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侍スピリッツ
昔は、日本人のほとんどが農民だったと思うけど、それにも関わらず、武士の文化を日本人のバックグラウンドに想定したり、日本人を侍に例えたりすることが多いのはなぜでしょう?
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日本には、江戸時代幕府や各藩の学校が約250有り、その他に、寺小屋と呼ばれる庶民を対象にした教育機関が1万2千余も有りました(これは、日本が朝鮮統治時代に朝鮮半島に作った小中学校の数に匹敵します)。そして武士がその教育に当たっていました。自然武士を手本とし、武士の高い道徳が庶民にも求められるようになったのです。 日本の農民がヨーロッパや他のアジアの農民と違うのは、字の読み書きが多少出来たことです。逆にいうと字の読み書きが出来なくては暮らしていけなかったのです。天災や病気の時、『こうこう、こういう理由で決められた年貢が納められません』と文書で提出しないと年貢が減額されなかったのです。実際、日本各地の図書館には郷土史料としてこの手の文書が膨大に残っています。庄屋さんや字の書けるお隣さんに書いてもらったと考える人がいるかもしれませんが、色々な書体が残っていることからも、その殆どは農民自身が自分で書いたと考えられています。それ程、日本の農民は、一生懸命学び、農民としては高い教養とモラルを身に付けていたのです。 宗教教育なくして、どうして道徳を授けることができるか。ベルギーの法学者ド・ラブレー氏にこう問われた新渡戸稲造がその回答として書いたのが『武士道』ですが、ここに整理されている人の倫(みち)たる概念が武士自身が心に刻んできた心得であると同時に、寺小屋で教えられる庶民の手本でもあったのです。
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- nemosan
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外国人の視点で日本人が気付かない“日本人の精神”を解説した有名なレポート:ルース・ベネディクトの『菊と刀』の存在が、日本人全てがサムライのように思われた原因ではないでしょうか。
お礼
ありがとうございます。やはり、ベネディクトを一度ぐらいは読みたいですね。
回答としては、鎌倉以来の日本社会の支配層は武士であり、武士の思想が日本文化を代表する物になったと言えるかと思います。 ただ、農民と武士は本当は同じなんです。 日本は農耕社会で、土地を守る為に農民が刀や槍をとって自分の農地や村を守ってました。 その内に自分たちの支配する農地を正当に認めてもらいたいと考え、各農民のまとめ役として、都のエライ方にリーダーをお願いするようにしました。 せっかくなら高貴な血を引く方がよいと、皇族に繋がる「平氏」や「源氏」の方々がそのリーダー役を引き受けます。 これが武士の始まりで、江戸時代に身分が固定されるまでは、農繁期には鋤や鍬をもって田畑を耕し、暇な時期は槍や刀をもって勢力の拡大を図ってましたから、一部の領主を除けば、武士は兼業農民と言う事になります。 幕府も今で言えば、農協の票で当選した議員が作った政権政党ですから、身分が固定した後も武士の下に支持者の多い「農民」を置いて、商工を下にしました。 因みに幕末の薩摩藩は今で言えば「経団連」の支持政党で、商人の支持を受けた藩です。 こういった社会背景がありますから、農民の上層部が武士であり、農民は下層の武士と考えてよいと思います。 幕末の新撰組の面々も農民出身者が多い事で分かると思います。
お礼
なるほど、武士と農民には、思ったよりも、はっきりした差がなかったのでしょうか。ありがとうございます。
お礼
ありがとうございます。やはり、武士に教育を受ければ、農民の心も武士になっちゃうんでしょうか。