴の、その空虚に、足りぬ想いを馳せることで、足りないものが、無くなって行く。心に虚しさを抱けるようになったから、人はここまでこれたのでは。 虚しさが悲しいのは、虚しさが、失われた悲しさを引き受けてくれるから。そして、尽きぬはずの悲しさが、故人と共にあった自我もろとも尽きた頃に、安らぎ、喜びが戻ってくる。ありがとう。虚しさが、幸せを生む。 参考に、このような供養もあります。 話ですが。 昔。世界をおさめていた如来が、入滅するときのこと。この如来には、ある弟子の菩薩がありました。 それで、この弟子に後を任せて、入滅いたしました。そのとき、この弟子は、自らに火を放ち、自らを燈明として、その如来を供養したそうです。 そして終に、この弟子の菩薩は燃え尽きて、無事成仏できました。 如来の入滅が、弟子の成仏を完成させたという話。 菩薩でしたから、もう迷いの世界の者ではなく、生死を達観していたこの弟子には、供養は、一見、必要なかったと思われます。だけれど、そのような者(如来や菩薩)が、供養し、供養されることを描いたこの話は、供養は何のため?と、尋ねているように思います。 溢れる死が遠い、現代社会。死によって生まれ変わる事実よりも、生まれ変わる途中の状態が、表面化してきている。死でもなく、生でもなく、変わることを、望んでいるのでもない。 目的はない。しかし立ち止まっても居ない。 新たなファクターが、自我に立ち上げられていっているような。人々が、心を行き来する時代が来ている。 心に、シャボン玉のハイウェイが通る。
生きているとは、エネルギーを使って何らかの仕事をしているということ。死んでいるとは、生きていないこと、つまり自らではエネルギーを作り出す仕事の出来ないこと。 死者にこれ以上何かの仕事をしてもらうことも出来なければ、させようとするものがあるとしたら、それが「葬儀」かもしれません。あえて出すなら仏教徒になりあの世で先祖と共に親族の為に信仰をしているのかもしれません? キリスト教は生きる人に洗礼をしますが、なぜ日本では仏教の檀家(に限らず無宗教でも常識のように)死んでから戒名(仏教徒名)を付けるのかも不思議なところですよ。死んだ本人は戒名を知れるはずもないのに。それに先祖供養は仏教ではなく神教だったような?故人希望の葬儀であれば思い遣るセレモニーとなり別ですが。 (1)親近者の悲しみの欲求を満たすこと。それによって踏ん切りがつくかもしれないから。 (2)記憶力のない人の為にも故人の恩を思い出させること。 (3)立派な葬儀(法事)をすることで立派な家柄に見せること (4)葬儀屋と宗教家の生活を守る為。 等が葬儀の理由ではないでしょうか?私なら意識があるうちに、愛している少数の人に同情の涙を送ってもらい、抱きしめていて欲しい。出来れば悲しませたくない、幸せにやれるから安心していいと応えて欲しい。
他を思い遣る心は集団生活をする動物にもあります。 宗教とはこうした人の心に漬け込んで私腹をこやす団体ではありませんか。
- Syo-ya
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北イラクのシャニダール洞窟遺跡の話があって、約6万年前の「ネアンデルタール人」の地層を採掘したら、死者と供に「花」が手向けられていたそうです。こういう埋葬の仕方ははそれ以前のヒトには見られない現象なんだそうです。つまり脳の発達です。 別に私は唯脳論者ではありませんが、心が脳に依拠していることは間違いないことであり、この話も興味深いと想います。 以降、思いっきり好き勝手な仮説ですが^^;、脳が発達する以前は、もしかしたら死者を供養しようという心も持ち得なかったかも知れないんです。 そう考えると、供養という発想は、ある時期、ある段階から後天的に芽生えたものであって、先天的に普遍に存在しているものではないと言えると想います。つまり進化の結果、獲得した心の機能なのだと想います。 爬虫類が、自分の生存しか考えない利己的な心だとしたら、 もう一歩進んで「利他的な心」の芽生えだといえると想います。 それが証拠か、この洞窟からは片腕、片目を失った人の骨も発掘されています。 狩猟時代においては完全に生存には適さない不利な立場のハズなんですが、生き長らえていたということは、仲間に養われて生きていたことを意味するんだそうです。 つまり、ここにも「思いやりの心」が見られるのだそうです。 きっと「供養」とは自分以外の存在を認め、受け入れ感謝する、尊重する敬愛の心なんでしょう。 これが、もっと進むと畏怖、畏敬の念にまで発展するのだと想います。 だからそれ以降の人類において神や宗教、崇拝、呪術・・が生まれたのではないでしょうか。 それまでが自然災害や天敵から自分の身を守る「恐れおののく心」「利己心」しかなかったとしたら、もう一つ進化して、自然や未知のもの、自分以外の存在や「死」に「想いを馳せる」「思いやる」、つまり「想い」の広がった結果なのだと想います。
- lightgrid
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「供養」というのは、仏教用語だと思います。 「死者に対する供養」について、仏教の観点から、概略を説明します。以下は、あくまでも私の知識です。 特に事故でなくなった方(死者の霊)は、自分が死亡したことを知らずに娑婆世界と霊界の間の中有界で迷ったり、また地獄界、餓鬼界、畜生界の三界に落ちて、冥界(平穏に過ごすことができる世界)に至っていないことが多いのです。 死者の霊にとって、自分が死んだことを自覚できないと、死亡したときの状態で肉体があるものと思いこんでいるので死亡したときの肉体的な苦しみがいつまでも残り続けます。(従って、死に方も重要ということになります。)また、死亡したことを自覚したとしても、娑婆世界に対する執着や念(無念さ)が残りその念によって苛まれ、いずれにしても冥界に行けないということは、非常な苦痛を味わうのです。生きている間は、苦しいことがあっても、色々と気を紛らせることができますが、死者は、死亡したときの感覚が全てなので、非常に苦しいのです。死者は、無意識に生きているその縁者にたよって苦痛を和らげようとします。その結果、縁者は障りを受けることになり、その死者と同様の苦痛を何らかの形で受けることがあります。死者は、その苦痛を縁者にわかってほしいらしいです。 仏教では、供養(通常は慰霊供養)することによって、死者に、死亡したことを自覚させ、また仏の法力により苦痛を和らげることができます。 理想的には、死者を確実に冥界に送り届けるための解脱供養を行うことが好ましいですが、本当の解脱供養ができるお坊さんは、めったにいません。解脱供養を行うには、阿含教(アーガマ)で教示されている仏陀になるための修行を行って空の悟りを体得している必要があるからです。 従って、通常は、慰霊供養を行って、死者の苦痛を和らげることを行います。仏教では、特に「般若心経」を唱えることが効果があるといわれています。「般若心経」は「空」の真理を説いている(色即是空。すなわち苦は仮のものである)ので、死者は、それによって救われるようです。 仏教でなくても、縁者およびその他の人々の死者の霊を弔う気持ちによって、死者の苦しみは或る程度和らげることはできると思います。死者の苦痛を和らげることによって、その縁者に与える障りも和らげることができます。供養する者の供養する気持ち(慰霊の気持ち、成仏して欲しいという祈り)が重要と思います。 従って、供養は、死者と、生きているその縁者のために行うのです。 ここで申し上げたことは全ての場合にそうだという訳ではありませんが、そのようなことが多いとご理解下さい。(例えば、人を助けるために死亡したときは、例外のようです。) 死者に対する供養は、お釈迦様も行っていたようです。
縄文時代の普通の人の埋葬の化石から花がらや花粉がたくさん出てきた例があります。 おそらく古代から死者に花を手向ける習慣があったのでは?
- viva_chiru
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いろんな考え方がありますが、私の専攻の「社会学」の立場からお答えいたします。 人の「生」と「死」というのは、厳密にどこにあるかというのは、実は明確には定義できないのです。医療の進歩とともに、「生」や「死」の基準はどんどん人の手によって揺らいでいるのが現代社会だと思います。 そうしたなかで、「供養する」ということは、社会的にその人の「死」を受容する(受け入れる)ということと理解することができます。つまり、「あの方はもう亡くなってしまったんだ」と「みんなで」(つまり死者をとりまく人たちの集団)弔うことで、「本当に(リアルに)」死んでしまったことを承認する営みであると考えます。お葬式はまさに死者が亡くなったことを共同認識する儀式であるというわけです。 これは、結婚式、入学式、卒業式、誕生日などセレモニー(儀式)には、「祝祭性」といういわば「お祭り」的な非日常的な世界を作ることで、そこに参加する人々に特別な事柄であることを喚起して、共同体験を通じて、共通した認識を持たせるという機能をもっていると、社会学的な考え方では言えると思います。