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ゴスペルの "Down By the Riverside"の歌詞について
プレスリーをはじめ多くの歌手が歌っている“Down By the Riverside”の歌詞について質問します。 1番では「川岸に荷物を捨てよう。もう戦争はうんざりだ」と歌っていますね。この荷物は、軍隊からの帰還兵が兵士としての荷物を置いて行くと考えていいのでしょうか?2番では“I'm gonna put on my long white robe down by the riverside.”「川岸で長くて白いローブを着よう」と歌っていますが、この“my long white robe”というのは、何を意味しているのでしょうか?牧師のローブなのか、それとも単に、普段の服なのか、でも、なぜ「長くて白い」ローブなのかな?・・・と首をひねっています。 また、この歌は、とてもはっきりと戦争を批判していますが、いつ頃、どの戦争がきっかけで歌われ始めたものなのでしょうか? どなたか分かる方教えてください。
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Shimo-py より コメントありがとうございました。 再び回答します。 > しかしながら、この歌を歌う人々の心には、その時代その時代の具体的な戦争が想起されて来たように思えてなりません。 ◆反戦の歌は、 「○○戦争反対」という歌詞にしてもよいのですが、 あえてそうせず、たとえば聖書のモチーフを利用したり、 (人間とは対照的な)自然について歌ったりすることで、 より広いメッセージを担うことになります。 つまり、人間とは何か、どうあるべきかを問うことが できるようになるのです。 もちろん、反戦歌が作られる意図は特定の戦争が契機であったりしますし、黒人歌には、奴隷の境遇にあることから生まれたりするものがありますが、いずれも、テーマそのものを歌うことは少ないと思います。そのテーマに限らず、もっと広い、普遍性をもったものとして捉えているのだと思います。したがって、特定の戦争を契機に生まれた歌であっても、戦争以外の場で歌って人間の意味、あり方を問うことができるわけです。 > ブッシュ陣営とそれを支える福音派の人々はキリスト教の名のもとに「邪悪なもの」との戦争を正当化しています。言い替えると、神の義を求めるために聖戦を遂行するという論理です。いったいどちらが正しいキリスト教なのでしょうか? ◆面白い質問ですね。 イスラム原理主義者を名乗るイスラム勢力が、本当のイスラム教だと考える人はいないでしょう。 でも、「原理主義」というのは、もともとキリスト教の用語であり、ブッシュ陣営を支える「福音派」は、キリスト教原理主義に属します。キリスト教原理主義を「本当のキリスト教」と考える人は、本人たちを除いていないと思います。 ◆原理主義というのは、簡単に言えば「原理」(キリスト教の場合は聖書、イスラムの場合はコーラン)に文字通り忠誠を貫きとおす考え方であって、その宗教が腐敗したときに生まれる一種の「宗教リバイバル運動」です。 16世紀にルターの運動を機に生まれた宗教改革も、「聖書に帰れ」というものでしたね。一種の原理主義運動です。ところがこの原理主義をどんどん推進していくと、独善になっていき、他者排斥につながります。 ◆1960年代後半以降、キリスト教の諸教会(カトリック、東方教会、プロテスタント)は、立場の違いを超えて協力し合おうという流れが生まれています。 聖地エルサレムを戦争の的にするな、という運動を、彼らは起こしています。 そんな中にあって、福音派は、アメリカからエルサレムに乗り込んできて、「エルサレムはイスラエルのものであって、ムスリムのものではない」とする運動を展開しています。彼らが十数億にのぼるキリスト教徒の世界の中で孤立していることは確かなのです。 ただしアメリカだけは少し様相が異なり、もともとプロテスタントの中でも特に原理主義的な傾向の強い人が多く、彼らの社会的影響力が大きいのです。 ◆先般のイラク戦争でも、国連安保理に出向いて説得し、また安保理非常任理事国の取り込みに尽力し、最後まで米大統領に特使を送って説得を試みた国は、バチカンでした。最終的にアメリカは国連無視で立ち上がったわけですが……。 ◆というわけで、「神の義を求めよ」というのは聖書のことばではありますが、文字通りにそれを遂行しようとするのが原理主義=福音派であるといえます。 聖書は、一箇所だけ取り出して実行してはならないのです。確かに聖書には「神の国と神の義をまず求めよ」と書いてあります。でも同時に「敵を愛し、自分を迫害する者たちのために祈れ」とも書いてある。聖書になんと書かれているかを重視する原理主義者は、聖書全体のメッセージは何かを見落としているので、アメリカ国内ではともかく、キリスト教世界では相手にされません。 イラク戦争についての見方はいろいろ分かれると思います。少なくともキリスト教的メッセージからいえば、正しくないというのが本当のところで、バチカン外交もそれを示すために最後まで戦っていたのです。
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>でも、その後に“I ain't a gonna study war no more”と歌うとき、現実世界での戦争に対する気持ちがこめられていると思うのは考え過ぎでしょうか? いいえ、ちっとも考えすぎだなんて思わないですよ。むしろ、その方が本当かもしれません。戦争のない時代なんていまだかつてないのですから、その時々の実際の戦争は、singer の心の中にも、聞き、ともに和す人たちの心の中にも、思い浮かべられて来たのではないでしょうか。shield and sword という言葉も歌詞としては比喩的なものかもしれませんが、実際にこの詞を書いた人も現実の戦争を直接思い浮かべて書いたのかもしれませんね。また、歌は歌い継がれていく中で時代時代の求めに応じた新しい意味、その時代の状況の中での意味を獲得して何度も生き返っていくものだと思います。ですから、maabo50さんのお考えのとおりなのではないでしょうか。私が書いたのは、基の詞のイメージはこういうものなのではないでしょうか、といった答えに過ぎませんので、実際に今歌われ、ともに和される中で確かめ合われる意味は常に新しいものだと思います。maabo50さんのお考えに異論はありませんよ。
お礼
回答をもらったときは、とんでもない勘違いをしていたと思いましたが、ず~っと考えて、「歌う人の心は、どうなんだ。歌う人はこの世に生きていて、その心に響くからこそ歌うのだ」と思えてきました。とてもすっきりと分かりました。ありがとうございます。
- Shimo-py
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川のイメージについては、No. 1 さんが回答しておられますのでご参照ください。 ◆この歌の一部は、後述するようにイザヤ書のイメージが生きていると思われます。(イザヤ書とは旧約聖書中の預言書で、救いの到来を描いている) イザヤ書では、「人々が川のような流れになって、平和の地(神の山)に向かう」というイメージだった(イザヤ2章)はずなのですが、この歌では、川べりをくだっていく、というイメージになっています。 ◆この歌には、 study war no more という表現がありますね。 study という動詞が変だなと思うかも知れませんが、 イザヤ2章4節に neither ... learn war any more という表現があり、そのなぞりです。 They shall beat their swords into ploughshares and their spears into pruning hooks; nation shall not lift up sword against nation, neither shall they learn war any more. をなぞったものと思われます。 「彼らは剣を打ち変えて鍬にし、 槍を打ち変えて鎌にするだろう。 民は民に向かって戦いを挑まず、 民はふたたび戦を学ぶことはない」 ◆白い服、というのは、新約聖書の最後の書、「黙示録」に出てきます。そこでは、キリスト教的な意味において勝利をおさめた者たちは白い衣を身にまといます(黙示録3章4~5節、6章11節、7章9~14節など)。また黙示録に出てくる天の長老たちは、金の冠を身に着けています(黙示録4章4節)。 ◆そういうところから、「白い衣」はキリスト教においては「再生」のしるしとされ、「古い人」から「新しい人」になることを象徴します。キリスト教では(宗派にもよりますが)伝統的に、洗礼式のときに「白衣の授与」というのがあり、司祭が「白い衣を受けなさい…」ととなえる場面があります(文字通り白い服をあげるのではなく、女性なら白いベール、男性なら白い布であることが多いです)。
お礼
この歌に使われている表現は、聖書に由来していることが良く分かりました。不条理な戦いの世界から神の国への救いを求めているのですね。 しかしながら、この歌を歌う人々の心には、その時代その時代の具体的な戦争が想起されて来たように思えてなりません。 ブッシュ陣営とそれを支える福音派の人々はキリスト教の名のもとに「邪悪なもの」との戦争を正当化しています。言い替えると、神の義を求めるために聖戦を遂行するという論理です。 いったいどちらが正しいキリスト教なのでしょうか?
こんにちは。 私の個人的な印象ですけれど、ご参考にしていただければ幸いです。 gospel はその名のとおり福音を歌っている歌だと思いますので、聖書の故事などを背景にした詞が多いのではないかと思います。 burden は「重荷」、この世のくびきといったことを象徴している言葉ではないでしょうか。John Bunyan (1628-88)のThe Pilgrim's Progress (ジョン・バニヤン「天路歴程」)という英語圏では非常に親しまれてきた宗教書(というか物語)がありますが、この物語はクリスチャンという名の一人の男が、a great burden を背に背負って天上へのはるかな旅路に着くというところから始まります。長い道のりの途上で、さまざまな誘惑者が彼を惑わせるのですが、導き手の力を借りながら、彼はゴールに辿り着きます。ですから、burden を下ろすということは、この世のくびきから解放され、キリストの心に生きる、といったことを示唆しているように思いました。(ご存知かもしれませんが、この物語は子供にも親しまれ、「若草物語」の章立ての下敷きにもなっています。例えば、chapter 4 のタイトルは"Burdens"です・・・) 私はキリスト教徒ではありませんが、聖書の中では、river というのは baptize されるところ(洗礼を受けるところ)というイメージが常にあるのではないかと思います。キリストがヨハネから洗礼を受けるところはヨルダン川ですし、また、モーセが赤子のうちに arc に乗せられ川に流されますが、エジプト王の娘に川べりで救われる物語など、川は命や魂の再生の場といったイメージがあるのではないでしょうか(これは聖書の世界に限られないと思いますが・・・)。 ですから、put on my long white robe は洗礼を受ける、もしくは比喩的にこの世の争いから心を解き放ち、キリストに帰依するといったことを暗示しているのではないかなと思いました。war も特定の戦争にのみ限らず、「争い」かなと思いました。歌の作られた背景などは分からないのですが、曲も詞もtraditionalとありましたので、きっとかなり古い部類のゴスペルなのでしょうね・・・。 以下、参照したページですが、よろしければご参考にしてください。川に思いを致させていただき、ありがとうございました。失礼いたしました。 http://www4.big.or.jp/~joshiba/gospel/ http://kobemasschoir.org/special/gospelh.html http://bible.gospelcom.net/cgi-bin/bible?SearchType=AND&language=english&version=NKJV&searchpage=0&search=down+by+the+river+side&x=10&y=11 http://bible.gospelcom.net/cgi-bin/bible?SearchType=AND&language=english&version=NKJV&searchpage=0&search=white+robe http://bible.gospelcom.net/cgi-bin/bible?passage=MATT+3&language=english&version=NKJV
お礼
“burden”は「重荷」でしたね。キリスト教の世界でした。イラク戦争のことで心がリアルになりすぎていました。“put on a long white robe”も洗礼を受けて、神の義を求めるということなのですね。ありがとうございました。 でも、その後に“I ain't a gonna study war no more”と歌うとき、現実世界での戦争に対する気持ちがこめられていると思うのは考え過ぎでしょうか?
お礼
丁寧な回答をありがとうございました。バチカンもイラク戦争を止めるために努力をしてましたね。しかし、宗教色がにじむ戦争が行われているとき、キリスト教の関係者はもっと発言する義務があるようにも思ってしまいます。 聖書の「まず、神の義を求めよ」という言葉は、ミュージカル、「サウンドオブミュージック」の中では主人公の家族の背中を押す力強い言葉として使われていて、感動したことを思い出します。また、先日、ハーレムゴスペルクワィアのコンサートで力強い歌声を聴きました。キリスト教が素敵な宗教だと思いたいです。