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丹羽長秀のその後。
秀吉の天下統一の足固めには、 山崎の合戦、清洲会議などで丹羽長秀の協力は、とても大きかったと思います。 しかし、賤ヶ岳の合戦の後の丹羽長秀は歴史の表舞台に出てきません。 その後、丹羽長秀、丹羽家は、どうなったのでしょうか?
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丹羽長秀は、永禄6年の小牧城移転から永禄8年の堂洞の戦いまでの二年間に頭角を現し有力部将の地位を得たようです。信長の上洛において京都奉行衆となったり、近江での知行安堵の仕事についている。 元亀年間に佐和山城に居り、京と岐阜の往来を守っていたと思われる。 浅井・朝倉滅亡後に天正元年若狭入部となる。 安土築城にも関わっている。 この経歴からすると、どうも長秀は軍事面より行政能力・築城能力が高く、確実に仕事をこなすタイプと見えます。それが、柴田・木下・明智が方面軍的な地位につく中で、一国支配を任された後は、留め置かれた理由なのではないかと思うのです。 秀吉の天下取りに協力して越前を中心に123万石を得ますが、長秀が天正13年(1585)に病没した後15歳の長重が封を継ぎますが、同年閏8月の佐々攻めに秀吉の命を無視したとのことで、若狭小浜12万3千石に減封、九州の島津攻めでは軍律違反とのことで加賀松任4万3千石にというように、秀吉の難癖をつけてのいびりのような処置です。 慶長3年になって死期を悟って反省したのか、8万2千石加増し、加賀小松城への移城を命じた。長重は、人がよろしいのかこれを素直に喜んだそうです。 関が原の役では、「太閤殿下のご恩に報いる」とのことで(ほんに人がよい)西軍に加担し前田と小競り合い程度の戦いをしたが、改易処分となりました。 慶長8年の家康、征夷大将軍就任の特赦で常陸古渡(茨城県稲敷郡桜村)に1万石を与えられ、大名に復帰した。元和8年1622)陸奥赤館5万石に加封され棚倉城築城、寛永4年(1627)陸奥白河10万石に加封されます。白河の小峰城を幕府の命により大改修しました。長重は、寛永14年(1637)3月7日67歳で病没した。家督は、子の光重が継ぎ寛永20年に二本松に転封した。 丹羽家の転封の過程を見るとどうも幕府は、丹羽家の高度な築城技術を活用して陸奥方面の拠点作りに利用したといえると思います。又、丹羽家からとしてもそれによって家名が存続し10万石を獲得したものがかっての長秀が安土築城に始まる築城技術の集積が復活の力になったと思われます。 棚倉・小峰城は行きましたが、高い石垣は今でもしっかり残っていまして、見ごたえがあります。
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- uwf11pride30
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皆さんが詳しく書かれているので、私の方からは一つだけ、No3の方が書いた点について。 長秀は確かに所領や兵力においては格下に近いと言われるかもしれませんが、席順は信長の最晩年~清洲会議の頃までは柴田勝家に次ぐところにいました。秀吉や光秀の方が兵力は大きかったのですが、譜代の家臣である長秀の方が席順では上です。まあ、温厚な長秀のことですから、清洲会議では秀吉に上座を譲ったかもしれませんが。
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どうも、ありがとうございました。 秀吉が中国攻めの際に、大量の兵を率いていたとは言っても、その内の多くは、信長の命令で秀吉に従っていただけで、秀吉独自の兵では無かったですよね。その時々の役割で、たまたま秀吉は多くの兵に指揮を与える立場だっただけで、格は秀長の方が上と思っていました。信長が生きていた時代を考えると、信長の全ての武将は、みんなそこまで大きな独自の兵力を持っていたという印象は少ないのですが、、。
- tanuki4u
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丹羽長秀は、最後は胃ガンだったらしく、自ら腹をカッサバいて摘出して死んだとも言われています。 格下だった秀吉が風上に立ったことを悔やんでの割腹だったなど言う説もあります。 まぁ、悔やんでの割腹はフィクションでしょう。 本能寺の変時点で織田家の有力者は 勝家、秀吉、光秀、一益で、長秀はちょっと格下。 格下でも、(秀吉側に付くことで)清洲会議でメインをはれたのですから、よしとせねば。 もっと格下の恒興などは、もっと感謝ですね。 短命でなければNo2の方のおっしゃるように、北陸方面での大大名として重きをなしたことでしょう。 ※ この点でも前田は得してます。長秀がいないから、北陸の守りの要として優遇された面がありますから。
お礼
いろいろな人の歴史小説を読んでいると、 譜代家老格としての長秀の後押しがあったので、 秀吉の主張が通ったとした見方が強いと感じていたのですが、 実は格下で、後の秀吉の行為の正当性を出すために、歴史を改ざんして、 実は大したことが無かったのでしょうか、、。 ただ、そうすると、何故、清洲会議で秀吉の主張が通ったのか釈然としませんが、、。 どうも、ありがとうございます。
- 70633
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柴田勝家の滅亡後に北ノ庄に入り、123万石を領した。 1585に、死亡。 子の長重は秀吉の配下となったが、領地は削られ、関が原の合戦時には、加賀小松で12万石を領したが、 前田利長に対立し、改易された。 その後、1627に大名として復活し、陸奥白河で10万石を領した。 幕府内では、織田家の家老格の家柄と言うことで、国主大名並みの待遇であったとか。 長重の子の光重のときに二本松に移封となり、幕末に至る。 新政府では子爵となっている。
お礼
お返事ありがとうございます。 丹羽長秀自身は、そこそこ大きな領土を得たのですね。 ただ、息子の代になって削られた、、ということですね。
- PENPENMAKKY
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丹羽長秀の子孫ですが、その後、東北に移封され、何ヶ所かを点々とした後に二本松藩の藩主になりました。戊辰戦争で西軍の強襲を受け、25人の少年によって結成された銃隊『二本松少年隊』が2日間の激戦をしたのは有名な話しです。
お礼
お返事ありがとうございます。 お家は存続したのですね。
お礼
関ヶ原で功のあった豊臣恩顧の大名に対する徳川の対処に似ていますね。 功のあった本人の代だけは大切にするけど、その子孫に対しては難癖を付けて、、、と言ったところは。 自らの主張を通して滅んだ勝重や一益に対して、家は残っても何か物寂しい感じがしますね。 どうも、ありがとうございました。