• 締切済み

紀伊が和歌山と三重に分かれた理由は?

 旧紀伊国が最終的に熊野川を境に和歌山県と三重県に分割された理由を教えて下さい。  例えば、紀伊全域がそのまま和歌山県というのならスッキリするのですが、何故途中で分かれたのでしょうか?特別な理由があるのですか?教えて下さい。

みんなの回答

noname#113260
noname#113260
回答No.2

http://wiwi.co.jp/cs/00001/free/media/newsforum/newsforum_019.jsp ↑これを見ると分かりやすいかな? 「木国」+「熊野国」=「紀伊国」 「和歌山県」=「木国」+「熊野国」÷2 つまり熊野国が(大体)新宮県になり、この新宮県が和歌山県と度会県(三重県)に分けられたのが歴史的経緯です。 熊野国はかつては1国でしたから、独立した県でもよかったのですが、熊野川を境に分けられました。 理由ははっきりしませんが、文化圏としては1つですし、桑名や四日市などと比べると気質が違う気はします。

noname#113260
noname#113260
回答No.1

紀伊国の内、和歌山県と三重県に分かれたのは熊野の近辺で、かつての紀伊国牟婁郡となります。 この一体はかつては熊野国として独立しており、孝徳天皇(596~654)のときに紀伊国に牟婁郡として編入されたとの説もある程広い地域です。 その為、明治の廃藩置県で、熊野川を境に二つの県に分けられ、熊野川以西は現在の和歌山県に、熊野川以東は現在の三重県に属することになりました。

関連するQ&A