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書写の授業は必要だと思われますか?

先日、「学校に書写の授業は必要か?」というラジオのトークテーマで、教育委員という方が電話で「英語教育が今学校に組み込まれていく方針で教科を構成すると、書写の授業をけずるしかないというのが現状」などと話しておられました。 私個人は書というのは、静かな中で集中して自分と対話することのできる精神文化であり、また図工でも昔あった写実的な絵の指導がほとんど行われなくなってきている今の教育で観察力・分析力、転じて洞察力を育成する重要な時間であると思っています。 日本独自に発達した仮名をふくめた書という日本文化を、そしてパソコンが普及している中で自分の手で文字を丁寧に書く大切さを味合う時間をなくし「英語の時間を」というのは、本末転倒のように感じてしまいました。 ただ私も20年書をやっている人間なのでこう感じてしまうのかもしれないと思い、実際皆様は、また保護者の方々などは書についてどう思われているのか知りたくなって質問させて頂きました。 もしよろしかったらご意見お聞かせください。

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  • asaka3
  • ベストアンサー率33% (85/255)
回答No.9

書写と書道は別の物であるという当たり前な点をふまえた上で、 書写は必要であると考えています。 書道は、義務教育では必要ないと思います。 今、毛筆限定で話されてますでしょうか? 書写は、硬筆、毛筆、両方ありますよね。 質問者が主張されてます、 観察力、分析力、・・等は、書写だからこそ必要なのであって、 また、書写だから育つ物なのであって、 書道になった場合は、薄れてくる物なのだとも思います。 (臨書は別だけど、今、ここで書道といった場合は、臨書より、創作という意味で話されているようなので) 私も、書写で、そのような点が身に付くことは感じておりますし、 硬筆でも、毛筆でも、 分析のコツさえ分かれば、ある意味誰でも指導できる点も、 書写は書道と違うと思います。 ですから、義務教に関わる先生方に、 きちんと分析の仕方を学んで頂ければ、 意味のある書写の時間になるかと思います。 義務教育をうけた全員が書家をめざすわけではないですから、 (全員が学ぶ必要がある)実用的な書体として、楷書からはいるのもうなずけます。 では、何をけずるのかと言うことになるなら、 英語は小学校では必要ないと思っています。 そもそも、日本語の表現力がこれだけ落ちている今、 (今の子は、言葉で表現できないから、 感情が高ぶったとき、困ったとき、泣く、わめく、あばれる・・・・) 自分の想いをまず、母国語できちんと表現できる力を高めることが急務かなと。 ですから、 もし、現在の書写に問題があるならそれは改善すると共に、 各教科等において、知識偏重ではなく、 きちんとした思考力、表現力を養うような、教育課程が組まれることを求めます。

nekoneko37
質問者

お礼

うんうん、英語は今小学校にいらないですよね・・・。今の子たちのひどい子は一言目には「うぜぇ」二言目には「わけわかんねえ」三言目には「しね」・・・悲しくなる子がいます・・。まず言葉の美しさと日本語による心と心の関わりを最優先すべきで、英語で国際化とか言ってる場合じゃないだろうと私も思います。 「書写」と「書道」の違いを正確に把握しておられるので、義務教育の中での「書写」の意義をものすごく納得して読ませて頂きました。ありがとうございました。

その他の回答 (10)

noname#21592
noname#21592
回答No.11

はい、私は墨すり機の役でした。20人くらいで、バケツ2杯の墨をすって、40畳くらいの大きさに和紙をつないで、という、下働きは、昔経験しました。 正直、墨すり機、自分で、買いたいです。 意の分かる先生には大いにやっていただきたい >>>>もちろん、そのとおりです。書写も書道も、経験する年齢が低いほど、よい師の下なら、すべての学問にプラスになります。 が、宗教や哲学や、道と名の付くものに、接触したことの無い今の特に公立小学校女性教師に、その感覚を求めるのは、無理でしょう。 どうしても、今の学校教育は、書写についてさえ、子供の眼の高さで、評価できず、結局、作品というか、結果重視ですのもの。 口で、子供に、やりなさいっていうだけの、授業なら意味ないです。 自分は、字は汚いし、書道も未だできませんが、日本で有名な書家に、なんの因縁もない私の筆をとって、いっしょに、教えてもらう、自分の背中で、師の心臓の鼓動がわかる。ような経験は、良かったと思ってますよ。 僕自身、書道教室とか、通ったことはないですし、 その師に、授業料は、1円も払ったことは、ないです。 で、墨すり機役でもって感じですかね。 もう、この世には、見えませんが。 楷書も抜群ですが、ほとんど楷書は書かなかったですね。 また、美術書道のようなタイプでなく、漢詩優先でしたが。

  • JW500
  • ベストアンサー率36% (261/717)
回答No.10

個人的には「必要である。」と思います。 限られた授業時数の中で(高学年なら週27時間) やらなければならないのですから 大変なんですね。どの教科も。 書写はあくまで「国語」の中の学習ですから 書写の領域だけ特別に扱われるのもおかしいです。 私見ですが 日本語の文字、漢字、ひらがな、カタカナは それぞれの歴史と文化を持つわけです。 漢字でも約2000年の歴史があるわけですから その偉大な役割を指導者がわかっていないのでは 授業もただ書けばいいというものになりがちかもしれません。 文字を書く行為そのものが芸術として大きく評価 されるのは東アジアの中国と日本ぐらいで その他特にアルファベットなどの文字の国は 装飾的なカリグラフィーをのぞき、一般の方は それほど文字を書く行為を重要視しないようです。 そういう素晴らしい文化を持つ国に生まれ育つ のですから、大事にしていきたいと思っています。 前までの回答者さま達のなかには、大変苦痛を感じた 方もいらっしゃるようですね。 小・中学校での指導の様子が目に浮かびます。 できあがった作品をただ掲示され、できを評価されるというのは気分が良いものではないですよね。 多少、字のきれいとか汚いとかあるかもしれませんが 文字の組み立てやバランスには、どこか共通する 約束や書くコツがあると思います。 それに気づいて練習したり、他の字を書くときに 生かすこと、そして自分自身が上達に気づいて 書くことに意欲的に取り組むことが書写の目的 だと思います。 パソコンのワープロ機能で書面を作ることでも 見出しや体裁を整えるのにも、役立つ技能は あると思います。 その場だけで役立つ知識や技術よりも 長い目で見る心が、教育には必要ではないでしょうか。

nekoneko37
質問者

お礼

>それに気づいて練習したり、他の字を書くときに生かすこと、そして自分自身が上達に気づいて書くことに意欲的に取り組むことが書写の目的だと思います。 もの凄く納得しました。そしてその中で、書の素晴らしさを伝統精神を伝えられる心を持った先生がいると良いですね。 ただ「これが手本です。はい、書きましょう」という授業でしか考えない先生がいるのも事実です。その事実が今まで回答してくださった方々の中にもいらっしゃるような「苦痛」を生み出してきた。それは紛れもない事実です。ただ、書写の本来のあり方と意義、そしてそこで培われた能力がいかに他の場面でも応用できるかを子どもたちに教えられる教員が育ってくればきっと違うのでしょうね。個人的にはその上で書の歴史や精神性を伝え、興味を持った子どもたちに「書道」の道まで歩ませる道しるべを創ってあげられる授業を望みます。ありがとうございました。

noname#21592
noname#21592
回答No.8

人間には、必要だが、学校では、無理!! 第一、書道を書写と逃げている。 ふでの返しなど、基本を先生が知らない。 女性が多い先生では、作品に重点を置きすぎて意味が無い。 楷書に拘りすぎる。 有名な書家でも、楷書は書けない人は、多い。 自分は、楷書向きでないので、ふでの頭部を大筆で持って、草書から始めた。 先生いわく、人にあった指導が出来なければしない方が良いと。。 墨汁書と書は全く別物でしょ。 学校でありながら、うその塊を教えるから、勉強きらいになる。 幼稚園児がだれでも出来ることが6年生が出来ないのは、なぜ??? 指導の不備でしかないのです。 出来ない先生に税金つかって、やってもらう必要なし。 書道の意のわかる先生は、全国的にもまれ。 茶道しかり華道しかり、女性には、大きな根本をつかませるのは難しい、まじめさは、男よりうんとあるが。

nekoneko37
質問者

お礼

では意の分かる先生には大いにやっていただきたい、ということでしょうか?「書写」と「書道」は根本的に違うと思うのですが・・・「書写は”書き写す”」で「書道は”道を書く”」だと思っています。書写→習字→書道と延長線上にはあるけれども、ただ習字と書道の間には一線を画する「想い」「自分だけの造形美」が加わってくるのでしょう。 「書写」は、日本の伝統文化「書」の基本でありその精神性に”触れる”ことができると共に、「観察力・分析力→洞察力の育成」という、”教育的な意義が十分にある”からこそ必要なのではないかと考えますが・・・質問文の言葉が足りなかったかもしれませんね・・・。 ちなみに書家として言わせて頂けると、今の書家の淡墨で書かれる方々以外の大半は墨を自分では擦らず「墨すり機」を使っておられます。また昔の大家といわれる人たちのほとんども弟子に擦らせていたんですよね・・・。まあ、濃墨で作品を創る先生方は自分で擦っているとそれだけで一日終わってしまいますから・・(汗)

  • www999
  • ベストアンサー率24% (55/223)
回答No.7

書写に限らず、学校教育が本末転倒しているように思います。 パソコンの授業にしても、キーボード、マウスの使い方やワープロのテクニック以前に、ネット上での道徳、マナー、コミュニケーションのあり方、著作権や権利と義務について教えるべきだと考えますが、そうなってはいません。 パソコン教室と化してしまっています。 英語にしても、使える英語の授業でしょうか? 学校によっては学校の先生には無理だからと専門の先生を外部から呼んできて任せてしまっている所も多いようです。 それらの先生はテクニックには長けていますが生徒にとって何が一番大事かまでは教えてくれないと思います。 僕自身が小学生のときに教わった書写の先生は非常に厳しい指導をされる方でした。 いわゆるチープな習字セットの硯は使わさせずに非常に高価な硯をクラス全員分用意されて墨汁も禁止で水から墨を磨りました。 1時間の授業の中ですから、大半が墨を磨って終わるのですが墨汁で十数枚書き散らかすより、心の入った墨で真剣に数枚書くほうが良いとの方針でした。 墨を磨っている間ご自分の書道の考え方、経験談などをお話されるのですが、書道の「道」の部分にちょっとだけでも触れられた気がして、今でも覚えているぐらい印象に残っています。 そういう先生と出会えたことは自分の宝だと思います。 習字は上達しませんでしたが(笑 心の教育なんてものは先生の生き様を見せることでしかできないと思うのですがね。

nekoneko37
質問者

お礼

そうですね。それぞれの中にそれぞれの世界があるとうのはその通りだとおもいます。先生の生き様を見せることが子どもたちを感化させることもあることをわたしも知っています。ですから、先生方にはガチガチにならずにもっと色んな精神文化を人生の中で謳歌して生きて欲しいですね。そんな姿を見て自然と語れることもあるでしょうから・・。

noname#21592
noname#21592
回答No.6

今の学校プログラムは、くりかえしとか、練習体験とか、書写とうは、塾なり行って、家庭の責任でやってください。学校でやることは、中途半端な受験競争への、両親満足のみです。と文部省が公式に路線変更を発表しているのに、在学中のテスト科目以外の授業時間がへって、当然でしょう。もう、文部省は、人間教育は、放棄して、その場の保護者の機嫌とりで終始するときめたのだから、もともと、勉強とかそだちの上での繰り返しや書道は必要に決まっている。だが、墨すりもできず、ごまかし書写しかできないし、それすら人材がいないので、道とつくようなものは、各自、塾で勉強しなさい。と、文部省自身が公式に言っています。文部省のホームぺーじを、みてください。 塾でやる前提なら学校では不要ですね。

nekoneko37
質問者

お礼

なるほど、厳しいご意見ですが一側面を得ているような気がします。文部省→文科省の昨今の狼狽ぶりには私もちょっと情けないです・・。ありがとうございました。

  • kokoa-ki
  • ベストアンサー率9% (4/43)
回答No.5

私は あってほしいという気持ちです。 しかし書道がすきという目線なのかもしれません。 子供というものはなかなかじっとしていることが できませんよね。 書道・書写の伝統という意味で考えていくと、 必ずしもこれをしたら、精神集中できると いうわけではないと思います。 書道という授業の中に書写や現代書など いろいろ広げていったら面白くなるかもしれませんね。 せめて小学校では続けていってほしいです。 うまく答えることができませんでしたが、 参考にしていただけるとうれしいです。

nekoneko37
質問者

お礼

ありがとうございました。中学ではもうほとんどないみたいですね。小学校ではかろうじて週一回が確保されているみたいですが・・・。私も個人的には、書の素晴らしさを教え、またやはり指導のできる先生に教えて欲しいと思います。専科というのも考えて良いかもしれませんね。

回答No.4

私自身の個人的な意見ですが、書写の授業は大大大っきらいでした。 というのも、特に書道というのは、習いに行っている子と行っていない子の差が歴然としますよね。 私は書道を習ったことのない部類で、毎回の書道の時間が苦痛で仕方ありませんでした。 ♯2の方もおっしゃられていますが、筆の使い方などほとんど教えてもらえずに、教科書の例にいかに似せて書くかということだけを意識していました。 しかし習ったことのない私はいつまで書いていても納得できる字が書けず、それどころか上手な子はあっという間に仕上げてしまって焦るし、うまくかけない自分にイライラするし、授業時間がせまってくると先生にも急かされるしで、とてもじゃないけど質問者さまのおっしゃるような「静かな中で集中して自分と対話することのできる精神文化」では、ありませんでした。あげくのはてには教室の後ろに張り出されますよね。 大変な苦痛でした。 今となっては嫌だったという思い出しか残っていません。 何より苦痛だと思ったのは、男の子よりも下手な字しか書けない時でした。 男女差別的な発言かもしれませんが、一般的に女の子の方が字がキレイな子が多いですよね。 私もペン字では年相当の字が書けていました。が、書道ではそうはいかず、男の子よりも下手な字を張り出されるのが大変苦痛で恥ずかしかったです。 また、クラスの中には、教科書の上に半紙を重ねて見本が映るようにし、なぞって書いている子なんかもいました。 当時は考えたこともありませんでしたし、書道の時間が必要か不必要かということも今こちらの質問を見るまで考えたこともありませんでしたが、確かに意味があったかというと、今では嫌だったという思い出以外何も残っていません。 ただ、学校の授業から書道の時間を取ってしまったら、筆を握ったことのないまま一生を終える人が増えていくのは間違いないと思います。実際私は中学校以来一度も筆を握っていません。 大切な日本文化ではあることなど考えると、難しい問題ですが、削られるのも仕方ないかなとも思ったりします。 大変個人的な意見でした。

nekoneko37
質問者

お礼

筆使いなども教えてもらえずに一方的に直されるとそれはいやですよね・・・。大変参考になりました。

  • sekijitsu
  • ベストアンサー率33% (19/57)
回答No.3

書写の時間は必要だと思います。 ただ、英語よりどうだというように比べてる訳ではありません。英語にさく時間が仮に2倍になったとしても、学校で教える内容が変わらないならば全く意味はないと思います。よって時間を増やすというのは安易な発想で、逆効果だと思うのです。どうも、内容より時間がものさしになっているような気がします。 少し話がそれました。私自身は字を書くという行為が好きです。パソコンばかりやっていると字を忘れるなどという事がよくいわれますが、それよりもっと怖いことがあります。キーボードを叩きながら考え事をする人って実際どれほどいますかね。いないのではないでしょうか。筆にしてもペンにしても、考えるという行為と一体となっている点で、書は素晴らしいと思います。 字を書くという行為と文字を入力するという行為は本質的に全く別の行為であると私は思います。つまり字を忘れることより怖いこととは、自ら考えたり表現したりできなくなってしまうことなのです。これはとても微妙というか繊細なことではあります。特に日本語はその字一つ一つに意味を持つという稀有の良さを持っています。 自分と対話することができるのは、その字一つ一つに息を吹き込むことができるからではないでしょうか。しかしながら、現在の書写の授業でこのような文化をうまく教えられているかといえば、う~んと唸ってしまうのも分かります。しかし、だからといって安易に切り捨てるのは早計だと思います。まずは書写の授業を見直すことをすべきではないか。と、私は思います。

nekoneko37
質問者

お礼

>考えるという行為と一体となっている点で、書は素晴らしいと思います。 >現在の書写の授業でこのような文化をうまく教えられているかといえば、う~んと唸ってしまうのも分かります。 その通りだと思いました。やはり現場の意識の問題でしょうか・・・子どもたちに伝わってないようですもんね・・。

  • kimagure
  • ベストアンサー率28% (10/35)
回答No.2

個人的に書写の授業は嫌いです。 私は小学校3年から高校3年までの10年近く書道塾に通っていましたので習字は好きですw 字を書くことはとても集中力が要りますし、パソコンが普及している今自分で文字を書くことが少なくなっているのでとても貴重だと思います ですが、現在学校教育では書写を教えれる先生がほとんど居ないのが現象です。私が在学中書写を教えてくれた先生は手本を見て生徒が筆で書いたものを筆の使い方など教えずここの形が悪いからこういう形にするようにとペンで直していました。 私は書道塾に通っていたので筆の使い方をきちんと教えてくれなければ形も線もきれいに出ないことを知っていましたし、何より筆で書いたものをペンで直されたのが気に入らなくて大嫌いになりました。 書は想いの全てがこめられるものです。 書写をなくしたくないという思いは強いですが教えれない、間違ったことを教えるのでは授業をするだけ無駄なように思います。 今現在の教育は人間としての根本を学校で教えてくれるというよりは社会に出たときに即使える人間になるためのことを教えてくれているという印象を受けます。 パソコンが普及して文字を書く機会が少なくなった今、機会の少ないものに時間をさいて教えるよりこれからの社会に対応して英語やパソコンなどの授業を多くしていこうというのが学校側の考えなのでしょう。 とても悲しいことですが、教えれる先生もすくなくふざけた指導をうけた生徒が書の大切さを理解するよりは社会に対応した授業を受け今後に役立てるほうがよっぽど効率がいいと思います。 まったく悲しいことです

nekoneko37
質問者

お礼

なるほど、確かにその通りですね。ただ「はい、書きましょう」では素晴らしさを理解するなどということはまずないですよね・・・。現場の指導不足というのは大いにあるかもしれません。ありがとうございました。

  • bullfrog
  • ベストアンサー率22% (302/1370)
回答No.1

じゃあ何を削るか。という問題なのでしょうね。 重要度を考えていったときに、いろいろな綱引きの結果書写になったのではないかと。 次は技術が危ないです。僕は書写の前に技術が危ないと思っていたのですが。 個人的には、総合的な学習の時間がいらないと思います。その分学校裁量の時間があるといいですね。行事に使っても学活に使っても教科に使っても、もちろん総合的な学習の時間のような事をしてもいい時間として。その方が、学校の特色がわかりやすい形で出るでしょう。 そのあたり頼みますよ>文科省

nekoneko37
質問者

お礼

なるほど、そもそも「問題解決的学習や実体験」を他の教科できちんと取り扱い、家庭や地域がもうすこし教育問題に協力的になれば総合の時間はある意味いらないのかもしれませんね。それがないから総合の時間が創られたようですから・・・。ありがとうございました。

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