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改易
熊本加藤家が二代忠広公の時に改易され、子孫は奥羽で庄屋になったという話を聞きましたが本当でしょうか? 東軍に味方した豊臣恩顧の福島家・加藤家は、言わばいちゃもん付けられて改易になっていますが、西軍総大将だった毛利家はなぜ改易にならなかったのでしょうか?越前系松平家とさかんに縁組したりして、幕府に常に低姿勢だったからでしょうか?
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まず、加藤忠広ですが、1632年6月幕府は加藤清正の子忠広を改易に処し、庄内藩主酒井忠勝に預け、長子光正は飛騨国高山に配流しました。忠広が奢侈逸遊に耽り、光正が大阪城を奪取して徳川氏を倒さんと陰謀したためと伝えられていますが、証拠は極めて薄弱で、豊臣取立の有力大名としてその名を知られた加藤清正の後裔が早晩たどらなければならない宿命であったとも見られます。 幕府は忠広に左沢(あてらざわ)1万石をを与えましたが、忠勝は罪人を遠隔の地に置くことは取締上甚だ不便なことを申し出たところ、幕府はその意を入れ、庄内の地に悪地(免の低い所)1万石を忠広に給すべしと命じその代替地として左沢1万2千石を忠勝に与えました。忠広の1万石の家計は非常に困難であったので、忠勝は年々百俵ずつの米を贈り、又在国中は時々見舞に訪問し配流の憂苦を慰めたといいます。忠広は1653年6月8日57歳で病死しています。 毛利氏ですが、関ヶ原開戦前、毛利一族である吉川広家は毛利氏の老臣・益田・熊谷・宍戸らと共に相談して、家康に内通していました。毛利氏が西軍に味方したのは、輝元の関知しないことで、安国寺恵けい一人の才覚によるものであることを申しいれたのです。そして、こういう広家の内通により開戦前に既に毛利の領国は安堵する旨の誓書を本多忠勝・井伊直正によって手渡されていました。 関ヶ原で西軍が敗れた時、輝元は大阪城に家康を迎えて一戦を交えた上で和議を結ぼうと考えていましたが、家広らの奔走により西の丸を退去することになりました。開戦前の誓書により既に和議はなっていると考えたのです。 しかし、家康は大阪城に入ると、輝元の罪状を数え上げ広家が内通した功によって与えられる筈だった防長二国を毛利氏に与えるという形で毛利氏の存続は許されたのです。
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- ss79
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毛利家は一度、関ヶ原合戦の直後改易されています。 吉川広家の内通で勝利した徳川家康は毛利家を改易し遺領を吉川広家に与えたのですが、広家は毛利家には手をつけないと約束したではないかと約束違反を楯に家康に嘆願しました。 この約束は謀略で家康はお墨付きを出していなかったので広家はだまされたと言えますが仲介にあたった黒田長政なども知っていることであり、家康もむげに無視できず毛利家を減封だけで許したのです。 しかし改易の危険は無くなったわけではないので毛利家は疑いを受けぬよう必死で努力を続けました。 その努力のお陰で明治維新まで存続出来たのです。 しかし減封の恨みは強く反幕府の精神は毎年の年頭行事に受け継がれていました。 その結果が明治の倒幕運動の原動力になったのかも・・・
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御回答ありがとうございます。 元々は安芸の小領主ですから、三十六万余石の国主として存続出来ただけでも良かったのかもしれませんね…。
- gorakuin
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こんばんわ。最初の話は知りませんでした。 毛利に関しては関ヶ原の折、一門の吉川広家が家康と内通しており、陣のある南宮山から動きませんでした。動いていれば勝利は石田三成のものでした。 総大将にしても自分に人徳のないことを知っていた三成が輝元にお願いしただけなのです。 でも最終的に100万石以上から10数万石に減らされてしまいました。本当は取りつぶしの所を内通していた広家が家康に掛け合ったといわれていますが。
お礼
御回答ありがとうございます。 結局、関ヶ原は毛利一門がひっかきまわしたのですよね・・・
お礼
御回答ありがとうございます。 忠広は一万石与えられていたのですね。