カテ違いかもしれませんが
カテ違いかもしれませんが、他に思いつかなかったので、、、
以下を宗教的なものを排除して論理的に書き直して下さい。
ある程度、端折ってもらって構わないです。
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人間の自我意識は左脳に在る意識です、処が人間は左脳の自我意識だけで生きている訳ではありません。
本当に人間が人間らしく生きてゆく時には、左脳の自我意識と右脳の仏性が調和をして生きています、
言い方を変えたなら、絶えず交代しながら、或いは連絡を密にして生きています。
処が人間の心は余りに巧妙に出来ています。その交代が分からないように出来ています。それが無明と言う事になります。
自分で自分が分からないという事です。自分は何者か?という疑問はここから湧き上がっています。
心の状態を端的に言い表すならば、右脳の意識と左脳の意識が喧嘩をしている状態が神経症、自律神経失調症、或いは悩みや、苦しみと言う事になります。
理由は以下に示します。
左脳の自我意識の機能は「分別」する機能が備わっています。従って割り切れる問題を論理的に割り切ってゆく処に在ります。
と言う事は割り切れない問題には対応できないという事になります。人生には割り切れない問題が存在します。
その問題を、言い方を変えたなら、矛盾する問題を左脳の自我意識である分別脳に抱え込む事が、人間の苦悩になっていると言えます。
心は悪循環に入ってしまいます、負のスパイラルに入ってしまうという事です。精心疾患からなかなか抜け出せない訳はここに在ります。
その悪循環からの脱出方法が「宗教」と言う事になります。キリスト教的に言うならば「天国に一番近い存在は幼子」と言う事です。
幼子は左脳の機能と右脳の機能が未分化だからです。まだ心が一つしかないからです。
思春期頃に脳の機能分化がほぼ完成に近くなります、悩みが始まるという事になります。
この事を聖書では「知恵が付いたために天国から追放された」という表現をしています。
人間の苦悩からの解消方法がお釈迦様の言う「悟り」です。それは自我意識が右脳の人格仏性と出会うという事になります。
右脳の意識は「仏」だからです。機能的に言うならば「全能」と言う事が言えます。割り切れない問題を解く事がその機能として備わっています。
自我意識の機能は割り切れる事(有限)に対して「永遠」そのもので出来ているからです。
その出会いによって有限である自我意識は永遠に包まれてしまいます。
そのために自我意識の苦悩は、肉体的な死は一番大事なことではなかった事を体得します。
是が「生死の問題」が解決した姿です。
キリスト的に言うならば「神の思し召しのままに」と言う事になります。仏教的に言うならば「自然法爾」と言う事です。
全てが、苦しみが有ったままに救われていた。と言う事になります。
人生に救いを求めていた事が「迷い」であり、救いが無かったと分かる事が「救い」と知るという事になります。
従って自我意識が自我意識だけで問題を抱え込む事が人生における苦しみと言う事になります。
機能的に解く事が不可能な問題を抱え込んでいるという意味になります。左脳の意識だけでは苦しみが解けないという事になります。
その解消方法が「禅」と言う事になります。禅に生きると言う事は、右脳の仏性が主導権を握って自我意識が従っているという事になります。
人生苦と言う事は自我意識が主導権を握って「仏性」の行方が分からなくなっている状態、或いは仲たがいをしている状態と言えます。
この事を無明と言っています。自分自身が分からないという事です。この状態から人生には障害が始まっています。
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お礼
早速のご回答ありがとうございました。