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牧師は私の考えを悪魔の考えといいます。

私の知り合いの牧師さんは、神のように、なろうとした 天使を、神に反逆した堕天使(悪魔)といいます。 しかし、私は「自分がまず、神を目標にして、頑張って、そしてゆくゆくは、神以上のすばらしい自分になろう」と努力することはすばらしい事だと思うのです。 人生においても、あの人を超えるような人になりたいと 思い、頑張ることはすばらしいことだと思います。 だから、神も超えるくらいの自分になるという考えは 全然悪いようには思えないのです。 でも牧師さんはそんな考えは駄目だといいます。 私の考えのどこが悪いのでしょうか? 宜しくお願いします。

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  • la-luna
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回答No.2

#1補足です。 >> でも、何をもって、神は絶対的存在で >> 人間は、弱く、愚かな存在と言えるのでしょうか? それは、「なぜ神は存在するのでしょうか」「神はいるのでしょうか」という質問と同様、明確で論理的な答えはないと思います。 キリスト教に限らず、あらゆる宗教の根本にあるのが「信仰」、すなわち「信じること」です。 まず神ありき、です。それを信じなければ話が進まないのです。 そこには「なぜ」も「しかし」もありません。ただ、唯一絶対で万能の神が存在し、人間をはじめとする世界の全てを創造したのです。 この「信仰」というのが、非信者にとっては非常に理解しがたいものであるのですが、とにかく神はいるのだ、神はこのような存在であるのだ、としか説明のしようがないのです。 前回の回答でも申し上げましたが、神の存在というものは、一被造物である人間の想像力・理解力をはるかに凌駕しており、人間がその存在について正確に理解することは不可能なのです。 神が存在し、私たちを救ってくれるのだ、そう信じることが宗教(キリスト教やユダヤ教、イスラム教)であり、存在証明抜きで信じるしかない、としか申し上げることができないのです。 くどいようですが、これはあくまで私個人の解釈に過ぎませんから、あくまで参考程度になさってください。

kareria
質問者

お礼

ご丁寧にありがとうございます。ご回答により 私も、なんとなく解ってきました。 わだかまりがスットしたような気持ちです。

その他の回答 (3)

回答No.4

#3ですが、補足的に少し書かせてください。認識主体の自己不可知性という概念があります。これは自己言及の矛盾ともつながりますが、要するに蛇が自分の尻尾を呑み込んでいって,最後はどうなるかという比喩が一番よいと思いますが,自分以外のことはわかっても自分のことだけはわからないという、どうも深遠な哲理のようです。古代の賢人の中に、このことに気がついた人がいて,凡人がこの問いを続けると,徒労に終わるだけではなく、はなはだ危険な状態に陥るのを防ぐために神に任せなさいと言った人がいたのではないかと想像します。ところが,凡人のなかには、この問いに答えられないのは自分の頭が悪いからだと思いこんで,考えつづけようとする人がいます。これは原理的に答えられないということを納得することがいかに難しいかということです。一方,頭がよいと自認している人もこの問に対する答えを得ようと努力することがあります。いずれも徒労に終わります。これは,認識主体には存在の根拠がないということにもなって,大変難しいことのように思います。デカルトが言ったコギトエルゴスムの意味は、認識の対象にならない主体自身を対象とするのはやめて、主体はとにかく存在するのだから,対象として考えられる、自分以外のものに眼を向けてみたらどうでしょうということだと思っています。逆説的に対象化できる客体を考える過程で,影(陰像)のようにわかってくるのが「自分」のことであり,また「神(?)」のことではないでしょうか。

kareria
質問者

お礼

ありがとうございます。 私は「私はなぜ私なの?」というような 考えても答えの出ないような不可能な疑問を抱いていたのですね。そのことが分かったような気がします。 ありがとうございます。 今回で回答は締め切らせていただきますが、 この下記のような考え方もあるというのだけ、 付け加えさせてください。 「神を求めていった者は自分を見出し、自分を求めて いった者は、そこに神を見出す」 私は一つの考えだけにとどまらず、色々な見解を 融合していきたいと思います。 よい見解をありがとうございました。

回答No.3

あなたが,今椅子の上に座っているとします。椅子から降りずに、このいすを別のものに変えることはできますか。少なくとも脚を変えることはできないと思います。つまり,あなたは椅子以上にはなれないのです。

kareria
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 つまり、 私たち人間は神の存在の上に存在させてもらっているという事ですよね。 確かにそうなのかもしれません。きっと私は神がそのようにすばらしい存在だということの証拠をこの目で見たいのかも知れません。それは根拠でもいいかもしれません。 でも、私はその証拠も根拠もはっきりこの目で見えないので、どうしていいかわからなくなるのです。 考えがまとまらなくなってしまうのです。 もっと自分の考えを確立できるよう励みたいと思います。

  • la-luna
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回答No.1

私はクリスチャンではないので、単なる一私見としての考えを述べさせていただきます。 神とは、万物創造主であり、かつ絶対的存在であります。 全知全能であり、この世のあらゆるものを凌駕する存在であるのです。 従って、一被創造物にすぎない人間が、神の存在を理解することは不可能だと考えられます。なぜなら、人間という存在はあまりに小さく、またあまりに無力であるから、神という存在とは全く比べようにならないからです。 ですから、一被創造物にすぎない人間が、万物の創造主である神になろうとすることは不可能なのです。 神はまた、慈悲深き存在でもあります。 ですから、人間が神のように慈悲深くなろうと努力するのは良きことであり、最も求められることの一つでもあります。 しかし、それはあくまでも神の慈悲深さ・寛大さに「近づこう」とすることであり、「神の存在を超えよう」とすることとは全く異なります。 なぜなら、神に近づこうとする行為は、自らの無力さを認識しての行動ですが、神を超えようとする行為は、自らの無力さを無視した傲慢な行為であるからです。 人間はその無力さ・愚かさゆえに、神の前にひざまずき、許しを請わなければならない存在でもあります。 いわば、絶対服従です。(「絶対服従」というのはすこし度が過ぎる言い方かもしれませんが) 従って、弱く、愚かな存在である人間が、許しを請わないどころか、創造主である神を超えようと(=神の存在をないがしろにしようと)する行為は、傲慢で不遜な態度であるとしか言えません。 だからこそ牧師さまは、神を超えて神のようになろうとした天使を堕天使と呼び、神を超えようとする質問者さまの態度を悪しきものであるとおっしゃったのではないでしょうか。 冒頭でも申しましたが、これはあくまで素人の考えにすぎませんから、牧師さまのご説明をきちんとお聞きになることをお勧めしますよ。

kareria
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 でも、何をもって、神は絶対的存在で 人間は、弱く、愚かな存在と言えるのでしょうか? 私は神がなぜ絶対的存在と言われているのか 分かりません。 神より正しい意見を持った存在がこの宇宙のどこかに いるのかも知れない、なんて思ったりします。 牧師さんにも、この気持ちを訴えてみようと思います。 ありがとうございました。

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