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国語のテストってどう思いますか?
数学とかであれば、回答が一つに定まっている状況は仕方ないと思いますが、 国語はどうでしょうか? 私としては国語の漢字以外の 選択式、記述式回答は一つに決まらない用に以前から感じてているのですが みなさんはどう思いますか? また、採点方法についても ○と×だけしかなくて何らかのコメントがないのでどこがどう間違っているのか判断できないこともあります。 特に採点者側の本音が聞きたいです。 回答を一つにきめる理由や、きめざるを得ない理由などを聞きたいです。
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漢字の読み書きや、文法的な問題以外は非常に主観的なものであり、本来は設問にすること自体に無理があると思います。「主人公はその時何を思ったか」などという設問が実際に存在しますが、その答えは100人が100通りに感じるものであって、本来はどのような回答であっても、正解であるものです。 以前にも別の回答で書いたことがありますが、某有名作家が自分の小説の一部を出題され、その回答を見て、「こんなことは考えつかなかった」と言ったことがあります。つまり、誰か(教科書を作成した人、或いは、採用した人)が模範的な回答というのを作成し、それに沿ったものが正解で、そこから外れたものが不正解であるということです。ですから、採点基準としては予め用意された回答以外は、出題された小説の作家が考えていた内容であったとしても、不可としているだけと言えます。 主観的な回答を要求する場合、複数の回答を認めてしまうと、採点者の主観によって得点が変化してしまいます。従って、客観的に採点する必要上、回答は一つに限定されるのです。 けれども、小説や俳句、和歌などを含む文芸作品は、読む人の感性により、様々な広がりを持つものです。あるものを読んだ人全てが同じ感想を持つものというのは、ありえないはずです。 また、「‥川に飛び込む水の音」「‥岩にしみいる蝉のこえ」なんていう有名な俳句がありますが、これは1匹のカエルや蝉をうたったものなのか、沢山のカエルや蝉をうたったものなのか‥答えは一茶しか知りません。それを本人以外が勝手に解釈し、それを正解とする。そういった無謀なことが行われているのが現状ですよネ。 指導要綱が悪いのでしょうか? kawakawaでした。
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- frank
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国語は現代文、古文、漢文に分けられますが 古文、漢文に関してはなんのために勉強をするのかまったく理解できません これは私の友人も同じ意見です 学ぶ理由が明確にされない科目はストレス以外の何も生みません もしかして考古学者になるためでしょうかねぇ 現代文は、人とのコミュニケーションの方法を学んでいると私は解釈しています 人が喋るときに、単語が合っていても、皆が勝手気ままな喋り方では混乱が生じてしまいます 「相手がこう喋ったら、それはこういう意味で、それに対する解答の仕方はこうである」 といった法則を学んでいるのです 例: わたしのおもい わたしがおもい この例文は「の」と「が」の違いですが、全く意味が異なります。「の」と「が」の使い方が人それぞれでは駄目なのです このように正しい日本語を学ぶというのが現代文を学ぶ理由でしょう ただし、他の方がしつこいぐらいにおっしゃっているように行き過ぎの部分があります これは文部省がなくならない限り永遠に残る問題じゃないでしょうか
- greenhouse
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某有名予備校の国語の問題の採点をやっていたことがあります。 「~字以内で述べよ」などの、文章を書かせる類の回答の採点では、採点基準としていくつかのキーワードが提示されていて、それが回答に入っていて意味の通じる文章になっていれば正解としていました。 このように、問題の性質上、正解が何通りも考えられる問題もあります。ppooooさんが疑問を持った問題について、差し支えのない範囲で具体的に補足していただければ、もう少し詳しく回答できるも知れません。 ご参考になれば幸いです。--a_a
下記の方々の回答で充分のようですので、俺は現状をば。 現在、この「曖昧な物に明確な答えを付けての出題というのはどうか」ということが教育界で問題になっていまして、文部省は今、教育関連の大改訂を行ってます。 もっとも、改訂したらしたで色々新たな問題も起こってるみたいですけどね。 たとえば、新たに国語、算数、理科&社会(生活)の他に、「総合的な学習の時間」というカリキュラムが予定されています。 でも、教師としてはこれ、「なんやねんいったい」って感じで、困っているそうです。 あと、教師側に柔軟な発想が求め過ぎられるせいで、そういう思考が苦手な先生が窮地に立たされています(まあ、それは自然淘汰というレベルの話なんでしょうが)。
補足
みなさん、お返事ありがとうございました。 私と同じようなご意見をお持ちの方がほかにもいらっしゃるということがわかり少し私自身、安心しました。 私はもう国語のテストとは無縁ですが、 もう少し早く改革をしてもらえたらありがたかったです。 いろいろなご意見をよせていただきありがとうございました。
- pierre
- ベストアンサー率32% (12/37)
この難問に気づいたあなたに敬意を表します。すでにあなたはこの問題について解答を得る資格があります。 私としては、まずしっかり区別しておきたいのが、出題が文章の中での事実関係を問うものか、感想を問うものかということですね。前者であれば正解が存在する確率は高いと言えると思います。後者の場合、たとえば「主人公はどういう気持ちだったか」「作者はどのように考えているかなど」はたいへん曖昧な質問がされる可能性が高いですよね。あなたの抱える問題はしたがって後者ですね。 文学作品の読解力云々ということが、おそらく教育課程でうたわれているのでしょうね。でも文学者の間でも作品の解釈で論争があるわけでしょう。そもそも「作者の意図で作品を解釈すべきか」という問いもあります。定説が覆ることもありますし、文学作品には作者の意図を超えたゆえに名文といわれるものあります。 したがって、出題者は、念を入れて苦労して作っているでしょうが、厳密にいうと唯一の正解がないことのほうが多いともいえるでしょう。出題者の間違いや勘違いは問題外です。 同じことは論理能力を問う問題にもありますよ。狭い視野で見たときの答えと広い視野で見たときの答えが違うとか、観点を変えると答えが正反対になることはあるのです。出題者が回答者に視野や視点を規定しなければ、唯一の正解が得られないわけです。 では、どうしたらよいのでしょう。 もし、あなたが文学を愛好しているなら、国語の設問なんか無視して、勝手に想像し解釈しましょう。たくさんの本と出会ううちに、「解釈」とか「主観」「客観」という問題に突き当たりますから。そのときに真剣に考えてみましょう。答えは、きっと見つかるはずです。 あるいは、国語で高い点数を取りたいということなら、出題者は、どう答えて欲しいのかを推し量る技術を訓練しましょう。これも決して無駄な技術ではありません。 ちなみに、数学だって、いくつもの答えはあることもあるんですよ。 おじさんからすると、あんまり「正解」というものにこだわらず、むしろ自分の考えを押し通して、その結果、間違いが見つかったら喜んで直すというように、伸び伸びと学習されたほうがいいと思います。とくに文学は、「正解」ばかりを求めると正解にたどり着けないかもしれませんよ。 答えになってませんね。
- FRO-SK
- ベストアンサー率17% (6/34)
誰もが学校で国語のテストを受け、同じように思った経験があるのではないでしょうか。わたしもその一人です。 ここでは、あえて逆の考え方を提示します。こんな考え方はいかがでしょうか。 論説文や評論などの場合、新聞の記事などと同様に、事実やある思想を正確に伝達するために書かれているので、誤解を招く表現はないように書かれています。人によっては新聞の記事を深読みしたりしてねじ曲げた解釈をする人もいるようですが、あえて厳しいことを言えば、読解力の訓練不足だと思います。よく「評論などの方がやさしいよ。」と先生方がいうのは、こういうことなのでしょう。ただ問題は、そうやって書かれた文章を正確に解釈する方法が、今までの国語の授業ではなかなか説明されていないことだと思います。説明されたとしても、目的意識がないまま聞いていて、なかなか理解できなかったか(僕はそうだったような気がします)。文章読解や文章修行はセンスや積み重ねが大きいものなので、先生方も言葉ではなかなか説明できないのでしょう。しかし、確実に正確な読解法というものは、あります。(と思うのですが、みなさんどうでしょう。)精神衛生上、そう思うことにしているのも事実です。 そう考えていくと、小説なんかも判断材料がたくさんあるので、あまりたくさんの解釈は出来ないと思います。ただし問題などですと前後が割愛されていたりしてますが。たまぁに文章中に判断材料がなくて、その他のところに証拠があったリする悪問がありますね。こういう問題に出会った人は、不幸です。 俳句や短歌、詩などは、いくらでも解釈が成り立つように書かれていると言っても過言ではないので、これらを問題にするのはナンセンスだと思います。 また「三十字以内で答えよ。」という問題に関して、当然ある種の法則に従って解答が作成されているわけですが、その法則ってものがわかれば、常に満点が取れる、って思いませんか? 読み手が自分の解釈したいように思いこんで読んでいることが、この問題のポイントのような気がします。「自分はこう考えたい!」という主観的な甘えがあるから、「解釈」が出来なくなる。文章は自由に読んで考えていいものだけれど、正確に「解釈する」というのは、訓練がいるものなのだ、という考えも持ってみたら、何か変わるかもしれません。 やや強引な意見でしかもまとまってませんが、僕はこう思ってます。みなさんどう思われますか?僕も質問者のような立場で、意見が聞きたいと思います。 ちなみに、僕のこの文章は…すっごく誤解をうける類の文章だと思います(笑)
- Naka
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◆Naka◆ はい、おっしゃる通りだと思います。 私が日頃、メインで教えているのは英、数、理、社で、国語は見る機会が少ないので、あまり参考にならないかもしれませんが。 ただ、国語でも「解答があると考えていい」ものは存在します。 以下の文を読んでみてください。 -*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*- 「『私はどこまでもお兄ちゃんのあとをついて行く!お兄ちゃんがおなかがすいたら私がごはんを作ってあげる。お兄ちゃんが戦争で怪我をしたら、私が包帯を巻いてあげるの!』ポー作は、それを聞いて妹をきつく抱きしめた。『まったくオマエはバカだなあ。』ポー作の目から涙があふれた。」 【設問】「オマエはバカだなあ」と言ったときのポー作の心情を述べなさい。 -*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*- この設問を中学生以上の人が解いて、そう何種類も答えが出てくるとは思えないでしょう? もちろん解答する際の表現の違いはありますが、これは「解答があると考えてもいい」のではないですか? しかし、実はここにこそ落とし穴があるんです。 一部の国語の先生や専門家は、もっとハイレベルな文と、年齢が上の人に対しても、同様に「解答がある問題は作れる。単にレベルが上がっただけだ。」と思い込んでいるんです。 自分の「深い読み」に酔っている方も、時折見かけますね。 そして試験、特に学力試験や入試では「主観的な解答を、客観的に採点する」基準が絶対に必要ですから、「設問を作った人間が用意した模範的(主観的?)解答」の中から「必須の単語」と「必須の論理展開」をチェック項目とし、それに従って採点するしかないわけです。 ですからコメントを書くにも書きようがないんです。「○○という単語が使われていない」、と書くわけにもいかないでしょう。 選択式の場合は、「明らかに消去法が有効である」設問は合格としてもいいと思います。 「文を読みこなし、深く解釈する」重要性については言うまでもありませんが、こと試験に関しては極力「あいまいさ」を排除した問題作りに気を配ってもらいたいものですね。 *上記の文は、全くの私の創作ですので、著作権問題等についてはご心配なく。
お礼
ありがとうございます。 私も漢文や古文を学ぶ意義ははじめは良くわからなかったのですが、習っているうちに、たとえ話としては結構使えるのかなという印象は持ちました。 でも確にもっと確実に役に立ちそうなものもありそうな気もします。