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部落差別・・・
皆さんは部落差別について学校で学習するべきだと思いますか?それとも学習しないほうがいいと思いますか? 皆さんの意見を聞かせてください!
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- tarotyu
- ベストアンサー率33% (60/177)
自分は北海道人で、部落差別という言葉も、事実も知りませんでした。 青年時代を関東で、無頼の世界に身を置き、初めて「同和問題」を聞き知ったのも、同和の活動家(今、考えればエセの部類でしょうが…)との知己からであり、関西の某大親分もその差別をバネに武闘派の一角として週刊誌の紙面を何度となく飾ったのもこの差別を受けたトラウマとも聞いております。 臭い物に蓋ではなく、事実は事実として軽く触れる程度の教育は必要と考えます。 その存在自体を知らなければ恥をかくことにもなりますし、差別の継承、存続は別の面での教育であり、教職が破廉恥罪でマスコミの紙面を賑わす現在ではいかがなものか…という疑問もありますが必要性で見れば絶対に必要と思います。 北海道=アイヌ… これだって十分な差別ですよね? 自分の同級生にも何人もいましたが別に、人肉を食うわけでもなく、肘から排便するでもない普通の人間です! しかし、本州からの観光者は面白がって「アイヌを見たい!」と言い、彼らも観光地として自分たちの生き様を見世物にしているのですからどっちもどっち… これは誤った教育の結果で、自分らが関西を旅行して「同和の部落が見たい…」と同じ論点ですよ。 欧米では一昔前は日本人はちょん髷に刀というのが信じられていたように… 専門家ではないので方法は分かりませんが事実を捏造せずにありのままの歴史を語るのも教育と言えるのではないのでしょうか?
- akkorinn
- ベストアンサー率25% (2/8)
私の住む町には、もともと部落と呼ばれた人たちが住むところがあります。私は今、大学生ですが、小学生の時に、部落と呼ばれた人たちが働く工場に行きました。その方々はにかわ(豚から作るゼラチン)製造の仕事をしていました。安くて汚くて厳しい、一般の人がしないような仕事につかざるを得ない状況であると、おっしゃられてました。 私はその当時、部落に対して考えることなんて、何もなかったですけど、今、アメリカに留学することを前提に勉学をしている私にとっては、大きなことでした。日本にも顕著ではないですか、差別が存在するということ。 おそらく、部落とういう言葉にはさまざまな認識がなされてると重いので、私は、ちゃんと教育されるべきことだと思います。
- ozisan
- ベストアンサー率11% (154/1339)
教育と言う名がつけば、学ぶべき事です。 「戦争の悲惨さを語り継げよう」は、皆さん納得する事だと思っているでしょう。 部落差別が「国の政策」として行われ、 人としての尊厳を踏みにじられてきた事実も、語り継がれるべきです。 「本当の歴史」を役所は隠したり、捻じ曲げています。
- D-BOY
- ベストアンサー率34% (48/140)
以前いた会社で、同和問題対策会議という大きなイベントに出席しました。 ホテルの大会議室を借り切り、様々な印刷物を山のように頂き、飲み物まで出していただいての会議でしたが、発表者が紹介する差別事例のほとんどが、15~30年前の事例でした。 はっきり言って、全く現実味の無い会議で、この会議ににいったいくらの予算が使われたのか、そっちの方が気になるくらいでした。 もう少しして、私の両親が死んでしまう頃には差別意識を持った人がいなくなるのではないかと感じますね。 知識として、昔そういう馬鹿げた差別があったんだってくらいは学習するべきだと思いますが、それが差別撲滅に繋がるとは思いません。
- umibouzu64
- ベストアンサー率23% (127/533)
♯9です。♯10さんの言われるように、確かに、「同和月間」だったか「同和週間」だったか、そういうのは聞きますね。あれが「大人の教育」ということであれば、決して学校教育に偏向しているということではないですね。失礼しました。 ただ、私はそのような講習などに参加していないのですが(どれだけの市民が参加しているのでしょうか?)、講演の演題などから推察するに、本当に実効が上がっているのか、疑問なのです。大抵は、部落差別の現状報告と啓蒙活動、で終わってしまうのではないでしょうか?大人の教育は、子供とは違った方法論で行われるべきではないか、と思います。 本来は、差別する(可能性のある)側と差別される側とが真剣に討論する必要もあるかもしれません。だがしかし、現実には難しい。小林よしのりが「差別論スペシャル」という漫画で書いているとおり、一般的には、非常に「怖い」という印象です。だから、政治も、行政も、企業も、マスコミも、腫れ物を触る思いでこの問題に対処しているはずです。このような態度でいる限り、根本的な解決には決してならないと思うのです。 こう言うと、「お前も差別者か」と思われるでしょうが、個人的には「違う」と思っています。ただ、一度抗議を受けた人なら分かるはずです。これは、抗議をした人個人が悪いというより、制度の問題でもあります。数々の優遇措置があるから、差別をなくすどころか、差別される側が、あえて「私は同和地区の住民です」と声高に叫んでいる現状があります。これが「差別をなくそう」という主張なら分かりますが、現実はそんなものじゃない。「手段」が「目的」に変わった、というのは、そういうことです。これは、(名前は忘れましたが)部落開放に携わってきた「功労者」が自認したことです。 このように、「大人の教育」は、現実問題に対処しなければならない分、大変厄介なものです。だから、まずは「逆差別」の解消から始めなければならないでしょう。が、誰も恐れて、この問題に手をつけようとしない。そして、玉虫色的な基調講演でお茶を濁す、というのが私の印象です。それとも、もっと突っ込んだ議論が展開されている地区がありますか? 理想と現実の狭間で、私自身、この問題に対処し切れていない部分が大いにあります。決してこちらから差別しようなんて思いません。しかし、一度強烈な現状を目の当たりにしたら、もはや個人の力では限界を感じます。まずは現状を変える強烈なリーダーシップが欲しいなぁ、と思うのです。それがなければ、実効の上がる同和教育は出来ないでしょう。教える側にその現状認識がなければ、いくらいいことを言っても「絵に描いた餅」になると思います。
- chicago911
- ベストアンサー率30% (213/706)
つい最近同じ質問上がって、40 程回答が寄せられていますね。これも参考にしたらどうでしょう。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=679132 個人的には 「同和教育」 を受けたことはありません。関東出身です。長野県に移住したところ、かの地では結構一生懸命やっていました。問題は 「部落差別」 とどう捉えるか、もっと言えば 「差別」 をどう捉えるかでしょう。日本史を勉強すれば、エタ・ヒニンと言う言葉は避けて通れず、その時代にはそういった被差別階級が存在したことは事実です。この歴史的事実を葬る、なかったことにする、訳には生きません。 人間は人間から生まれる以上、親があり、その親にも親があり、と、どの家系も万世一系の家系なのです。即ち、江戸時代にエタ・ヒニンと言われた階級に属していた人間の家系があることは、これは事実です。このことは誰も否定できません。自分の祖先をたどって行ったら、被差別階級の人間がいる可能性はどの位でしょう。300 年前として、一世代平均 30 年とすれば、10 世代、自分の祖先の人数は 2^10 で、1,000 人近くいますよね。この中で一人当れば、自分はエタ・ヒニンの子孫であることは間違いないことになります。これ何か意味ありますか。 具体的に 「同和教育」 で何がどう話されているかは知りませんので、言及はできませんが、個人を尊重するのであれば、祖先が何だろうと関係ないと思います。個人で考えれば、いい人間はいい人間だし、悪い人間は悪い人間としか言えないのです。親がどんなに偉かろうと、子供は別の人格で、親のように偉くなるものもいれば、犯罪者になる者もいるでしょう。逆に、親が犯罪者であっても、その子供まで犯罪者として扱うとしたら、どう考えますか。このように、個人を個人として尊重すれば、「差別」 は生じない筈です。ここで勘違いして欲しくないのは、個人を尊重すると言うことは同時に個人の能力を尊重することで、結果としての 「区別」 は必要です。個人を尊重せず、所謂家柄、家系などを重要視する限り、出身、祖先の身分がついて廻り、結果としては 「部落差別」 は表面はなくなっても、意識の中には残るのではないでしょうか。それでは解決にならないと思います。 「部落差別」 について教育するのであれば、どういう形かで、回答は変わります。上で述べたような、個人を尊重することへつながる教育であれば、やるべきです。ただし結果として 「部落差別」 を包含することになり、これは第一義にはなりませんが。ただそのきっかけ、第一歩として 「部落差別」 を取り上げるのであれば、それはそれで意味あることだと考えます。 個人的には、天皇家の存在を許容する Mentality、即ち 「家のつりあい」 云々があるうちは、個人より家系に重きを置く Mentality が残存していることになりますから、心の中の 「部落差別」 は、どのような教育をしようと残るでしょうね。
場所と場合によると思います。 私は東日本の人間ですが、そうした教育もなく、周囲にそういう事もなかったので、差別感情は幸いに持ち合わせる事なく物事の分別がつく年齢になりました。 分別がつく前にそうした差別感情に触れてしまうと、幼児体験というか、そういう体に染み付いたものは、大人になってから理屈で学んでもなかなか消えないものではないでしょうか。 物事の分別がつかない子供にそういう事を教えるのが是か非かはわかりませんが、周囲に公然と差別を口にする大人がいるような地域では教育は必要でしょうし、逆に差別のないような地域で、小学生など相手にあえて詳しく取り上げるのは疑問です。
人権教育というのは心の教育で非常に大事な教育だと思います。 その中の1つとして、同和問題を取り扱うというのならやっても良いかなと思います。 しかし、同和が第一でその他の障害者とかはどうでも良いみたいな今の教育には疑問を感じます。 #9さん、俺の住んでいる県では、年に何回か班ごとに集められて同和問題に関する勉強会がありますよ。 県や市町村にも同和月間が定められて、講演等の行事がたくさんあります。
- umibouzu64
- ベストアンサー率23% (127/533)
現実に差別が行われているなら、すべきだと思います。ただ、私は、学校もそうですが、もっと現在の大人を教育した方がいいと思うのです。 こういう私も例外ではないです。私も同和教育を習い、「僕は絶対に差別をしないぞ!」と誓ったものです。ところが、いざ社会に出てみると、さまざまな形で根深い差別が残っている。困ったのは、いざ自分が結婚しようとした場合です。どうしても、部落問題を抜きに語ることは出来ないのです。「おかしい」と思いながら、社会の歯車に巻き込まれていく自分を感じました。 それでは、差別される側の人に全く問題がないか、というと、それも違う、ということもまた、社会人になって痛感したのも事実です。特に、数々の優遇措置は、「これじゃ逆差別じゃないか?」とも感じます。ですから、差別される側も、いつしか「手段」が「目的」にすり替わっているように思います。また、一部の方でしょうが、企業に対し、行政に対し、数々の無理難題を押し付けている人がいるのも事実です(一般的には「エセ同和」として片付けられますが、決してこのようなことをする人はエセ同和の人たちばかりではありません。私は経験済みです)。詳細はここでは避けますが、社会人として暮らしていたら思い当たる人も多いことでしょう。 よって、差別する側も、差別される側も、本気で部落差別のことについて考えてほしいのです。学校教育だけに押し付けて、自ら考えることを放棄する大人は卑怯だと思います。
お礼
ですよね・・・みんなが知っていなければならないもんだいですよね>_< 回答ありがとうございました!
No.2です。 九州にもありました(今は知りません。複数あったの知ってます)。自殺した女性も福岡県の人だったと思います。 私は「橋のない川」という小説が大好きで愛読したものです。被差別部落が舞台ですから、考えさせられ、勉強になりました。昔、映画にもなったようです。 教育をするなら、歴史的なこともふまえて、ある程度の判断力がある年齢(中学生以上)からがふさわしいと思います。微妙な問題なので、教える人の資質とやる気に大きく左右されそうです。
お礼
やっぱり九州にも部落はありましたよねww私も『橋のない川』の映画見ました!あの映画はいろいろ考えさせられました…
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お礼
大切な問題だからこそやるのは当たり前だけどなかなかできないことですよね・・・回答ありがとうございました!